エピソード IV
一度迷えば抜け出せぬ広大な樹海――元は一周するのに一時間もかからないほど小さな森だった。しかし数千年の時をかけて広がり、動植物を育て、エルフを護ってきた。集落は中心にあるが、至るには川だけでなく、谷や崖を越えなければならない。安全な道ですらそうであるから、最短を狙う者は命を落とす覚悟でなければ辿り着けないほど過酷である。加えて猛獣の生息地だ。少々の装備では追いつかない。ここで必要なのが術法である。
術法とは武器を媒体にしてかけられる防御魔法で、安全対策の七割を補えることから、荷を減らせるという利点もある。危険地帯でなくとも使わない手はない法だ――が、エルフの森はそう単純ではない。そもそも招かれた者しか足を踏み入れることがかなわない上に、武器の所持も許されていない。それこそ人間が使う術法を警戒しているからだ。
故に、招かれた者にはエルフの案内と護衛がつく。
「討伐用の武器は集落に到着してから渡す。それまでは我々が保護するので、安心なされよ」
と言うわけだ。エルフ側で用意する武器は術法がかけられないよう念入りに細工されている。これは周知の事実である。いかにフェンネル騎士団を信用していようと、人間は人間。例外などない。が、凶悪な魔物の討伐を任されながら武器の所持を許されなかった側は不服である。
「本気で言ってるんですかねえ」
案内人に聞こえないようカイルがぼやくと、アレイスはフードの下で苦笑した。
「相変わらず人間不信の塊だ。まあ、仕方ないと言えば仕方ない」
彼がフードを目深にかぶっているのは、方々訪れる度に顔で悩まされた結果だ。「美しい」というのは良いことだと思っていたカイルは、アレイスと付き合う内に、不遇なことだという認識へ変わった。少年期の不幸も、元はと言えば顔が原因だ。話に聞く限り、当時の振る舞いには全く問題がなかった。であれば、やはり突出した美貌が生んだ悲劇と言える。
「仕方ないってねえ……僕ら二人だけですよ? たった二人の助っ人だけで事足りるなら、もういらないんじゃ。いや、それ以前に、ここまで警戒する必要もない気がします」
「団長、副団長という立場の人間を入れるというだけでもエルフにとっては脅威だろう。一個小隊なんてとんでもない。だからギリギリの人選なのだ。助っ人として役には立つが、エルフ側で牽制できる人材と人数だ」
「今さら侵略したりしないのに」
「そんな人間ばかりじゃないだろう。警戒するに越したことはない」
「なんかやけにエルフ目線ですね」
「相手の立場になって言っているだけだ。他意はない」
「にしたって魔物の討伐なのに。道中だって安全なわけじゃない。完全非武装なんて――」
「それだけ術法が脅威なのだろう」
「どうするんです? 聖剣じゃなきゃ倒せないようなのが出てきたら」
アレイスは面倒そうに息を吐いて応えた。
「まだ起きてもいないことを心配しても始まらない。そもそも、そこまでの大物なら事前に説明があるはずだ。騎士団を当てにはしても、エルフの武器で片が付けられる程度なのだろう」
「詳細は道中で、って話でしたね」
「ああ。魔物討伐とはいえ内情には違いないから、極力、外部にはもらしたくないといったところか。とはいえ、当事者となる私たちには事前に詳細を明かすべきではある。内容によっては不備が起きる恐れは伴うからな。しかし、そうしなかった」
「つまり、気張らなくてもいいってことですね」
「そういうことだ」
二人が小声で話していると、案内人が振り返って言った。
「何をコソコソ話している。遠足気分で来たのではあるまいな。もうすぐ谷だ。気を引き締めろ」
やや強い口調だったため、カイルは思わず肩をすくめたが、アレイスは露骨に機嫌を悪くした。
「帰ってもいいんだぞ。貴様らが魔物に喰われようが殺されようが、私には関係ない」
「なっ!」
