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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

悪魔の悪行//美人悪魔に甘く溶かされて

作者: 東 日輪斎
掲載日:2026/02/12

 

 視界が、不快なほど鮮やかな赤色に染まっていた。


 鼓膜の奥で、金属がひしゃげる不協和音と、自分自身の骨が砕ける乾いた音が反響している。


 砂藤貴志サトウ・タカシは、自分がアスファルトに転がっていることを、思考よりも先に皮膚の感覚で理解した。夕暮れの街角、不自然に視界を横切ったトラックのヘッドライト。それが、彼が「元の世界」で最後に見た光だった。


(……死ぬのか、俺)


 呼吸をするたび、胸の奥で鋭い破片が暴れるような激痛が走る。


 指一本動かせない。意識が遠のき、冷たい闇が足元から這い上がってくるのを感じて、やがて意識も暗黒に包まれた……筈だった。


「もしも〜し、大丈夫ですか〜?」


 不意に、耳元で鈴を転がすような、あまりにも甘い声が貴志の鼓膜を揺らした。


 もう開かないと思っていた重い瞼を、僅かに押し上げると、そこには、夕焼けよりも深く、血よりも濃厚な赤い空が広がっていた。そして、その空を背負って自分を覗き込む「それ」を視認した瞬間、貴志の心臓は死とは別の恐怖で跳ね上がった。


 白磁のように滑らかな肌。夜を凝縮したような漆黒のドレス。しかし、その頭上には、しなやかに反り返った二本の山羊の角が聳え、背中からは蝙蝠を思わせる巨大な翼が、守護の天蓋のように広げられていた。そして瞳は、底なしの深淵を湛えた紫。


 悪魔――。


 脳が瞬時にそう断定した。生物学的な本能が、逃げろと、抗えと、絶叫を上げている。


 途端に飛び起きようとする貴志だったが、勿論、身体は言う事を聞かない。しかし、それでも気付く違和感があった。


「っ……俺の、身体は…」

「ふふふ、お怪我をされていたようなので〜、治しておきましたぁ〜」


 必死に首を動かして己が身体を見下ろすが、衣服は依然として血痕に塗れ、酷い状態だった。しかし、身体に痛みはなく、傷も何処にも見当たらなかった。


(助かった……のか?)


 困惑をよそに、彼女は貴志の身体を軽々と抱き上げた。まるでお気に入りの壊れやすい玩具を扱うような、細心の注意を払った手つき。


 全身から力が抜けていた貴志は、彼女の豊かな胸元と、そこから漂う「甘ったるい、腐った果実のような香り」に意識が沈んでいくのを感じる。


「では〜、行きましょうか〜」


 彼女が微笑んだ瞬間、背後の翼が力強くはためいた。微かに残る意識の中で貴志は、自分が救われたのだと信じて疑わなかった。


 この先に待つのが、どんな拷問よりも残酷な「慈愛」の牢獄であるとも知らずに。


 ◇


 どれほどの時間が経ったのだろうか。


 意識の底から浮上した貴志を包んでいたのは、かつて経験したことのないほどの、暴力的なまでの「安らぎ」だった。


「あら〜、お目覚めですかぁ〜?」


 視界が開けると、そこは豪奢な寝室だった。


 天蓋付きのベッドは、雲の上に寝ているのではないかと思うほどに柔らかく、貴志の身体を深く沈み込ませている。傍らには、あの時の悪魔の女性が、優雅に椅子に腰掛けていた。


「ここは……?」

「私のお家ですよ〜。そういえば〜自己紹介がまだでしたね〜。私はリリス、よろしくお願いしますね〜タカシさん」

「…何故、俺の名前を?」


 貴志の記憶に名乗った覚えはなく、何故リリスと名乗る悪魔が自分の名前を知っているのか気になった。


「ふふふ、悪魔には〜、色々と便利な力があるんですよ〜?それよりも〜、先ずはお食事にしましょ〜」


 言うや否や、メイド服を着た悪魔がカートを押して部屋にやってきた。


 食事と聞いて起き上がろうとする貴志の肩を、リリスの冷たく柔らかな手が優しく押し止める。


 リリスは、まるで赤子をあやすような手つきで、銀色のスプーンに盛られた琥珀色のゼリーを貴志の唇に寄せた。


「あ〜んしてください、タカシさん。あなたの身体は、まだとってもデリケートなんですから〜」

「いや、でも、もう動けるし、自分で食べられるから……」

「ダメですよぉ〜。これは私がやりたい事なんですから〜」


 リリスの微笑みには、一片の曇りもなかった。


 困惑しながらも口にしたゼリーは、脳が溶け出すような甘美な味わいで、貴志の胃の腑にじわりと広がっていく。一口食べるごとに、警戒心が薄れていき、思考が霧に包まれていくような感覚だった。


