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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
121/173

わたしの隣でうなされて

「達也さん、あそこに居る人たちを、呼んできて」


 ナオコは〈虚像〉から目を離さなかった。バラバラの方向をむいていた瞳の集合体が、徐々に彼女へと視線をそそぐ。


「でも、ナオコちゃんは」


 飯田が腕をひっぱる。思いきり振りはらい、

「はやく!」と、叫ぶ。


 甲高い悲鳴が、空をつんざいた。飛びかかってきた〈虚像〉を、飯田と逆の方向に避ける。彼らのあいだを、獅子の肉体が、疾風のような速さで駆ける。


「お願い、はやく呼んで!」


 飯田は、苦し気に表情をゆがめ、火がついたように走りだした。

 ゴルフクラブを〈虚像〉に投げる。頭部に当たった。

 万華鏡の瞳が、彼女をうつす。笑いそうになる膝を叱咤して、クラブを再出現させる。


 ナオコが、足をすすめた。〈虚像〉が、横にはね、その勢いのまま一息に襲いかかる。左に踏みこみ、間一髪でよける。太い前足を殴りつけ、距離をとろうと後ずさる。

 視界がゆれる。左わきばらに、後ろ脚がめりこんでいた。


「あ」と、声が勝手にもれる。一瞬、時間が止まったような感覚。


 膝をついていた。吐き気がせりあがる。〈虚像〉の影がなくなっている。とっさに道のわきに転がると、頭上から四肢が落ちてきて、地面に穴をあけた。


 ナオコは、なんとか立ち上がった。交差点をしり目で確認する。考えにふける間もなく〈虚像〉が襲ってきた。衝撃が、全身を襲った。前脚が、腹に食いこんでいる、と視認する。彼女は、地面に激突していた。

 悲鳴すら出なかった。目の前が、真っ白と真っ黒のあいだを行き来している。自分のえづく音が、遠く聞こえた。口の中が酸っぱい。

 ゴルフクラブが、まだそこにあるか分からなかった。それでも彼女はクラブを支点にして、立ちあがろうとした。ぐちゃぐちゃのジグソーパズルのように視界が混乱し、体が激痛を訴えていた。

 膝立ちになった彼女を、背後からだれかが支えた。はっとして、ふりむく。


「ナオコちゃ……聞こえる? ねえ!」


 それは、予想した人物ではなかった。

 なんとかうなずく。


「だいじょ、ぶ、です」


 視界が、徐々に安定してきた。〈虚像〉の相手は、同僚たちがしてくれていた。

 ぐったりした体が、力いっぱい抱きしめられた。悲憤をうかべたまなじりが、涙で光っていた。

 ごめんね、ごめんね、と耳元で、壊れたように謝っている。


「たつやさ、だいじょうぶ、ですよ」


 ナオコは、彼を安心させようと、腕をまわした。がたがたと震える青年の背中を、そっとなでる。背後で〈虚像〉の悲鳴と、怒号が飛びかっている。

 ふと、飯田が顔面蒼白になり、ナオコを押し倒した。


 顔に、なにかが降りそそいだ。


 ぐったりした重みが、のしかかる。呼吸が止まる。青年の肩が、真っ赤に染まっている。ふりかえると〈虚像〉の鋭い爪が赤くひかっていた。


「中村!」と、同僚たちが叫んだ。ナオコは、失神している飯田をかばうように、体をひきずって立ち上がった。クラブを構える。

 しかし〈虚像〉は、襲ってこなかった。

 灰色の瞳が、ぶくぶくと膨張する。各々30センチほどの大きさになり、破裂した。血が傷口を洗いながすと、美しい白い皮膚へと再生していた。


 目をみひらく。

〈虚像〉の顔は、ありふれた人間の相貌へと変わっていた。この世すべての悲しみを背負ったような、無表情がうかぶ。

 白い虫のような唇が、動く。


「アイ、ホシイ」


 傷だらけの同僚たちが、背後から駆けつけた。


「アイ、ホシイ」


〈虚像〉の背後、ビルの谷間に空間のゆがみを見た。物凄い速さで走り寄るのは、鬼のような形相をした男だった。彼は、助走をつけて、飛びあがった。


「ダカラ」


 青い柄のペーパーナイフが、白い鼻梁に埋まる。


「ツクル」


 人間のまなこは、ナオコを見つめていた。頭頂部から灰へと変わり、消えさるその瞬間まで、視線はそらされなかった。

 山田が、駆けよってきた。


「無事か」


 聞きなれた低い声に、気が抜けてへたりこむ。肩に手がおかれた。喉のおくが苦しく、声が出づらかった。


「達也さんが」と、山田の腕をつかむ。


「たつや?」


 山田が、倒れている青年に気付いた。にわかに真剣な表情になり、応急処置を始める。ナオコは、体全身が痛んでいて、もうすっかり動けなかった。同僚が寄ってきて「車、呼んだから。安静にしてろ」と声をかけてくれたが、うなずくことしかできなかった。


 処置を終えた山田が、戻ってきた。


「傷は浅い。大丈夫だ」


 安心させるような声に、息苦さが増す。胸が張り裂けそうだった。


「わたしが、連れてきちゃって」


「あまりしゃべるな」


 背中に手が当てられ、さすられる。


「わたしをかばって、どうしよう、やまださん」

 

 泣きそうな声が、彼の耳にとどいた。

 背中を撫ぜる手が、止まる。青年の瞳に、動揺が走っていた。


「……かばって」


「わたしのせいなんです」

 悲鳴じみた申告は、彼女自身を貫いた。

「わたしのせいで……」


「君のせいではない」と、言葉がさえぎられた。どこか固い声だった。


 ナオコの頬を、涙がつたう。


「やまださんにも、また迷惑かけて……ほんとうに、ごめんなさい」


 複雑な感情が、山田の顔をよぎった。

 体温が、全身をつつんだ。ナオコは、抱きしめられていた。


「……迷惑じゃない」


 なだめるような手つきで、頭を撫でられる。


「迷惑なわけがない、これは、俺がしたくてしていることだ」


「でも」


「大丈夫だ」


 かすれた声だった。


「大丈夫だから」


 独り言めいた慰めは、空虚に溶けていく。ナオコは、自分の罪悪を思い知った。

 卑怯な嘘をついていた罪が、ここにきて襲ってきた。そう理由もなく思った。だから、腕をつっぱねようとした。

 しかし、かき抱く腕の力は、より強くなる。肩をがしりと掴まれ、顔をのぞきこまれる。


「頼むから」

 思いつめたように、口がひらいた。

「もう、動くな。そうすれば」


 唐突に、言葉が切れた。彼は、呆然としていた。


「そう、すれば?」と、ナオコが言葉をつぐ。


 ふたたび、腕のなかに閉じこめられる。押し殺した声が、

「いいから、しゃべるな」と、言った。


 なにかが壊れていく音が聞こえている。それでも、彼の胸は暖かい。

 苦しみが沸騰するような体温に、ナオコは、すがりついた。すがりつくことしか、できなかった。

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