「最後の静かな夜」
森の空気は静かだった。
あまりにも静かだった。
風もない。
鳥の声もない。
虫の気配さえない。
自然そのものが、何かが近づいていることを知っていた。
しかし、避難小屋の中だけは温かな灯りに満ちていた。
セレアは油ランプを全部灯した。
まるでその光で世界の影を追い払えると信じるように。
少女たちは即席のテーブルを囲んで座っていた。
ダエルとエイデンは近くでナイフを研ぎ、武器を整え、最後の罠を確認していた。
恐怖の中でも——
笑い声はあった。
最初に口を開いたのはノアだった。
「……こわいよ。」
ルミがそっと寄り添った。
「わたしも……でもセレアに心配させたくない。」
「言うべきだよ。」
コマが真剣な顔で言った。
「その方が、もっと守ってもらえる。」
ウラが手を挙げた。
「ねぇ!いいこと思いついた!」
みんなが振り向く。
くしゃくしゃの紙を持ったウラは笑った。
「“明日への手紙”を書こうよ!
死ぬためじゃなくて、生きるために!
なんで戦うのか、忘れないように!」
マイアが拍手した。
「すてき!」
カイレンが鉛筆を取る。
「そうね……明日を迎えられたら、自分の書いたものを読みたいわ。」
少女たちが一斉に紙を取る。
ダエルも手を止めた。
「ぼ、僕も……書いていいのか?」
「もちろんだよ!」とノア。
「ダエルは私たちの仲間なんだから!」
セレアが後ろから微笑む。
「いいアイデアだと思う。」
エイデンはため息をつきつつ紙を手に取った。
「書かないと寝ないんだろ?」
少女たちは丸く座った。
膝の上に紙。
ランプの灯りが顔を照らす。
やさしい沈黙。
そして書き始めた。
震える字。
丸っこい字。
大きくて幼い字。
その内容は——
「みんなと生きたい。」
「もう誰も失いたくない。」
「全部終わったら、ダエルと花を見に行きたい。」
「怖くない魔法を学びたい。」
「これからも家族って呼びたい。」
ダエルも静かに書いた。
けれどいつの間にか、手が震えていた。
セレアが近づく。
「何を書いているの?」
ダエルはあわてて紙を隠した。
「な、なんでも……ちょっとしたことだよ……」
「明日、見せてくれる?」
ダエルは手を見つめた。
「……生きてたら、うん。」
セレアは彼の髪をくしゃっと撫でた。
「生きるわ。
みんなで生きる。」
だけどその声には深い悲しみがあった。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。
セレアはスープを作った。
平和に食べられる最後の夕食。
温かいパン。
甘い果物。
そしてエイデンが大切に取っておいた肉。
「まるで宴じゃん!」とリンカ。
「誰かに殺される前の最後の晩餐だけどな。」
コマが冷静に言う。
「コマぁぁぁ!!」とみんな。
エイデンが久しぶりに笑った。
食事の間、
ノアとマイアは光と鉱石の話をし、
サヤとウラは声真似で遊び、
ルミはダエルの腕にしがみつき、
カイレンは誰も頼んでない助言をし始め、
セレアは皆を宝物のように見つめていた。
ダエルは、避難小屋に来て初めて、本物の安らぎを感じた。
やがて皆が眠りにつき、布団の上にごちゃごちゃに積み重なって寝息をたて始めた頃。
ダエルは外へ出た。
森は真っ暗だった。
星はなかった。
月のない夜。
まるで象徴のように。
セレアが後ろから出てきた。
「眠れないの?」
ダエルは首を横に振った。
「……明日のことばかり考えてしまって。」
セレアは隣に立ち、腕を組んだ。
「ダエル。
ずっと強くある必要なんてないわ。」
ダエルは歯を食いしばった。
「でも僕が強くなきゃ……
誰かを死なせるかもしれない。」
「そんなこと、ない。」
「あるよ!」
ダエルの声が震える。
「もし失敗したら……もし足がすくんだら……また日本の僕に戻ったら……
誰にも必要とされなかった僕に……
影みたいだった僕に……
価値のない僕に……
戻っちゃったら……!」
セレアはそっと、彼の胸に手を置いた。
「ダエル。
あなたには価値がある。
ここでは。
わたしにとっても……すごく、大切。」
ダエルの目が大きく開く。
「セレア……」
「あなたは希望をくれるの。」
セレアは目を伏せた。
「娼館で育ったわたしに……優しさを向けてくれる人なんていなかった。
男は獣みたいだった。
母はわたしを守って死んだ。
その後は……物みたいに扱われて……
逃げるまで、ずっと。」
声が震える。
「誰も……わたしのことを気にかけてくれなかった。
でも……あなたたちに出会って……
ダエルに出会って……
初めて、“家族”って思えたの。
家族はね……
一人で抱えるものじゃない。
みんなで抱えるものなの。」
ダエルの胸が痛くなる。
「セレア……僕……」
言い終わる前に、セレアが抱きついた。
強く。
怖くて。
求めるように。
優しく。
「ダエル……失いたくない……」
ダエルは震えながら、ゆっくり彼女を抱き返した。
「僕も……失いたくないよ……」
木々の間を風が吹き抜けた。
冷たく。
鋭く。
それでも二人の抱擁は、あたたかかった。
まるで静かな誓いのように。
遠くに、二人の姿が見えた。
寄り添って、
小さな灯りのように温かく、
しかし明日の恐怖を背負って立つ二人。
エイデンは微かに笑った。
「……準備はできてるようだな。」
そう呟くと、
音を立てないようにそっと扉を閉めた。
まるで、その静かな時間を壊したくなかったかのように。
◆ ◆ ◆
一方その頃、森の奥では——
黒いフードをかぶった男が、
鋭い槍の刃をゆっくりと砥石に走らせていた。
キィ… キィ…
静寂を切り裂くような金属音。
月明かりはない。
光るのは槍の刃と——
彼の目だけだった。
その影は獣のように歪み、
まるで腹を空かせた野生の何かが潜んでいるようだった。
男は口角を歪めた。
「……明日だ。」
刃に指で触れ、
血がにじんでも気にもしない。
「明日、お前を連れ戻す。
セレア。」
低く、かすれた声。
その声には狂気と執念が混ざっていた。
男の目が異様な光を放つ。
森が息を止めたかのようだった。
そして——
夜は、ゆっくりと
静かに
死んでいった。