案内人は途端に顔を赤くし、護衛のエルフが反射的に弓を構えた。しかしアレイスはすかさず畳みかけた。
「我々を呼んだ族長に恥をかかせる気なら矢を放て。騎士団長たる私と副団長であるカイルを帰したとなれば、今後、エルフに加勢しようという者は現われないだろう。二度とな」
「うっ、この……!」
エルフは怒りを噛み殺しながら弓を下ろした。
「とにかく、この先は足場が悪い。呑気にお喋りしていては、命の保証がないぞ」
エルフは言って踵を返し、先を急いだ。アレイスとカイルは彼らの通った道を通り、足を置いた場所へ確実に足を置いた。
谷を下り川の浅瀬を渡り切ると、しばらく林が続いた。デコボコしていて足元は悪いが、進めなくはない道だ。が、やがて岩肌が剥き出しになった崖へ差し掛かった。人一人やっと通れる幅の道である。その道を案内人が先頭に立ち、アレイス、カイルと続いて、二人の護衛が最後尾について行く。案内しつつ余所者に背後を取られないための処置だ。
「風が強いから、煽られないよう気を付けろ」
案内するからには最善の道であるはずだ。最善の中の最難関といったところだろう。が、一歩踏み外せば転落という狭さで強風に煽られるような道が安全な順路というのは、聞きしに勝る険しさだ。そんな森に住むエルフはどれだけ人を寄せ付けたくないのかと、カイルは呆れた。
過去に何があろうと、現代においてエルフを狩ろうとか、支配しようとか、森を侵略しようとか、そのようなことを考える人間は皆無に等しい。彼らの頑なな態度は、時代錯誤としか思えなかった。
前を見ると、足がすくむような断崖絶壁の細い道を慣れた様子で歩くエルフがいて、すぐあとを不満そうについて行くアレイスがいる。別に表情が見えるわけではないが、全身から滲み出ている雰囲気で分かる。
光明の王にして常闇の王が「冗談じゃない」と思う道を平気で歩けるなら、恐れるものなどありはしない――この事実を伝えられるものなら伝えてやりたいものだと、カイルは少し歯痒くも感じた。
そうしてしばらく崖道を進んでいると、強風に煽られたアレイスが一歩下がって足を踏ん張り、掴んでいたフードから一瞬手を離した。
「うっ……」
アレイスは壁面に手をついてバランスを保ったが、フードはめくれて顔も亜麻色の髪も露わになった。険しい道をゆくことは分かっていたので後ろでひとつにまとめてはいるが、それでも乱され陽光に煌めく様は、不思議と見とれてしまうものがある。
後続の足が止まった気配を察して先頭のエルフが振り返った時、真っ先にその姿が飛び込んで来たわけだが、目を見開いて固まるくらいの衝撃は人間と変わらずエルフにもあったようで、先頭の足も止まった。
「……お前は、人間なのか?」
アレイスは額に青筋を立てた。
「突き落とされたいのか」
「わ、悪かった――そうか、そのフード、顔を気にしていたんだな。驚いて、つい失礼なことを言ってしまった。すまない」
「さっさと進め」
アレイスは言ってフードを被り直した。先頭のエルフはそれを名残惜しそうに眺め、
「ああ、本当にすまなかった。何か困ったことがあれば遠慮なく言ってくれ。出来る限りのことはしよう」
と返し、再び歩を進めた。
その後、無事に崖を越えて密林へ入った。途中、休憩を挟んだ折、崖で後方にいた二人のエルフは、何故あそこまで丁重に謝る必要があったのか、先頭のエルフに尋ねた。「無礼なのはお互い様だっただろう」と。
先頭のエルフは「うむ」とうなずいて視線を落とした。
「フードで隠してしまうほどだ。これまでどれほど嫌な想いをしてきたことか。そう思うと申し訳なかった」
尋ねた二人のエルフは互いの顔を見合ってから、フードを目深に被っているアレイスを見やった。その様子はエルフの森さながら、何者をも寄せ付けない頑なさに包まれていた。
「標的はグーロだ」
