3-31 腹に一物 (new) 4/7
東の空から、ゆっくりと夜が明けていく。
夜の余韻を残した青のクレパス。そこに浮かぶ雲の群れが、まるで色水を吸った白綿のように、じんわりとオレンジピューレの橙色に染まっていく。朝焼けが美しいのは、日本も異世界も同じだ。
「心が洗われるような景色だねー」
「クーキュッ」
僕の一言に、ボナンザがこくこくと同意してくれた。
午前6時。
マルコの作ってくれたベーコンとチーズとほうれん草のソテーが挟まったサンドイッチで朝食を済ませると、まだ朝露の乾かぬうちに野営地を出発した。
移動は順調そのもの。
正午になる頃には、目的地であるナンバーの目と鼻の先まで来ていた。
いま僕らは、森をハサミで分断したような一本道の上にいる。この道をまっすぐに進めばナンバーだ。
道幅はひろく、十分に締め固められた砂利で舗装されている。その上を、大小さまざまな馬車がせわしなく行き交っていた。交易都市ナンバーは、カンニバル国における流通の要衝のひとつであり、また、安定した木材の集積所としても機能している。ここは国道と町とを結ぶ重要な街道なのである。
その道で、ある問題が起きていた。
何本かの倒木が道を塞いでいたのだ。木はどれも大木とよべるようなもので、直径2m以上、長さ30m以上。それらが折り重なり、まるで川をせき止める堰堤のようにそそり立っている。道の上では、進めなくなった馬車たちが大渋滞を起こしていた。
この状態がすでに1時間続いている。
人々のストレスで、あたりにはピリついた空気が充満していた。業を煮やした何台かの馬車が、森を迂回して倒木を避けようと試みたのだが、森はぬかるんだ土質だったらしく、車輪が泥にはまって動けなくなっていた。「どうなってやがんだクソッ!」ひとりの男が声を荒げて自分の馬車を蹴っていた。
僕らは渋滞にはまって身動きが取れなくなるのを避けるため、すこし離れた位置に停まっていた。
自然倒木で交通機関がマヒするのは、別にめずらしいことではない。こういったことが起れば、この地域を治めている領主軍が駆けつけて撤去することになっている。しかし、緊急を報せる狼煙を上げているというのに、一向にその領主軍は姿を見せなかった。
おそらく賊の捜索に人手を割いているため、なかなかこっちまで手が回らないのだろう。
そして。
敵の狙いもそこにあった。
「……」
「……」
僕とロジャーさんは揃って苦渋を浮かべ、前方を睨みつけていた。
そこには一人の男が立っていた。
ダークブラウンの外套。長ズボンにブーツ。右肩に大きなリュック。一見すれば旅人のようだが、違う。中身は賊の残党だった。
この騒動は、こいつらの仕業だったのだ。
倒木の目的は僕たちを足止めすること。
そして『多くの人質を生み出す』こと。
男はオラツィオと名乗った。
領主軍にさんざん追い回されたのだろう。フードからのぞく顔には、色濃い疲労が見てとれた。肌を切れば、血よりもまず疲労物質の乳酸が噴きだしてきそうだ。歳は30ほど。しかし白髪のせいもあってか、もっと老けて見えた。
オラツィオの右手には一本のコードが握られていた。コードは袖から服の内側へと続いている。あれはダイナマイトを起爆させるためのコードで、強く引けば点火できるタイプらしい。ご丁寧に本人が教えてくれた。さらにオラツィオがシャツをめくると、そこには確かに4本のダイナマイトがベルトで固定してあった。
もしこの場であれが爆発すれば、多数の死傷者が出ることになる。もちろん僕たちも、ただではすまない。ダイナマイトの脅威は、熱や爆風だけでなく、爆風によって飛散した木材や金属などの破片が、凶器となって広範囲に二次被害をばらまくところにもある。爆速7000m/sで打ち出された破片が、人体にどういった影響を及ぼすかなんて想像もしたくない。
