「世界より先に“淵”を知った少女」
洞窟の中は静まり返っていた。
エイデンは封鎖された出口の封印を確認し、監視者たちが戻ってくるまでの時間を計算していた。
一方のセレアは、赤ん坊たちのそばに座り込み、
床の一点を見つめたまま動かなかった。
ルミは彼女の胸に寄りかかり、弱々しく呼吸している。
他の八人は自然と円を作り、まるで彼女を守るように寄り添って眠っていた。
エイデンは視線をセレアへ向けた。
エイデン
「その顔は……恐怖だけじゃない。
“記憶”だ。」
セレアは数秒遅れて、わずかに頷いた。
セレア
「……そう。
今日、あの子たちがしたこと……
私は、もう一度味わっただけ。」
彼女は静かに語り始めた。
セレア
「私は村で生まれたんじゃない。
家もなかった。
父親も……いたのかどうかも分からない。
望まれた子だったのか、それとも……金を払って生まれただけなのか。」
エイデンは何も言わない。
ただ、続きを待つ。
セレア
「私が生まれたのは……ここ。
この淵。
あの子たちが見たような部屋……煙と叫び声と、
入ってくる男たちが子どもなんて視界にも入れない場所。」
半分眠っていたルミが、彼女の服をぎゅっと掴む。
セレアは無意識に頭を撫でた。
セレア
「母は……そのひとりだった。
名前なんてなく、ただの“呼び名”。
それでも、私を必死に守ってくれた。
男たちが来るたびに私を隠し、
自分は食べなくても、手に入れた少しの乳を私に飲ませて……
私が生きられたのは、母のおかげ。」
声が震えた。
セレア
「母は……本当に良い人だった。」
そして目を閉じる。
セレア
「私が六歳のとき……母は噂を聞いたの。」
エイデンの目が鋭くなる。
エイデン
「噂?」
セレア
「“出口がある”って。
封印が完全じゃない古い通路。
細いけど……痩せた女と子どもなら通れるって。」
彼女の目が潤む。
セレア
「母は、男たちが酔っていた夜、私の手を握って走った。
裸足で、息を殺して。
震えてたけど……初めて見るような、
光を見たみたいに笑っていた。」
エイデンは、その光景が容易に想像できた。
絶望の中で、必死に希望を掴もうとする母親の姿が。
セレア
「淵の一番暗い通路に着いた。
今でも覚えてる。
石の形も、匂いも、
足音の反響まで。」
そして。
セレア
「穴があった。
そこから出られるはずだった。
母は私を先に押し出して……
“行け、セレア……逃げて。
あんたは生きるんだ。
名前を持って……誰かになりなさい。”
そう言った。」
しかし──
セレア
「……すぐに見つかったの。
“監視者”に。
今日あなたたちを追ってきた、あの連中。」
エイデンは拳を握った。
エイデン
「……で、奴らは?」
セレアは震えながら続ける。
セレア
「母は私の前に立ちふさがった。
穴から私を押し出して……
“振り返らないで”って。」
涙がぽたりと落ち、ルミの髪を濡らした。
セレア
「何度も殴られて……
でも、母は泣かなかった。
叫ばなかった。
ただ……最後まで私を見て、笑ってた。」
エイデンの喉に何かがつかえる。
セレア
「母は……私を生かすために死んだ。
監視者たちは私を引きずり戻した。
殴られたけど……
私には、もうどうでもよかった。」
声が砕ける。
セレア
「母は死んだ。
でも私は……生きた。」
彼女は赤ん坊たちを見た。
眠る小さな手。
柔らかな呼吸。
セレア
「この九人を見たとき……思った。
“私になる前に救わなきゃ”って。
名前もなく、
愛されず、
誰にも守られない人生を、もう誰にも味わわせちゃいけない。」
ノアの頬をそっと撫でる。
セレア
「この子たちには、誰もいなかった。
本当に……誰も。」
指が震える。
セレア
「だから私は……逃げた。
九人全部を抱えて。
誰一人欠けさせないために。」
エイデンはゆっくりと膝をついた。
エイデン
「セレア……
あなたはただの乳母じゃない。
生き抜いた者だ。
そして──九人の母にも等しい。」
セレアは驚いたように顔を上げた。
エイデン
「もう一人じゃない。
あの子たちも、あなたを必要としている。
あなたの痛みは……決して無駄じゃなかった。」
セレアはうつむき、静かに泣いた。
その涙に気づいた赤ん坊たちが、
言葉もないのに、
一人、また一人と彼女に寄り添っていく。
ダエルは光を灯し、
ウラは低く歌い、
サヤは彼女の手を握り、
コマは腕に身体を預け、
カイレンは頬に触れて見えない傷を癒した。
ルミは胸の上で静かに眠り続けていた。
九つの魂の抱擁だった。
**「セレアは“自由になるため”に生まれたわけではない――
けれど、今度こそ“誰かを自由にするため”に生まれたのかもしれない。」**
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