と集落に入る手前のキャンプ地で、案内人は説明した。カイルは眉をひそめた。グーロとは犬の身体に猫の顔を持つという魔物だが、毛皮や蹄は役に立つ。狩りにくいということもなく、騎士団を雇わなければならないほど厄介ではない。そこで、
「変種でも現れたんですか?」
と尋ねた。でなければ説明がつかないと思ったからだ。エルフはため息交じりに肩をすくめた。
「増えすぎて手がつけられなくなったのだ。知ってのとおり、奴は大食らいだ。そのせいで生態系が壊れかけている。きちんと数を把握して調整していたつもりだったが、どこに潜んでいたのか急激に数を増した。狩人を総動員して駆除を開始したが、どういうわけか狩っても狩ってもキリがない。際限なく湧いて出て来る。そこで巣窟を叩くしかないとなったわけだが、元となる巣らしきものは見当たらなくてな。一体一体は小物でも、数が増えれば大物と変わらない。その上、グリフォンの生息地があって、調査できていない場所もある。グリフォンは単体でも大物だ。これ以上は手に負えない。考えた末、ここは貴殿らの力を借りようということになったのだ」
「なるほど。でも僕らが加勢しただけで、グリフォンなんて倒せますかね?」
「いや、追い払ってもらうだけで構わない。どちらかといえば、調査の手伝いをしてもらいたいのだ。討伐は調査の一環にすぎない。こちらに危害が及びそうなら討伐してもらうという程度で、いわゆる保険だ」
「あれ? だけど討伐依頼でしたよね」
「騎士団には討伐依頼が基本だから従ったまでだ。調査依頼だと断られる可能性もある。違うか?」
「あー、まあ、それはそうですね」
何となく相槌を打つカイルの横で、アレイスが「ふん」と鼻で笑った。
「集落を目前にして詳細を説明したのはそういう訳か。ここまで来ては断れない。あの険しい道のりを思えば、何もせずに帰るのは無駄足を踏む心境だ。なんとも小賢しい」
カイルは目を丸め、エルフは苦笑いした。
「申し訳ない。だが我々も手詰まりで、藁にも縋る思いなのだ」
「聞いたか、私たちは藁らしい」
「アレイス」
「藁程度の働きで良ければ楽だな」
「アレイス!」
カイルは、人の揚げ足を取るアレイスを嗜めるように声を上げた。
「そういうとこ、どうにかなりませんか」
「どうにもならんな。こういう奴は虫が好かん。嫌味のひとつも言いたくなる」
「まあ、正直ではなかったにせよ、どうしても引き受けて貰いたかったんでしょうから。討伐というのも、あながち嘘ではありませんし」
カイルが少し宥めるように言うと、アレイスは沈黙した。色々言いたそうではあったが、口を閉じる選択をしたことに、カイルはホッと胸をなでおろした。
森に入ってから三日三晩を費やし、ようやく集落に着いたアレイスとカイルはひとまず宿へ案内された。案内と護衛のエルフらは一旦離れ、調査兼討伐の支度をして待ち構えている小隊のもとへ赴いた。
「無事に迎えられた。いつでも出られるそうだが、半日ほどの休息は必要だろう」
小隊長のエルデは「そうか」とうなずいた。
大きく波打つ豊かで長い赤髪と、紅玉のように輝く瞳。エルデは小麦色の肌をした、美しく逞しい女だ。狩りの腕は一流で、判断力に富み、先導力がある。
「それで、どのような人物だ」
エルデは開口一番尋ねた。この度の調査において、騎士の人となりは最重要事項である。フェンネル騎士団といえば国を跨ぐ大きな組織だ。神皇帝はその組織の長と副長をよこした。エルフに対して最大の敬意を払ったのだ。とはいえ、その人物らが名に相応しいかといえば、そうとも言い切れない。組織の長より部下が優れていることなど、ままある話だ。
「団長はいささか問題がありそうだが、副団長は信用できそうだ」
案内人が答え、エルデは眉をひそめた。
「問題とは」
「口が悪い。態度が横柄で攻撃的――といったところか」
「……やれやれ、大丈夫なのか?」