「そうなりたくなけりゃ、おとなしく言うことを聞くんだな」
オラツィオは、やけに落ち着いた声で脅してきた。
じつはあのダイナマイトは偽物で、ハッタリをかけているという可能性もある。
だがオラツィオは、死の恐怖すらも麻痺させたかのような、狂気に取り憑かれた形相をしていた。こいつならやりかねない、そんな顔だ。あれが演技だとはとても思えない。
「……オガミ君、気をつけろ。恐らくあれは本物だ」
僕の予想を、ロジャーさんの緊迫した言葉が裏打ちしてくれた。
幸い、まだ周囲には気付かれておらずパニックは起きていない。
さぁどうする。
僕は自分に問いかける。
いま僕の右手にはベレッタM92Fが握られ、体の陰に隠してある。向こうが気付く前に撃つことはできる。だが、どこを撃てばいい? 下手に弾丸を当てて、もしそれが起爆に繋がれば洒落にならない。それに、こいつが一人とは限らない。
「おっと、下手な真似はすんじゃねえぞ?」何かを感じたオラツィオが、不敵な笑みを唇に浮かべて僕に言った。「この近くに俺の仲間が潜んでいる。俺がやられりゃあ、そいつらが俺の代わりになるって寸法だ。どうだ、試してみるか?」
やっぱりかよクソ。
迂闊に動かないで正解だった。
僕の隣にいるロジャーさんが、チッと小さく舌を鳴らした。いつのまにかオラツィオの背面を取れる位置に移動していたリュッカさんも、その動きを止めた。おそらく2人も何かしようとしていたのだろう。
「いったい何が望みだ」
ロジャーさんが鋼のような声で訊く。
「こっちの要求は、そこの黒髪だ」
言ってオラツィオは、僕を指差してきた。どうやらご指名は僕らしい。特に驚きはなかった。オラツィオが向けてくる視線から、なんとなくこうなるんじゃないかと予想はしていた。
「彼をどうするつもりだ?」
「なに、ちょっとした用事に付き合ってもらうだけだ。この森の先に俺たちのボス、セリオス様が待っている。そこでコイツには決闘を受けてもらう。ああ、もちろん付き添いは無しだぜ? 来るのは一人だけだ」
決闘だって?
僕は名指しされたことよりも、そっちのほうに驚いた。
「男と男、サシの勝負だ。へへ、燃えてくるだろう?」
「……ふざけてくれるなよ小悪党」
ロジャーさんが静かに怒気をあらわにする。
しかしオラツィオは飄々とした態度を崩そうとしなかった。
「おいおい俺は大真面目で言ってんだぜ? 腹にダイナマイト巻きつけて、冗談でお前らを楽しませに来たように見えるか? もう一度言うぞ。そこのガキを寄越すか、みんなで仲良くドカーンか、ふたつにひとつ。さあどっちを選ぶ」
オラツィオはちろりと腕時計を見やる。
「あと3分、俺が合図を送らなければ最初のヤツが吹っ飛ぶことになる」
ロジャーさんが低くうめく。
逆転の秘策を練る時間まで奪われてしまった。
決闘。そんなもの罠に決まっている。しかし人質をとられ、さらに仲間が潜んでいるとあっては、僕たちに選択の余地などなかった。
「確認しますが」ロジャーさんに代わって、僕が言葉を引き継いだ。「その決闘とやらに僕が応じれば、ここにいる人たちの安全は保障されるんですね?」
「ああ、俺たちの目的はお前を連れて行くことだけだ」
「わかりました」僕はわずかな逡巡も挟まず、そう答えた。「その勝負、受けて立ちます。ですので合図を送ってください」
「――な!?」
隣にいたロジャーさんが目を丸め、慌てて何か言おうとする。
オラツィオ越しに、リュッカさんが物言いたげな視線を送ってくる。
僕はそれらを無視した。
「いいんだな?」オラツィオが念を押す。
「二言はありません」
「へへ、いい度胸じゃねえか」
