わたしの隣でうなされて
「達也さん、あそこに居る人たちを、呼んできて」
ナオコは〈虚像〉から目を離さなかった。バラバラの方向をむいていた瞳の集合体が、徐々に彼女へと視線をそそぐ。
「でも、ナオコちゃんは」
飯田が腕をひっぱる。思いきり振りはらい、
「はやく!」と、叫ぶ。
甲高い悲鳴が、空をつんざいた。飛びかかってきた〈虚像〉を、飯田と逆の方向に避ける。彼らのあいだを、獅子の肉体が、疾風のような速さで駆ける。
「お願い、はやく呼んで!」
飯田は、苦し気に表情をゆがめ、火がついたように走りだした。
ゴルフクラブを〈虚像〉に投げる。頭部に当たった。
万華鏡の瞳が、彼女をうつす。笑いそうになる膝を叱咤して、クラブを再出現させる。
ナオコが、足をすすめた。〈虚像〉が、横にはね、その勢いのまま一息に襲いかかる。左に踏みこみ、間一髪でよける。太い前足を殴りつけ、距離をとろうと後ずさる。
視界がゆれる。左わきばらに、後ろ脚がめりこんでいた。
「あ」と、声が勝手にもれる。一瞬、時間が止まったような感覚。
膝をついていた。吐き気がせりあがる。〈虚像〉の影がなくなっている。とっさに道のわきに転がると、頭上から四肢が落ちてきて、地面に穴をあけた。
ナオコは、なんとか立ち上がった。交差点をしり目で確認する。考えにふける間もなく〈虚像〉が襲ってきた。衝撃が、全身を襲った。前脚が、腹に食いこんでいる、と視認する。彼女は、地面に激突していた。
悲鳴すら出なかった。目の前が、真っ白と真っ黒のあいだを行き来している。自分のえづく音が、遠く聞こえた。口の中が酸っぱい。
ゴルフクラブが、まだそこにあるか分からなかった。それでも彼女はクラブを支点にして、立ちあがろうとした。ぐちゃぐちゃのジグソーパズルのように視界が混乱し、体が激痛を訴えていた。
膝立ちになった彼女を、背後からだれかが支えた。はっとして、ふりむく。
「ナオコちゃ……聞こえる? ねえ!」
それは、予想した人物ではなかった。
なんとかうなずく。
「だいじょ、ぶ、です」
視界が、徐々に安定してきた。〈虚像〉の相手は、同僚たちがしてくれていた。
ぐったりした体が、力いっぱい抱きしめられた。悲憤をうかべたまなじりが、涙で光っていた。
ごめんね、ごめんね、と耳元で、壊れたように謝っている。
「たつやさ、だいじょうぶ、ですよ」
ナオコは、彼を安心させようと、腕をまわした。がたがたと震える青年の背中を、そっとなでる。背後で〈虚像〉の悲鳴と、怒号が飛びかっている。
ふと、飯田が顔面蒼白になり、ナオコを押し倒した。
顔に、なにかが降りそそいだ。
ぐったりした重みが、のしかかる。呼吸が止まる。青年の肩が、真っ赤に染まっている。ふりかえると〈虚像〉の鋭い爪が赤くひかっていた。
「中村!」と、同僚たちが叫んだ。ナオコは、失神している飯田をかばうように、体をひきずって立ち上がった。クラブを構える。
しかし〈虚像〉は、襲ってこなかった。
灰色の瞳が、ぶくぶくと膨張する。各々30センチほどの大きさになり、破裂した。血が傷口を洗いながすと、美しい白い皮膚へと再生していた。
目をみひらく。
〈虚像〉の顔は、ありふれた人間の相貌へと変わっていた。この世すべての悲しみを背負ったような、無表情がうかぶ。
白い虫のような唇が、動く。
「アイ、ホシイ」
傷だらけの同僚たちが、背後から駆けつけた。
「アイ、ホシイ」
〈虚像〉の背後、ビルの谷間に空間のゆがみを見た。物凄い速さで走り寄るのは、鬼のような形相をした男だった。彼は、助走をつけて、飛びあがった。
「ダカラ」
青い柄のペーパーナイフが、白い鼻梁に埋まる。
「ツクル」
人間のまなこは、ナオコを見つめていた。頭頂部から灰へと変わり、消えさるその瞬間まで、視線はそらされなかった。
山田が、駆けよってきた。
「無事か」
聞きなれた低い声に、気が抜けてへたりこむ。肩に手がおかれた。喉のおくが苦しく、声が出づらかった。
「達也さんが」と、山田の腕をつかむ。
「たつや?」
山田が、倒れている青年に気付いた。にわかに真剣な表情になり、応急処置を始める。ナオコは、体全身が痛んでいて、もうすっかり動けなかった。同僚が寄ってきて「車、呼んだから。安静にしてろ」と声をかけてくれたが、うなずくことしかできなかった。
処置を終えた山田が、戻ってきた。
「傷は浅い。大丈夫だ」
安心させるような声に、息苦さが増す。胸が張り裂けそうだった。
「わたしが、連れてきちゃって」
「あまりしゃべるな」
背中に手が当てられ、さすられる。
「わたしをかばって、どうしよう、やまださん」
泣きそうな声が、彼の耳にとどいた。
背中を撫ぜる手が、止まる。青年の瞳に、動揺が走っていた。
「……かばって」
「わたしのせいなんです」
悲鳴じみた申告は、彼女自身を貫いた。
「わたしのせいで……」
「君のせいではない」と、言葉がさえぎられた。どこか固い声だった。
ナオコの頬を、涙がつたう。
「やまださんにも、また迷惑かけて……ほんとうに、ごめんなさい」
複雑な感情が、山田の顔をよぎった。
体温が、全身をつつんだ。ナオコは、抱きしめられていた。
「……迷惑じゃない」
なだめるような手つきで、頭を撫でられる。
「迷惑なわけがない、これは、俺がしたくてしていることだ」
「でも」
「大丈夫だ」
かすれた声だった。
「大丈夫だから」
独り言めいた慰めは、空虚に溶けていく。ナオコは、自分の罪悪を思い知った。
卑怯な嘘をついていた罪が、ここにきて襲ってきた。そう理由もなく思った。だから、腕をつっぱねようとした。
しかし、かき抱く腕の力は、より強くなる。肩をがしりと掴まれ、顔をのぞきこまれる。
「頼むから」
思いつめたように、口がひらいた。
「もう、動くな。そうすれば」
唐突に、言葉が切れた。彼は、呆然としていた。
「そう、すれば?」と、ナオコが言葉をつぐ。
ふたたび、腕のなかに閉じこめられる。押し殺した声が、
「いいから、しゃべるな」と、言った。
なにかが壊れていく音が聞こえている。それでも、彼の胸は暖かい。
苦しみが沸騰するような体温に、ナオコは、すがりついた。すがりつくことしか、できなかった。




