幼き日の出逢い1
月也は土手の上を一人駆けていた。
初秋とはいえ、暑さがまだ残る9月。額には汗が滲んでいる。
背負っているランドセルが上下に揺れ、挿してあるリコーダーがカタカタとなる。
だが、月也はどれも気になっていなかった。手提げバッグに隠した給食の残りの牛乳とパンを早く子犬に届けたくて仕方がないからだ。
子犬を見つけたのは2学期が始まった日だった。
友達と別れ、土手を一人で歩いている時にどこからかクンクンと可愛らしい鳴き声がした。気になって捜索すると、高架下にいかにも捨て犬だとわかりやすく、段ボール箱に入った子犬がいた。
月也を見上げて嬉しそうに尻尾を振った子犬を放っておけず、一度は家に連れて帰ったが、元の場所に戻してきなさいと母親に一蹴された。仕方なく元の場所に子犬をもどしたのが一週間前。それから毎日、給食の残りをもって子犬に会いに行っている。嬉しそうに月也を出迎えてくれる子犬が可愛くて仕方なかった。
タタタッと、土手の途中に設けられた階段を駆け下りる。
「ちびー!」
とりあえずつけた子犬の名前を呼びながら高架下まで走っていこうとした月也だったが、いつもと違う様子に足を止めた。誰もいないと思っていた高架下に、数人の人影が見えたのだ。
もしかしたら、ちびを拾ってくれるかもしれない。
仄かな期待と寂しさが月也の胸に宿る。
このままじゃいけないとわかってはいたが、ちびと離れがたくて飼い主を積極的に探すという行動にはでていなかった。だが、それでも拾われたならそれを受け入れるしかない。誰かのうちで飼われるのなら、こんなところで給食の残り物をもらっているよりずっとちびの為になるのだから。
そう自分に言い聞かせながら、月也はゆっくりと人影に近づいて行く。高架下の影の下にいるのは、高校生くらいだろうか、制服を着た青年三人だった。ちびのいる段ボールの前に一人がしゃがみこみ、その後ろに二人が立っている。
ちびを可愛がってくれているのかな?
そう思いながらランドセルのショルダーベルトをぎゅっと握り、遠巻きに彼らをじっと見つめた時だった。
キャインっと、悲鳴のようなちびの鳴き声があがる。
びくっと肩を震わせた月也の耳に、ちびの助けを求めるような鳴き声が断続的に響く。
予想外の事にすぐには理解できず身体が硬直してしまったが、何が起きたか月也の目に映る制服姿の彼らの表情を見て徐々に理解した。
苛めているのだ、ちびを。
悲しそうに鳴くちびを見て、ニヤニヤと楽しげに笑っている彼ら。
月也はすぅっと血の気が引いた後、怒りでカッと頬が赤くなった。
「な、何してんだよ!」
怒りによって身体の硬直が解け、走って近くまで行くとそう声を上げる。自分よりも体格の大きな相手の為か、どもってしまったのが情けなかった。
「はぁ?」
けだるそうに月也に顔を向け睨んだのはちびの前に座っている青年。よく見れば、手にはスプレー缶を持っている。
「ち、ちびを苛めるな!」
ショルダーベルトを持つ手の震えを誤魔化すように、ギュッと握りながら彼らに向かって精一杯の大声を上げる。だが彼らは、小学生一人相手に動じる様子は全くない。ニヤニヤと笑うだけだ。
「苛めてんじゃねーよ。実験だよ、実験。動物実験ってやつ?」
にやけながら、ちびの目の前にいる青年はスプレー缶を振りながらそう言った。月也は眉をひそめる。
「じ、実験?」
「そうそう。どの企業だってやってんだろ。この製品の効能はどんなもんかなーって」
「俺らもこれがどれだけ効くのか、この捨て犬で実験してんの」
後ろの二人も説明に加わるが、その顔に悪びれた様子はかけらもない。こんな悲しげなちびの鳴き声を聞いても、罪悪感も感じなければ憐れむ気持ちもかけらもないのだ。
「どうやら、催涙スプレーは効くみたいだな。次はこれ試すか」
絶句した月也の存在を無視し、立っていた青年が鞄から取り出した新たなスプレー缶を座っている青年に渡す。
「おー、殺虫剤ね。虫は殺せるけど、小動物はどうなのかってか」
「一本分くらい使えば効くんじゃね?」
言いながらケタケタと笑う三人に、月也は背筋が寒くなった。
あんなに愛らしい、子供の月也でさえ守ってやりたくなる子犬にそんなことができる人間がいることが信じられない。