オラツィオは薄ら笑いを浮かべながら「かんしゃく玉」を取り出すと、ブーツの裏で踏み潰した。ポンッと、気の抜けた破裂音が発せられる。あれが合図か。音は小さく頼りないが、しかし耳の良いダークエルフならその音量でも十分なのだろう。音に反応して振り返るやつがいないか注視したが、まったくそれらしいヤツは見当たらなかった。
クソったれめ。腸がぐつぐつと煮えてくる。悪人と言うのはどうしてこうも悪知恵だけは働くのだろう。人から何かを奪うときだけ、驚くほど思慮深いところを見せる。是が非でもブッ殺したくなってきた。
「支度がありますので、すこし時間をいただけますか?」と僕。あくまで冷静に。
「いいぜ。だが下手な小細工はするなよ? 見ているのは俺だけじゃねえんだからな」
「わかっています」
「よし、じゃあさっさとしな」
僕は背を向けると、ロジャーさんのほうへと近づいた。
口元を固くひき結んだロジャーさんが、鋭い視線を僕に向けてくる。とりあえず僕はぺこりと頭を下げることにした。
「勝手なことをしてすみません」
「君はいったい何を考えているんだ? 一人で行くなど、とても正気の沙汰とは思えんぞ」
もう一度、すみませんと頭を下げる。
「ですが人質を取られている以上、応じるほかないと判断しました」
「しかし――」
「大丈夫です。ちゃんと手はありますから」
それを聞いた瞬間、ロジャーさんの顔から険が薄らいだ。
「……あるのか?」
僕はうなずく。そしてさらにロジャーさんに近づき、ほとんど顔を寄せるような距離で、囁くように言った。
『ボナンザは、ダイナマイトのニオイを嗅ぎ分けることが出来るんです』
言って、いつかのロジャーさんのようにパチンとウィンクして見せた。
ロジャーさんが、はっと目を瞠る。
どうやら察してくれたようだ。
僕が連中を引きつけている間に、潜んでいるであろう賊の仲間を、ボナンザを使って見つける。そして安全を確保してから、僕を救出して欲しい、ということだ。
もちろんリスクは承知の上。
「キミというやつは……」
ロジャーさんは何かを堪えるように眉根を寄せ、感じ入るように呟いた。
するとその時。
「おい、いつまでチンタラやってんだ! さっさとしろ!」
焦れたオラツィオが、後から胴間声を張り上げて会話に割り込んできた。
瞬間。
もぞり、と僕の中で何かが蠢いた。
僕の『さきほどから必死に抑え込んでいる怒り』に反応して、灰色の狼が目を覚ましたのだ。殺意が熱を持って体内をうねり出す。でもまだだ。まだ早い。お前が暴れるのはもうすこし先だ。体の中で爆発しかけている衝動を、僕は強く念じて押しとどめた。
「……すこし、静かにしてもらえませんか?」
オラツィオに振り返り、僕は笑ってみせた。
笑ったのは口元だけ。
鼻の頭に怒りの皺を波立たせ。開いた口から犬歯を剥き。やわらかな皮膚など切り裂いてしまえる程まなじりを鋭くしてオラツィオを見やった。『これ以上ぐだぐだ言いやがったら今すぐお前の喉を噛み千切ってやるぞ』というメッセージを込めて睨む。
するとオラツィオはびくりと肩を震わせ、おとなしく口を閉ざした。
僕も表情を戻す。調子にのんなよクソ悪党。
「その分なら一人で行かせても大丈夫そうだな」
ロジャーさんが、ふっと緊張を緩めるように言った。
「だがひとつだけ約束してほしい」
「なんでしょうか」
「どんなことがあっても、絶対に無茶だけはしないでくれ。いま言うことでは無いかもしれないが、君はこんな所で死なせるには惜しい人物だと思っている。向こう見ずな勇気は捨てて、生きることを何よりも優先してくれ――――約束してくれるか?」
「わかりました」
「頼むぞ。こっちもなるべく急ぐ」そこでひと呼吸おくと、ロジャーさんはあのニヒルなスマイルを僕に見せてくれた。「これが終わったら、ぜひ一杯おごらせてくれ」
