一.[12月4日]椿
[注意]この章では作者の偏見や思い込みが含まれた描写があり、気分を悪くされる方がいるかもしれません。それを承知の上で、お読みください。
十一月に坂月高校に転校してきた関西弁の少女・吉槻。春樹は彼女と共に遭遇した、不愉快な悪戯の犯人を追う。
・花川春樹*面倒臭がりで推理小説が好き。
・真鈴あやめ*春樹の幼馴染で、いつも明るい。
・吉槻*十一月半ばに関西から引っ越してきた転校生。折り紙が得意。
・水城悠貴*長身で余裕があるように見えるが気弱な一面も。
SIDE 花川
暗やみ。
思考と記憶は曖昧模糊としていて、僕はさっきまでなにをしていたのか、どうしてこうなっているのかがわからない。
前後左右上下の方向も、僕がいまうつ伏せなのかも、仰向けなのかも、はたまたそれですらないのかも掴めない。
やがて、意識が始まったきっかけを思い出した。そう、肩のあたりを誰かに揺すぶられたからだったはずだ。したたかさの伴わない力ではあったが、そのとき僕の中に浮かんだ感情は小さな怒りだった。僕はこの状態を居心地が良いと感じており、阻害しようとするその何かに対して苛立ったのである。
やがて氷がゆっくり解けていくように、徐々に思考力を取り戻していく。息の詰まるような感覚。僕の体勢は、さながら体を丸めるようにしており、顔を下に向けている。息苦しさは気管を圧迫しているからだ。
両の足は地面に着地している感覚を確かに捉えたが、両腕は判然としない。まるでそこだけ神経を切断されたように、身体と、もろ手が切り離されているような気がする。
もう一度、先ほどと同じような揺さぶりが僕を襲った。今度は怒りは感じない。僕がこの状態を居心地が良いと感じなくなってきているから。
それに揺れに加え、女の人の声が頭に響きはじめた。こちらも揺れと同様、強さは感じない。その柔らかな声は、その優しさから、僕を揺さぶる「手」の持ち主のものだと推測できた。
まだ、僕の視界は暗黒だ。だがしかし、僕はその闇から抜ける方法を生まれながらに知っている。
「……さーん」
そうだ、目を開ければいいのだ。僕は瞑目しているだけなのだから。
「花川さーん。起きてくださーい」
遠くに感じていた柔らかな声も明瞭に聞き取れるようになる。面をあげる。光が飛び込んできた。揺さぶりもなくなった。
「…………」
なんのことはない。いつもの教室の風景である。ほとんど全ての席が生徒で埋まっている教室。そして、うたた寝から僕を揺らして起こそうとしていた声の主は、隣の席に座る女子、堺麻子であった。
「……おはよう」
堺さんは表情にほんの少しだけ、困った色を浮かべていた。堺さんはいつも僕をこうやって起こしてくれる。一度も席替えをしたことがない学級だから、春から今までずっとである。
再三彼女が僕の名前を呼ぶ。
「花川さん。授業終わりましたよ。全く、いつまで寝ているんですか」
「すまん。ありがとう」
腕に鈍く気持ちの悪い痛みが走る。両腕の感覚がなかったのは、血流が止まっていたかららしい。痺れた手をひらひらと振りながら、前を向く。黒板の前に立っているのはこの一年六組の担任、楠井先生である。
あれ、と思う。
僕が呆けた顔をしているように見えたのだろう。堺さんは眼鏡を光らせた。
「先ほどまで教壇に立っていた瑠璃枝先生はどこにいったのかという顔をしてますね。もう終礼のお時間ですよ」
「なんと。今日も時間を飛び越えてしまったか……」
「睡眠学習も、そんな言い方をすれば格好良く聞こえますね。――まあ、先生の話を聞きましょうよ」
堺さんが手で前の方を示す。どうやらまだ頭が働いていなかったらしく、やっと僕は、教卓の上に見慣れない花瓶が置かれてあることに気づいた。楠井先生が持ち込んだものらしい。花瓶に挿してある一輪の花は紅く、色は違うがよく似たような形の植物を道端で見かけたことがある。名前はわからないが、その仲間だろうか。
楠井先生は教室を見渡して言う。
「ツバキの花だよ。貰い物でね。まだ十二月だから、この種類のツバキにしては早い時期に開花したみたいなんだ。僕がひとり占めするのも勿体ないから、教室に飾っておこうと思う」
教卓の真正面、一番前の席に座っていた女子生徒――吉槻さんという――が疑問を投げかけた。
「先生。この花、この季節にも割とようさん、通学路に咲いてた気がするなあ。あ、通学路ゆうても前の学校のなんやけど」
やはり聞き慣れない言葉使い――吉槻さんは先月この坂月高校に転入してきた転校生だ。以前は関西に住んでいたこともあって、言葉の節々に方言や聞き慣れない発音が混じる。吉槻さんの出身地含むステータスや、授業中にもよく発言するスタイルは、彼女を目立たせるのに十分な要素だった。
先生がニコリとほほ笑む。
「それは多分、ツバキではないよ。サザンカだ。とっても似ているけれど、別の種類」
「へえ……。知らんかった」
彼女は僕と同様、植物に対する知識はないらしい。
吉槻の隣に座る真鈴あやめは、花に興味津々らしく、ツバキの匂いでもかごうとするように前のめりに首を伸ばしている。とても阿呆な格好に見えた。
「でも、先生」
次に発言したのは男子生徒だ――彼の名前を、水城悠貴という。
「ツバキの花粉でアレルギー反応を起こすひとがいるのではないでしょうか?」
水城悠貴はこのような意見を言うくらいには、真面目で抜け目のない青年だ。
生徒の問いに、担任教師はうんと頷いた。
「そうだね。水城さん、ありがとう」
彼から視線を外し、教室を見渡す。
「……もちろん、ツバキの花粉症の人がいたら、飾るのはやめておくよ。アレルギーじゃなくても、花のせいだと思われる異変があったらすぐに対応するから、言ってね」
楠井先生は最後にそう付け加えると、終礼に入った。
……水城に対して楠井先生は礼を述べたが、アレルギーに関しては、楠井先生が失念していたとは思えない。彼のその一言は不要だったろう。水城悠貴は真面目ではあるが、生真面目すぎるきらいがある。
まあ、水城とほとんど会話してこなかった僕が「彼はこのようなひとだ」と断言するのはおごりというもの。彼の親友や両親ですら、彼の人間性について物言うことはできまい。それができるのは、小説でいう『神の視点』くらいのものだ。僕はあくまで第一印象と大差ないイメージを述べただけである。
……僕は、友人であり幼馴染の真鈴あやめと仲良く話しているのを見かけるから注意するようになっただけなのだ。
ありがとうございました。続きます。




