「乳母がくれた名前」
夜は明けても、赤灯街にはまだ疲れの匂いが残っていた。
女たちはひとり、またひとりと戻ってくる。
足を引きずり、安い香水と汗と諦めをまとって。
二階の薄暗い部屋で、乳母はそっと扉を閉めた。
外は騒音。
中は静寂。
壊れそうなほど脆い静けさだった。
◆「名前がなければ…存在できない」
乳母は部屋の真ん中にひざまずいた。
震える手を胸の前で組む。
それは寒さではなく、恐れでもなく――決意だった。
「名前がなければ…この国では生きられない。
名前がなければ…存在すら認められない。」
九人の赤子たちを見渡す。
小さくて、弱くて、でもどこか異質な気配を持つ顔。
「だから…お母さんじゃなくても…
私が、あなたたちに名前をあげる。」
涙をぬぐい、深く息を吸い込んだ。
そして――始めた。
◆ 光に守られた赤子 ―― ダエル
黒い髪。
まるで夜そのもののように深い色。
胸の奥で、小さな光が脈打っていた。
乳母はそっと抱き上げた。
「……あなたには光がある。
こんな闇の底に生まれても、消えない光が。」
柔らかく髪をなでる。
「あなたの名前は――ダエル。
“まだ炎を持つ者” という意味よ。」
赤子は静かに目を開き、受け入れるように瞬いた。
◆ 泣き声で皆を落ち着かせる子 ―― ノア
次に抱いた少女は、息がとても穏やかだった。
淡い茶色の髪、優しい瞳。
「あなたの心…とてもやさしいのね。」
微笑んで名を授けた。
「ノア。
“小さな希望” という意味。」
その瞬間、少女はふわりと笑った。
◆ 燃える瞳の女の子 ―― リンカ
次の少女は、熱を帯びた泣き方をしていた。
赤みを帯びた髪がまるで火種のように揺れる。
「あなたの中には…火がある。」
わずかに怖さを感じながらも、優しく名を告げた。
「あなたは リンカ。」
泣き声が止み、目の奥の炎だけがゆらりと揺れた。
◆ 歌うように泣く子 ―― ウラ
もう一人は、ほとんど泣かない。
泣いても、小さく歌うような声だった。
「あなたの声…光のように優しい。」
乳母は頬に触れた。
「あなたは ウラ。
短くて、明るくて、やさしい名前よ。」
手をのばすように小さな指が震えた。
◆ 深い瞳を持つ子 ―― コマ
その子は泣かなかった。
ただ、静かに見つめていた。
赤子とは思えないほど深い瞳で。
「……あなた、何かを知ってるの?」
背筋に冷たいものが走ったが、そっと抱きしめた。
「コマ。
物語を語るような目だから。」
少女は瞬きをひとつだけ返した。
◆ 震える赤子 ―― カイレン
次の子は、触れただけで怯えるように震えていた。
だが抱き上げると、嘘のように落ち着いた。
青黒い髪、深い水のような瞳。
「水みたい……弱そうで、でも強い。」
胸に抱き寄せながら囁く。
「あなたは カイレン。」
呼吸がゆっくりと安定した。
◆ 温もりを求める子 ―― サヤ
小さな手が必死に乳母の指を握る。
離したくない。
ひとりになりたくない。
黄金色の髪、あたたかい体温。
「さみしいのね…大丈夫よ。」
抱きながら名付けた。
「サヤ。
泣きながらも、人を抱きしめる子。」
小さな体が胸にぎゅっと寄り添う。
◆ 夢を見る赤子 ―― マイア
その子は深く眠っていた。
だが眉のわずかな震えが、悲しい夢を語っている。
薄い銀髪が朝の光を反射する。
「あなたは…眠りながら何かを見ているのね。」
額に触れながら言った。
「あなたは マイア。」
眠ったまま、かすかに息を弾ませた。
◆ 酒の匂いをまとった子 ―― ルミ
最後の少女は、不思議な匂いがした。
酒の残り香。
湿った草の匂い。
そして…恐れ。
薄い紫の髪、怯えた瞳。
乳母は胸が痛くなった。
「こんな小さな体で…どれだけ怖かったの?」
ぎゅっと抱きしめた。
「あなたは ルミ。
闇に生まれても、光を失わない子。」
彼女は胸に顔を埋めて震えを止めた。
◆ 「これで…あなたたちは“存在”できる」
乳母は静かに呟いた。
「ダエル、ノア、リンカ、ウラ、コマ、カイレン、サヤ、マイア、ルミ……」
九人の赤子が、古びた布の中で眠っている。
「どんな未来が来ても……
この世界に負けないで。」
だが外では――
男たちの笑い声。
乱暴な足音。
怒号。
取引の声。
赤灯街は決して眠らない。
貧困も、暴力も、絶望も。
その音を背に、乳母は祈るように目を閉じた。
九人の名は――
この地獄の底で生まれた最初の希望だった。
その夜、乳母はまだ知らなかった。
自分が名を与えたその九人の子どもたちが、
やがて王国の運命そのものを変える存在になることを。