 そして…


 それからの日々は、まさに「至福の牢獄」だった。


 貴志が喉を鳴らせば、この世のものとは思えない美酒が供される。


 貴志が微かに顔を顰めれば、複数の悪魔の侍女たちが駆け寄り、至高の香油で全身を揉みほぐす。


 衣服は毎日、指先ひとつ動かさずに着替えさせられた。リリスたちは、貴志がボタンを留めることさえ制止した。「そんな面倒なこと、しなくていいんですよぉ〜」と。


(……おかしい。何かが、おかしい)


 鏡の中に映る自分は、元の世界にいた頃よりも肌は艶やかになり、顔色もいい。だが、その瞳からは、生気が少しずつ失われているように見えた。


 貴志は、リリスに内緒でベッドから這い出そうとした。自分の足で、この部屋の外を見てみたい。そう願って床に足をつけた瞬間、膝が笑い、崩れ落ちた。


 筋肉が衰えたのではない。「歩く」という意志そのものが、この部屋の甘い空気に溶かされ、麻痺してしまっているのだ。


 その時、ドアが開いた。其処にはリリスがトレイを持って立っており、彼女の紫の瞳が、床に這いつくばる貴志を捉える。


「あらあら〜、タカシさん。どうしたんですか〜?」


 トレイを置いたリリスは、貴志を再び抱き上げた。その手つきは、羽毛を扱うように軽い。


 彼女の抱擁は温かかった。だが、その背後に透けて見える彼女の翼が、巨大な檻のように貴志の視界を塞いだ。


「もしかして〜、外が見たいんですかぁ〜? ふふふ、いいですよぉ〜。それでは〜、一緒にお散歩しましょうか〜」


 リリスは貴志を抱えたまま、ゆっくりと部屋を出た。そして、それは貴志がこの世界の「本性」を目の当たりにする、最初の一歩だった。


 ◇


 車椅子に乗せられた貴志は初めて「家」の外へと出た。


 玄関を抜けると、そこには貴志の想像を絶する光景が広がっていた。


 空はどこまでも赤く、街並みは歪な黒い石材で築かれている。立ち並ぶ建物は天を突くように尖り、その隙間を、リリスと同じような翼や角を持つ悪魔たちが我が物顔で行き交っていた。


 だが、何よりも異様だったのは、その街に満ちる「音」だった。


「ひっ、あああぁぁっ!」

「立て!まだ半分も終えてないぞ!この根性なしめ!」


 凄まじい怒号と、何かが肉を打つ生々しい音が響き渡る。貴志は、大通りの中心で繰り広げられている光景に、思わず息を呑んだ。


 そこには、一組の悪魔の親子がいた。父親と思しき大柄な男の悪魔が、刺のついた硬い鞭を、地面に這いつくばる小さな子供の悪魔に振り下ろしている。


 子供は自分よりも巨大な、尖った岩の塊を背負わされ、その重みに耐えかねて血を流しながら震えていた。


「な、何してるんだ!やめろっ!」


 貴志は、自分でも驚くほどの大きな声を上げていた。無理矢理にでも立ち上がろうとする貴志をリリスは困ったように微笑みながらも、止めはしなかった。


 足元がふらつくが、貴志は必死に親子の元へ駆け寄った。


「あんた、子供にこんな事をして恥ずかしくないのか?こんなの虐待だ……今すぐやめてくれ!」


 貴志は父親の腕を掴もうとした。だが、その瞬間。鞭を打たれていたはずの子供が、燃え盛るような真っ赤な瞳で貴志を睨みつけた。


「……邪魔するなっ!」


 子供の悪魔は、折れそうな腕で貴志の胸を突き飛ばした。


「なっ……!?」

「父様は、僕のために……僕を強くするために、こんなに一生懸命、躾けてくれているんだ!」


 父親の悪魔もまた、不快そうに鼻を鳴らして貴志を見下ろした。


「……貴様、人間だな?なんの権利があって我が善行を止める?褒められることはあれど、罵られる謂れはないな」

「これが、善行…?」

「そうだ。もっとも、貴様ら人間の知性では理解出来んだろうがな。分かったなら、其処を退け、我らはもう行くのでな」


 父親は再び、愛情など微塵も感じられない、冷酷な一撃を子供の背中に見舞った。


 子供は苦痛に顔を歪めながらも、その瞳には法悦にも似た輝きを宿し、再び岩を背負って立ち上がろうとしていた。


 貴志には理解不能だった。助けようとした自分が罵られ、痛めつけている父親が尊敬されている。


 混乱する貴志の肩に、後ろから柔らかい、しかし氷のように冷たい手が置かれた。


「ふふふ、驚きましたかぁ〜?」


 リリスが、いつもの穏やかな微笑みで貴志を覗き込んでいた。彼女は、まるで美しい花を愛でるような仕草で、遠ざかっていく親子の背中を指し示した。


「悪魔界では〜、相手を鍛え、苦しみを与え、不屈の精神を持たせること……つまり、自立を促すことが、最も素晴らしい『善行』とされているんですよ〜。あの父親は、自分の娯楽の時間を削ってまで、あんなに一生懸命にお節介を焼いている……本当に、真面目で損な性格の人ですねぇ〜」


