赤灯街の泣き声
世界は灰色で……冷たかった。
九人の赤子たちは、湿気と安酒と腐った木の匂いが充満する狭い部屋で、かすかな呼吸を繰り返していた。
天井にはひびが走り、破れたカーテンからは、くすんだ黄の光が差し込む。
若い女――深いクマと疲れ切った肌を持つ彼女は、震える腕で一人の赤子を抱いていた。
本当の母ではない。
彼女は乳母だった。
夜だけは「働かされない」、この場所で唯一の女だった。
◆ 底辺に生きる乳母
乳母は一人ひとりの赤子に近づき、呼吸、泣き方、熱がないかを確かめる。
その声は柔らかい……だが積み重なった悲しみが滲んでいた。
――大丈夫……もうここにいるから……
世界は残酷だけど……あなたたちは、ひとりじゃない……
赤子たちは喋れない。
だが心では理解していた。
教師。
花屋。
アイドル。
作家。
医者。
パン職人。
芸術家。
事務員。
そして浮浪者。
九つの大人の魂が、弱い身体に閉じ込められていた。
九つの壊れた人生が、最底辺で再び目を開けた。
◆ 「母親たちは……仕事中だよ」
階下から激しい音が響いた。
乳母の肩が跳ねる。
――もう始まった……と彼女は小さく呟く。
その音はあまりにも馴染み深い。
無理に作られた笑い声。
重い足音。
男たちの声。
抑えられた悲鳴。
古い壁に叩きつけられるような衝撃。
この赤灯街では、女に選択肢などない。
他の仕事など存在しない。
逃げ場など、どこにもない。
乳母は唇を噛んだ。
――あなたたち……ここに生まれるべきじゃなかった。誰ひとりとして。
涙を拭い、再び世話を続けた。
◆ 大人の目をした赤子たち
元・浮浪者の赤子は、静かに目を大きく開いた。
それは新生児の瞳ではなかった。
痛み。
怒り。
理解。
この空気……
この匂い……
この貧困……
あまりにも見覚えがある。
他の赤子たちも反応していた。
壊れた人生の記憶が、眠ることを拒んでいた。
芸術家は、破られた絵を。
パン職人は、消えた炉を。
医者は、救えなかった命を。
アイドルは、貼りつけた笑顔を。
教師は、背負った罪を。
皆がゼロに戻った。
いや、それ以下へ。
底の底まで。
◆ 乳母を「買った」男
階段を踏みしめる重い音が近づく。
どす黒い泥のついたブーツ。
血の匂い。
酒の匂い。
暴力の匂い。
乳母の顔が真っ青になる。
――また……あの男が……
巨体の男が扉を開けた。
無言で金袋を机に落とす。
「今夜は全部お前が面倒を見ろ。
他の女は仕事中だ。」
乳母は小さく震えながら答える。
「……分かりました。誰も傷つけません……」
男は彼女を睨む。
「頼むぞ。死んだ赤子は値がつかねぇ。
泣き声で客が逃げても困るんだよ。」
赤子たちの心に冷気が走る。
乳母も同じだった。
男が去ると、彼女はその場に膝をついた。
――ここは地獄……。
あなたたちは……何もできないまま……
◆ 空気を変えた泣き声
一人の赤子――元・医者――が泣き出した。
それは普通の泣き声ではなかった。
痛み。
記憶。
後悔。
怒り。
そのすべてを含んだ“叫び”だった。
乳母は焦る。
――だめ……だめ……!聞かれたら……殴られる……!
だが次の瞬間。
他の赤子も泣き始めた。
連鎖するように。
響き合うように。
絶望のハーモニー。
魂の抗議。
乳母は呆然と呟いた。
「どうして……どうして同時に……?」
彼らはもう普通の赤子ではなかった。
あまりにも苦しんだ大人だった。
そして――忘れていなかった。
◆ 最初の魔力の火花
空気が震えた。
かすかに。
だが確かに。
乳母は思わず後ずさる。
――な、何……?
一人の赤子の胸から、弱い光が零れ出た。
元・浮浪者の赤子だった。
かすかな希望の光。
しかし同時に――危険な火種。
他の赤子たちの泣き声が止まる。
その光に吸い寄せられるように。
乳母は口を押さえた。
――赤子が……魔力を……?
ありえない。
少なくとも、この街では絶対に。
だが光は消えなかった。
消えない心臓のように、脈打ち続けた。
◆ 言葉なき誓い
赤子たちは喋れない。
だが、思考はあった。
その夜。
ぼろ布と涙と震える息づかいの中で――
九人の心に、同じ想いが芽生えた。
「もう二度と落ちない。」
「今度こそ……世界を変える。」
「たとえ、最底辺からでも。」
そして――涙と飢え、禁じられた魔力の中で、
九人の赤子たちは、王国を燃やし尽くす反逆への“最初の一歩”を踏み出した。
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