シュッと噴霧された殺虫剤に、ちびの悲鳴のような鳴き声が上がる。段ボール箱の中で必死に逃げようと動き回っている音がする。
「やめろよ!」
青年三人に対する怯えよりも、ちびを守りたいという気持ちが勝り、月也はちびにスプレーしている青年に全身でぶつかった。だが、青年は少しよろめいたくらいで、月也の方が弾き飛ばされる。
「んだよ、痛ぇな」
スプレーすることはやめさせられたが、青年たちの気持ちまでは変えられていない。彼らは淀んだ沼のような濁った瞳で月也を睨む。
「かっこつけてんじゃねーよ、ガキが」
「正義の味方ごっこってか?」
「だいたい、てめーの犬じゃねーだろ? 黙ってろ」
次々に怒鳴られ、しりもちをついていた肩を奴突かれ、月也は身がすくんでしまった。ちびを守ってあげたいのに、指の一本も動かない。唇が震えて、叫ぶことすらできない。
そんな自分が情けなくて、悔しくて、涙が滲む。
キュンキュンと辛そうになくちびが可愛そうで、助けられなくて申し訳なくて、胸が苦しい。
誰か助けて。
そう願った時、土手の上で気配がし、月也は天の助けかとそちらを振り仰いだ。
視線の先には、土手の上を歩く男の人の姿。父親と同じくらいに見えるので、おそらく三十代かもしくは四十代だろう。
月也の想いが通じたのか、彼は声すらでない月也の方を見た。確実に目があった。そして、その視線は子犬を苛める青年たちにも向けられる。高架橋には電車も通っておらず、子犬の鳴き声も聞こえたはずだ。土手の下で何が行われているか、わからなかったとは思えない。
だが、彼の視線は何事もなかったように自分の前方に戻された。何も見なかったかのように、彼はそのまま歩を進めて通り過ぎていく。先ほどよりも足早になった歩調に、関わりたくないという思いが現れているようだった。
見捨てられた――。
「なんで……」
震える唇から、絶望の声が漏れる。
青年達よりも大人なのに、自分が注意するよりも効き目があるかもしれないのに、彼はそうしなかった。面倒に巻き込まれたくないという気持ちしか見えなかった。
月也は俯いて、地面について擦りむいた両手をぎゅっと握った。
青年たちはまだちびに向かって何かを吹きかけ、つらい鳴き声を上げているちびを見て楽しげに笑っている。
こんなこと許されるわけがない。いくら捨てられたからといって、命をないがしろにしていいはずがない。
それがわかっているのに動こうとしない自分の足を、月也は血の滲む手で叩いた。
動け、動けよと、心の中で叫ぶ。
自分よりも、ちびの方がどれだけ怖い思いをしているか。苦しい思いをしているか。
助ける人は、今、自分しかいないのだ。
ちびの飼い主を一生懸命探していれば、ちびはこんなひどい目にはあわなかった。飼えもしない自分のわがままでちびはこの場所に居続けたのだ。
自分のせいなのだから、自分で助けなければいけない。震えている場合じゃない。
わかってるのに、どうして……。
「動けよ……」
小さく呟いて唇を噛む。叩いて赤くなった太ももは、自分の身体じゃないように動いてくれない。
ちびから見たら、今の自分は先ほどの大人と同じに見えるだろうか。
自分より大きな体をしてるのに、助けてくれない。自分は見捨てられたと……。
胸が痛くて、息が苦しくて、俯いた顔の両目から涙がこぼれ落ちる。
その時だった。
「あーんーたーたーちーーー‼︎」
甲高い大きな声とともに、月也の背後の草がザザザッと勢いよく揺れる音がした。はっと顔をあげた月也の上空を、影が通り過ぎる。その影は、月也の一メートルほど前に軽やかに着地した後、すぐさま地を蹴った。
「なーにしてんのよっ!」
発声の良い大声とともに、その影の持ち主は見事なとび蹴りをスプレー缶を持った青年に決める。月也のタックルではよろめいただけの青年は、地面を転がっていた。
「っ⁉︎」
息をのんだ月也の視線の先で、まるで羽が生えているかのようにふわりと地面に着地したのはランドセルを背負った短い髪の子供。身長は自分より少し低いだろうか。135センチくらいに見える。赤いTシャツにデニムの短パンという後姿では男女の区別がつけられないが、赤いランドセルを背負っているのでおそらく女の子だろう。
腰に手をあて、驚いている青年たちを睨んでいるらしい少女の背は凛として、月也は知らずに魅入っていた。