 リリスの声には、心底から他人を憐れむような響きがあった。貴志の背筋を、今まで感じたことのない嫌な汗が伝い落ちる。


「……じゃあ、リリスさんが俺にしてくれていることは……一体何なんだ?」


 震える声で問いかけた貴志に、リリスはかつてないほど、蕩けるような甘い笑みを向けた。


「あらぁ〜、まだ気づきませんかぁ〜?私があなたに毎日毎日、美味しいものを食べさせて、一歩も歩かせず、何一つ頑張らなくていいようにしてあげている理由……。それはね〜……」


 リリスは貴志の耳元に唇を寄せ、毒のように甘い吐息を吹きかけた。


「――私が、心の底から救いようのない『極悪人』だからですよぉ〜」

「ご、極悪人……?」


 貴志の喉が、引き攣った音を立てた。耳元に触れるリリスの吐息は、熱を帯びているはずなのに、心臓に氷を流し込まれたように冷たい。


「そうですよぉ〜。いいですか〜タカシさん。相手から自立心を奪い、思考を止めさせ、自分一人では何もできないよう堕落させること……。それは、私たち悪魔にとって『悪行』であり、私にとってはこの上ない快楽なんですぅ〜」


 リリスは貴志の肩を抱き寄せ、その頬を愛おしそうに撫でた。


「あなたが毎日食べていたゼリーも、あのお酒も〜、あなたの筋肉と意志を溶かすために特別に用意したものなんですぅ〜。あなたの魂がどんどん濁って、怠惰にまみれていくのを見るのは〜、本当にゾクゾクしちゃいましたぁ〜」


 貴志は、彼女の腕から離れようとした。だが、膝に力が入らない。指で一突きされただけで、車椅子に倒れ込むようにして、腰を下ろした。


「ぐっ…ふざけるな……!俺を、俺をバカにするな!そんなの、愛でもなんでもない!ただの拷問じゃないか!」

「ふふふ、拷問?そんなことしませんよ〜。私はただ、あなたが望むものを与え続けてあげただけですよぉ〜?」


 リリスは、今度は貴志の前に跪き、彼の左手をそっと両手で包み込んだ。その瞳は、濁りのない純粋な邪悪に満ちていた。


「元の世界でのあなたはどうでしたか〜? 毎日毎日、誰かのために無理をして、嫌な仕事に耐えて、将来の不安に怯えていたんでしょう〜? そんな『善行』ばかりの苦しい世界、本当に戻りたいんですかぁ〜?」

「それは……っ」


 貴志の脳裏には以前の世界での生活がフラッシュバックする。その記憶は決して幸福と呼べるものではなかった。故にどうしても今の状況と比較してしまう。


「ここにいれば〜、私が全部してあげますぅ〜。あなたはただ、私の腕の中で甘えていればいいんですよ〜?そのうちタカシも〜、私なしでは生きていけなくなるまで〜……たっぷり『酷いこと』をしてあげますからぁ〜」


 リリスの言葉は、呪いのようでありながら、信じられないほど甘美な響きを伴って貴志の耳にこびりついた。


 貴志は、背後にある赤く不気味な街並みを、そして自分を「悪(聖人)」として排斥する住人たちを眺めた。


 自分はこの世界で、最も愛され、最も「虐げられている」。


 誰一人として自分を鍛えようとはしない。誰も自分に試練を与えない。


 ただ、このリリスという「大悪党」だけが、自分のすべてを奪い、家畜のように愛で続けてくれる。


「さあ〜、帰りましょうか〜。今日の夕食は〜、もっとあなたの心を腐らせるお料理をたくさん作らせましたからねぇ〜」


 リリスが、貴志の車椅子を静かに押し始めた。貴志は、もう抗おうとはしなかった。自分の足が、もう二度と地面を踏みしめることはないだろうという予感。


 それが恐怖ではなく、奇妙な安心感となって彼を支配していく。


「……ああ、そうか」


 貴志は、赤く燃える空を見上げ、力なく笑った。もし、苦しみの中にしか成長がないというのなら。この甘い地獄の中で、ゆっくりと、幸せに死んでいくこと。それこそが、この世界で唯一許された「真実の救済」なのかもしれない。


「リリスさん……」

「はいは〜い、なんですかぁ〜?」

「外はもう充分なので…帰ります。お腹も空きましたし……」


 その言葉を聞いた瞬間、背後からリリスの恍惚とした、心底嬉しそうな笑い声が響いた。


「ええ、ええ〜! もちろんですともぉ〜、タカシさん!ふふふ、本当に……なんて『悪い子』なんでしょうねぇ〜、あなたはぁ〜!」


 最早、貴志に気力と呼べるものは無く、ただ項垂れて車椅子に座っていた。


 夕闇の街に、車輪の軋む音と、悪魔の甘い笑い声だけが溶けて消えていった。


 最後にリリスは誰に言うでもなく、一人呟く。


「きっと天使様も、見てくれてますよ〜」


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