「副団長が上手く御しているようだから、大丈夫だろう」
翌日。
宿を訪れたエルデは、副団長であるというカイルを見て、何度か瞬いた。神の加護をこれでもかというほど受けている様子に驚いたのだ。金色のオーラに纏われて、七色の光を放っている。邪を微塵も寄せ付けぬといった凄まじさだ。
「神皇帝に、心より感謝を申し上げる」
エルデは言ってカイルに会釈し、にこやかに手を差し出した。
「調査隊の小隊長を務める、エルデだ。よろしく」
カイルは困惑しつつ、チラチラとアレイスを窺った。
「えっと、あの、団長はこの人で、僕は副団長なんですが」
「貴方は多大なる神の加護を受けている。身分がどうであろうと、先に敬意を払われるべきは貴方のほうだ」
カイルはゲンナリとした。
「……一体、僕に何が視えているんです?」
疑問にはアレイスが答えた。
「金色のオーラ、虹色の光――自分で視えないのか」
「視えませんね」
「なるほど。自覚がないのはそのせいか。困ったものだな」
「みんなには視えているんですか?」
「いや、まさか。視える者にしか視えない」
「ううっ……視る力もない僕に、なんでそんな加護が」
「今さら何を。使命を忘れるな」
「ああ、そうだった」という顔でカイルは肩を落とした。そのカイルの肩をアレイスは軽く叩いて、
「丁度いい。今回はお前が指揮をしろ」
と言った。
「はあ?」
「予行練習だと思ってやればいい」
「よ、予行練習?」
「いずれ騎士団長にはなるだろう?」
「はあ? アレイスは?」
「なぜ私がいつまでもその地位にいると思うのだ。お前が成すべきことを成せば、私の役割は変わる」
カイルはまたしても「そういえばそうだった」という顔をして沈黙した。アレイスはひと呼吸おいて、エルザに向いた。
「そういう訳だから、任務遂行中はカイルが団長という扱いで頼む」
「貴方は」
「補佐をする。見ての通り、こいつは騎士になりたての若造だ。決めたからといって、いきなり全ては託せない」
エルデは、フードを目深に被ったアレイスを訝し気に眺めた。
「別に構わないが、貴方自身はどのような役に立つ。例えば、剣か弓の腕前はいかほどか」
「剣の腕は、中級の魔物を倒せる程度だ。大物なら弓の方がいい」
エルデは「ほう」と少し口元を歪めて微笑んだ。
「我らエルフを前に、弓の腕を誇るか。では貴方の武器は弓だな。活躍を期待している。カイル殿は剣でよろしいか」
「あっ、はい」
「では、出発時に渡す。十分以内に支度を」
エルデが宿を立ち去ると、残されたアレイスとカイルは身支度を整えながら、いくつか言葉を交わした。
「いいんですか?」
「何が」
「聖剣騎士ってこと、言わないで」
「聖剣が手元にない以上、言っても仕方ないだろう」
「そうですけど……ていうか、弓の方が得意なんですか?」
「まあ」
「聖剣騎士なのに? 初耳なんですけど」
「剣を振るうのには技術を要するが、弓にはいらない。意思で制御できる」
「……矢を制御できるってことですか?」
「そうだ。思う所に射ることができる。王の特権というやつだ」
「なんか狡い」
「何が狡い。お前は私になりたいか? なりたくないだろう。人がなりたがらない者になっている私に何らかの益があるのは当然だ」
カイルは途端に情けない顔をした。
「……そんなことまでハッキリ言っちゃうんですね」
そのカイルを見て、アレイスは「そんな顔をするんじゃない」と言ったが、カイルは他の顔など出来る気がしなかった。
「なんか、悲しいです」
「やめろ。同情を買うために言ったわけじゃない」
「分かってます。だから同情じゃありません。ただ悲しいんです」
「――まったく、先が思いやられるな」
アレイスは言いながら革の胸当てを装備し、来る時に纏っていたマントを羽織ってフードを被りなおした。
「さあ、行くぞ」