「あはは、楽しみにしています」
これから修羅場に向かおうというのに、僕の口からは自然と笑みがこぼれた。
それを見て、ロジャーさんは納得するように頷いた。
そして。
僕は拳を握ると、ロジャーさんが突き出してきた拳にぶつけた。
「気をつけてねシンゴ。ぜったいぜったい帰ってきてね」
心配そうに眉根を寄せるマルコ。
「ああ、ぜったいに生きて帰ってくる」
僕は強く頷いて応え――スペアの馬車へと向かった。
戦の支度をはじめる。
荷台に置いてあった『試作品』2つを、タクティカルベストの空いたポーチに突っ込む。
昨夜、暇に飽かして作ったスリング――銃を携帯するための紐だ――も持っていく。
アサルトリュックサックはどうする? ちょっと悩む。これから起こる戦闘をイメージするが、背中から予備弾薬を取り出す余裕はたぶんなさそうだ。持って行くだけムダだろう。そう判断し、背負っていたリュックを下していると、
「た、頼む、オガミ」
「ん?」
不意に発せられた声に、僕は顔を上げた。
荷台の奥。そこで寝ていたドミニクが半身を起こし、真剣な顔を向けていた。
「俺も連れて行ってくれ」と搾り出すようにドミニク。
「悪いけど、いまのお前を連れて行っても足手まといになるだけだ」と僕。
「頼む。お前の邪魔は絶対にしない。だから」
「ダメだ」
なおも言いすがろうとするドミニクに、はっきりと言った。
気持ちはわからないでもないが、やはり連れて行くわけにはいかなかった。
「……」
ドミニクは沈痛な表情で俯いた。本当は、僕の代りに行きたいのだろう。なにせ相手は、自分の大切な親友の命を奪った仇なのだから。その顔を見ているうち、またお節介の虫が騒ぎだした。
「ドミニク、あの二人の名を教えてくれないか?」
「なんで」
「いいから」
困惑を浮かべながらも、ドミニクは名を口にした。
「……ゾーイ・ハミルトン。それとハッシュ・クレイブンだ」
僕はいま聞いた名を、胸のうちで何度か繰りかえした。
忘れないように、しっかりと記憶にとどめておく。
「わかった。お前の代りに『二人の名を連れていく』。それでいいな」
「え、おい……それってお前まさか……」
何か言いかけたドミニクの口を、リュックを投げ渡すことで遮った。
「それじゃあ留守番は頼んだから。しっかり守ってくれよ」
支度を終え、馬車を離れる。
すると、それまで離れた所で黙然と立っていたリュッカさんが、ゆっくりと近づいてきた。無言で、何かを投げて寄越す。「わっと」慌てて両手で受け取ると、それは小さな薬瓶だった。
「これは?」
「解毒薬」腕を組み、ぶっきらぼうに答える。「アンタの持ってる安い薬じゃ、連中の猛毒には役に立たないわよ。死にたくなかったらソレを使いなさい」
僕は簡易常備薬に入っている解毒薬を使用するつもりでいた。
だが、それでは対処できなかったようだ。
「ありがたく使わせてもらいます」
驚きつつも素直に頭を下げる。
すると彼女は、からかうような笑みを浮かべた。
「そうね、今回は特別に100万ルーヴでいいわよ」
「えっ、ちょ、お金取るんですかこれ!?」
「バカね、なに本気にしてんのよ。冗談に決まってんでしょ」
「わかってますって」
「ホントかしら」
僕とリュッカさんの間で、ちいさな笑いが弾けた。
リュッカさんが見つめてくる。僕も見つめ返す。数秒間の沈黙。2人の間にある空間の境目が曖昧になり、血管が繋がったような不思議なシンパシーを覚える。
やがて、彼女はかるく手を上げた。
どういう意図か、言葉がなくても分かる。
僕は彼女の横を通り抜け。すれ違いざま、彼女の手をパンッと叩いた。
「いってきます」
「ドジんじゃないわよ」




