「リリアの底層の追跡劇」
乳母は走っていた。
足の痛みも、
冷たい夜風も、
擦り切れた足裏も、
なにも感じなかった。
ただ聞こえるのは――
背後から迫る怒号、
荒々しい足音、
憎悪に満ちた声。
「──いたぞ! 乳母だ!
赤ん坊を連れて逃げてる!
路地を封鎖しろ!!」
リリアの底層〈フォソ〉全体が、
彼女を睨みつけ、
喰らおうとしていた。
◆ 追われる中で、赤子たちは動き出す
九人の赤子たちは泣き、震え、もがき――
それぞれの魂と前世をそのままに。
✦ リンカ
火のような泣き声。
抱えている腕が熱くなる。
「な、熱っ……この子……!」
握った拳は、すでに戦う者のようだった。
✦ サヤ
必死に布を掴み、泣き叫ぶ。
「……ひとりは……いや……いや……」
涙は乳母の腕を濡らす。
✦ カイレン
泣かない。
ただ速い呼吸で周囲の危険を察知している。
「……こわ……い……」
まるで皆の恐怖を背負うように。
✦ ウラ
震える喉から、小さな歌のような音。
壊れた子守歌。
けれど優しい。
✦ マイア
存在しない光を見つめて手を伸ばす。
銀色の輝きがその瞳に揺れる。
✦ コマ
泣かない。
ただ静かに、世界を観察する。
暗闇、足音、道筋――
すべてを記憶するように。
「……赤ちゃんじゃない……」
乳母は背筋を震わせた。
✦ ノア
小さな手で、サヤ、カイレン、マイアを優しく触れる。
恐怖の中でも“安心”を伝える温もり。
乳母の胸にも、その温かさが届いた。
✦ ルミ
体温が低い。
唇が青い。
震えが止まらない。
「だめ……がんばって……!」
前世の影――
酒、病気、苦しみ――
その痕を残して。
✦ ダエル
泣かない。
怯えない。
ただ後ろを見つめる。
追う者たちを。
真夜中の闇を。
そこに宿るのは、赤子が持つはずのない――
決意。
本能。
そして“導く者”の眼差し。
胸の奥が、淡く光り始める。
◆ 最初の封鎖
細い路地を曲がった瞬間、
乳母は立ち止まった。
行く手を塞ぐ男たち。
酔漢、
盗賊、
人買い、
刃物を持つ住民。
誰もが目を光らせる。
「いたな……魔力持ちの赤ん坊を盗んだ女だ。」
「引き渡せ。
ひとりでいい。
そうすりゃ、見逃してやる。」
乳母は震えた。
「……ひとりでも……渡せない……!」
男は刃を向けた。
「じゃあ道連れだ。」
◆ ダエルの光
その瞬間――
ダエルが輝いた。
暖かい光。
優しいのに抗えない光。
男たちが顔を覆う。
「なんだよ……ッ!?」
光が強まる。
そして――
ぼんッ
爆音でなく、
破壊でもなく、
ただ“押し退ける力”。
男たちがよろめく。
乳母はその隙に走った。
◆ 追跡はさらに激しくなる
夜の底層が目覚めた。
「魔力のある赤子だ!」
「捕まえろ!」
「白い買い手〈ホワイトバイヤー〉が高値で買うぞ!」
扉、窓、屋根――
あらゆる場所から手が伸びる。
乳母は殴られ、
引っ張られ、
転びかけながらも――
走る。
ダエルが初めて泣いた。
乳母のために。
光が弱まった。
もう限界だ。
◆ ふたたび現れる影
血まみれのローブ。
折れた腕。
狂った眼。
――リコレクター(回収屋)たち。
「逃がすか……九人とも……」
「ここで終わりだ……」
乳母の震えが止まらない。
「たすけて……誰か……!」
だが――
ここはリリアの底層。
誰も助けない。
◆ 二度目の奇跡
布の中から、震える歌。
ウラが歌っていた。
脆く、
かすれ、
それでも美しい。
音が路地に響く。
回収屋たちの動きが止まる。
「なん……だ……この……歌……」
ほんの一瞬。
だが、それで十分。
乳母は階段へ逃げる。
足が裂け、
血が滴り、
息が切れる。
それでも走る。
◆ 最後の障壁
開けた場所。
朽ちた橋。
下には汚れた死の水路。
もう逃げ道はない。
「いや……もう……いや……!」
その瞬間――
コマが目を開いた。
橋の下の影を指し示すように、
視線をそらさず見る。
乳母は理解した。
「……そこ……なのね……!」
橋の隙間。
大人ひとりがやっと通れる細い穴。
九人を抱えて――
無理だ。
でも。
やるしかない。
乳母は躊躇わず身をかがめた。
岩が皮膚をえぐり、
冷たい水が腰まであり、
闇が包み込む。
だが――
静寂。
追手たちの足音が、頭上を走り去る。
誰も気づかない。
今だけは。
乳母は九人を抱き締めた。
涙が落ちる。
「……奇跡か……魔か……運命か……
わからない……でも……助かった……」
赤子たちは静かだった。
ダエルは、疲れ切った体で乳母の胸に頬を寄せた。
暖かい。
生きている。
橋の上を、怒号が遠ざかる。
しかし――
安全とは言えなかった。
まだ、ほんの始まりだった。
その夜――
生まれ変わってから初めて、九人の赤子たちは娼館の外で眠りについた。
だがその眠りは、
王国で最も危険な場所の只中にあった。




