『狩人の眼(まなこ)』
夜明けはまだ来ない。
森は湿り気を帯びた濃い闇に沈んでいた。
だが――
彼は迷いもせず進む。
まるで闇そのものが、彼を守っているかのように。
狩人は枝を静かに払い、
折らず、
音を立てず、
痕跡すら残さなかった。
ただ――吸い込む。
獣のように、空気を嗅ぎ分ける。
口元に、不気味な笑みが浮かぶ。
「……匂いが新しい。
セレア、お前はついさっきここを通ったな。」
指先で木の幹をなぞる。
その爪は厚く、擦り減り、まるで“鉤爪”のようだった。
彼は膝をつき、土に触れる。
掠れた、だが静かな声で呟いた。
「九つの呼吸……
小さく、速い。
もう一つ……大人の男。
そして女……お前だ、セレア。」
顔を上げる。
「……それともう一つ。
強い。
とんでもなく強い気配。」
笑みがさらに広がる。
「片目の男……まだ生きてやがったか。」
ゆっくりと立ち上がる。
森の木々が、まるで彼を避けるように道を開けた。
ふいに彼は立ち止まった。
細い糸――
草陰に巧妙に仕掛けられた罠。
彼は笑う。
「これで止められるとでも?」
一歩下がり――
棒で糸を引っかける。
上から枝が落ち、石が転がり落ちる。
彼は微動だにしない。
「よく考えたな。
八つか九つの小さな手……子供の仕掛けだ。」
森の中をゆっくり歩きながら、
彼は愉しげに呟いた。
「戦う子供たちか……
面白い。」
さらに進むと、
地面が妙に柔らかい。
彼は笑った。
「……土がいじられてる。
原始魔法だ。
しかも新しい。」
わざと足を踏み込もうとし――
落ちる前に華麗に後ろへ跳ぶ。
「脚を折るための落とし穴か。
あの片目……よく仕込んだな。」
倒木の上の石に触れると、
淡い光が指先に残った。
「光魔法……
子供が使ったのか。」
静かに、くつくつと笑う。
「この森は……小さな猛獣の巣だな。」
どの木を通っても、彼の足音は消え続ける。
そして呼吸するたび、笑みが深くなる。
「セレア……お前は昔から、恐怖の匂いが強かった。
今も変わらない。」
枝に引っかかった淡い布切れをつまむ。
「この香り……
娼館で使っていた香だな。」
鼻先に近づけ、
恍惚としたように微笑む。
「……見つけた。」
その瞳から、感情が消える。
冷たく、空虚に。
「誰も……俺からは逃げられない。」
彼は木々の隙間から、遠くの“建物”を目にした。
古い隠れ家。
打ち捨てられたように見える。
だが――
彼を騙すことはできない。
「壁が強化されてる……
入口も制限……
廊下にも罠。」
再び膝をつき、土を指でなぞる。
「ここに駆け込んだのは今朝。
一人が泣いていた……
もう一人が抱きしめて慰めていた。」
唇にゆっくり笑みが刻まれる。
「……あいつらのそばにいると、安心するのか?
セレア。」
小さな窓の隙間を見上げる。
中に人影――
子供が数人。
男が一人。
女が一人。
彼は舌で唇を濡らす。
「あいつらが守ると言うなら……
そいつらから先に殺す。」
一歩踏み出す。
その瞬間――
罠が発動した。
巨大な石が落ち、地面を砕く。
彼はまばたきもしない。
「……いい。
抵抗は嫌いじゃない。」
さらに進むと、
小さな鈴が――
チリン……チリン……
今度は、笑わなかった。
「……気づかれたな。」
彼は槍を地面に突き刺し、
不気味な沈黙の中で呟いた。
「――さあ。
“狩り”の時間だ。」
エイデンは、上階の小窓から外を見張っていたが、
その目が大きく開いた。
「……来た。」
ダエルはごくりと唾を飲み込む。
少女たちはダエルの背後に並び、
震えながらもその瞳に決意が宿っていた。
セレアは、必死に両手を握りしめる。
エイデンは剣を手に取り――
ただ一言だけ告げた。
「――備えろ。」




