「乳母の決断」
夜はすでに落ちていた。
星のない夜――空がこの場所を見ることを拒むような、暗い闇が《リリアの底》を覆っていた。
乳母は眠れなかった。
収集者たちが襲ってきたこと。
白き買い手に「所有物」と刻まれたこと。
そして、ダエルが光り、他の子どもたちも魔力を見せたこと。
何ひとつ忘れられない。
娼館は静かだった。だがそれは嘘の静けさ。
危険を知らせる、前兆の音なき音――
◆ 「ここに置いておけない……」
乳母はボロ布に包まれた赤ん坊たちの前にひざまずいた。
ダエルは静かに、どこか遠くを見るように呼吸している。
ノアは夢の中で微笑んでいた。
リンカは眉を寄せ、不機嫌そうに眠り、
カイレンは小さく震えながら温もりを求めている。
ウラは寝ながらも小さな旋律のような声を漏らし、
コマは赤ん坊とは思えぬ冷静な眼差しで、何かを見つめている。
サヤは布を必死に握りしめ、
マイアは夢の中で泣きそうな表情を浮かべ、
ルミは息を詰まらせるように震えていた。
乳母は唇を噛む。
――もう無理……
これ以上ここにいさせたら、いつか必ず“売られる”。
いつか“壊される”。
いつか“連れて行かれる”。
涙が一粒、ほおを伝う。
「私は母親じゃない……
でも……私しかいないのよ……あなたたちには……」
必死で声を抑えた。
「……このままここで死なせるわけにはいかない……」
ダエルを見る。
「ねぇ……あなたもそう思うでしょ……?」
ダエルは目を開けた。
見つめ返すように。
乳母の身体が震えた。
「……やっぱり……」
深く息を吸い込む。
そして初めて声に出した。
「――ここを出るわ。この地獄から。」
◆ ◆ 準備
乳母はすぐに動いた。
恐怖が身体を駆り立てた。
古い布を裂いて子供を背負う帯を作り、
硬いパン、薄めたミルク、水瓶、
何年も隠してきた数枚の硬貨を袋に押し込む。
鍋を動かして手を火傷した。
どうでもいい。
木箱を壊して指を切った。
構っていられない。
息もできないほど焦っていた。
だが止まらない。
収集者は必ず戻る。
白き買い手はどこにでも目を持っている。
娼館はもう避難所ではない。
――罠なのだ。
◆ ◆ 母親たちは戻らない
今夜、母親たちはまだ“仕事”をしている。
それが逃げやすさに繋がる。
そして同時に――残酷さにも。
乳母は彼女たちを思った。
毎晩客に蹂躙され、
泣きながら笑い、
逃げ出したくても逃げられない女たち。
乳母自身もここから出たかった。
だが、理由が足りなかった。
今は違う。
彼女は九人の赤ん坊を見つめた。
――この子たちこそが、私の理由。
◆ ◆ 赤ん坊たちの反応
乳母が一人ずつ抱き上げると、不思議なことが起こった。
ダエルは腕を広げ、
ノアは優しい声で乳母を落ち着かせ、
カイレンは震えを止めた。
サヤは帯にしがみつき、
マイアは泣き止み、目が光った。
リンカは小さく唸り、
ウラは甘い音を響かせ、
コマは――赤ん坊なのに、頷いた。
乳母の背筋に冷たいものが走る。
「……普通じゃない……
でも……この子たちは……私の子よ……」
最後にルミを抱く。
体温が低すぎる。
「大丈夫よ……頑張って……お願い……」
何重もの布で包んだ。
その時――
◆ ◆ 足音
廊下で足音がした。
重い。
遅い。
確実にこちらへ向かってくる足。
乳母は固まる。
「……そんな……もう来たの……?」
扉の隙間に影が揺れる。
外から声。
「開けろ。子供たちを引き渡せ。」
赤ん坊たちがざわつき始める。
乳母は歯を食いしばる。
「いや……
今度こそ……絶対に……」
◆ ◆ 決断
部屋には裏路地へ通じる小さな窓がある。
ゴミ捨てにしか使ったことがなかった。
だが今は――逃げ道。
乳母は赤ん坊を胸に抱え、帯で固定し、
ダエルとルミを心臓の位置に寄せた。
窓を押し開く。
腐った木が崩れ落ちる。
冷たい夜風が吹き込む。
「……もう少しよ……もう少し……」
扉の前で足音が止まった。
「開けろ。
さもなくば力づくで開ける。」
乳母の叫び。
「――いやぁぁぁ!!」
そして窓から飛び出した。
◆ ◆ 最初の一歩
裏路地は臭く、汚れ、暗かった。
だが闇は味方だ。
乳母は走った。
裸足で、
冷たい石畳を打ちながら、
九つの命を抱え、
心臓が破れそうなほどの鼓動で。
背後から怒号。
「逃げたぞ!!
乳母が子供を連れて逃げた!!
すべての出口を封鎖しろ!!」
赤ん坊たちが一斉に泣く。
ただ一人――
ダエルだけが泣かなかった。
振り返りながら、静かに目を開いていた。
まるで知っているかのように。
この夜が――
彼らの運命を変える夜だということを。
リリアの底 全体が目を覚ました。
たったひとつの目的のために――
九人の魔力を持つ赤子を抱えて逃げる女を捕まえること。
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