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祈り ―イリス―



 いつの間にかうちとけて、すっかり仲良くなっているようすの少女たちに、イリスは安堵と少しばかりの置いてけぼり感を味わっていた。

 女同士の関係に割って入るほど無粋ではないつもりだし、割って入れるとも思えない。離れて見守るしかないところだが、喜ばしいはずの光景に一抹の寂しさがよぎるのはなぜだろう。

 多分、千歳の方も男同士でつるんでいるのを似たような目で見ているだろうから、お互いさまなのだろう。

 正反対なふたりが互いに刺激し合い手本となり、いい関係を築いてくれたらと考えた安易な期待は、ものの見事に外れた。あれは完全に自分の失敗だった。同い年の女同士だから仲良くできるだろうなんて、何もわかっていない男の馬鹿な考えだと、後に周りから言われて落ち込んだものだ。まったく、自分は女性のことを少しもわかっていない。だからこれまで、さんざん振られてきたのだろう。

 一度は決定的なまでに悪い方向へ向かってしまった。千歳もメイリも傷つき、不幸なだけのできごとで終わるところだった。しかしそこから立ち直り、彼女たちは自ら相手と向き合った。他人のお膳立てによるのではなく、己で相手を理解し受け入れようと努力して、ようやく和解へと至った。それを心からうれしく思うと同時に、人との関わり方を改めて考えさせられる。

 アルギリ行きの準備を相談しているふたりから離れ、イリスは廊下に出た。そのまま母屋から出て、城館の片隅にある礼拝堂へ足を向ける。常はひっそりとした空間に、今は入れ代わり人が訪れ、絶えず火が灯されていた。

 大きな被害を受けることなく、最終的には敵軍を後退させることに成功したものの、当然こちらにも死者は出ている。砦が燃え落ちたあの時、総崩れになるのを防ぎ撤退するだけで精一杯だった。戦場に置き去りにしてきた遺体は、今も野ざらしのまま鳥や獣に荒らされているのだろう。葬ることも、遺品を家族に届けることもできないのが悔しく、申しわけない。

 祭壇の前で膝をつき、イリスは死者たちの冥福を祈った。すべての生命を司る創造神は、死せる魂を新たな命に生まれ変わらせると言われている。彼らの平安と幸福に満ちた次なる生を願い、祈る。

 ――ベネットと口を利いたのは、何年ぶりだったろうか。

 炎の中に倒れていた、かつての同期生を思う。

 砦の地下で対峙した男には、もはやイリスの言葉は何も届かなかった。当然だろう。あの試験以来いちども彼とまともに向き合うことなく、言葉を届けようともしなかった。一生懸命メイリと向き合おうとしていた千歳にくらべ、自分はなんて冷淡で怠慢だったことか。いまさら聞いてほしいなどと言えた義理ではない。

 恨まれていることは知っていた。何度か顔を合わせるたびに、憎悪に満ちた目を向けられたものだ。当然いい気はしなかったが、あまり気にしてもいなかった。試練を乗り越えられなかったのは彼の力不足であり、その傷を乗り越えるのもまた本人の問題だ。八つ当たりや逆恨みでごまかしたいならば、それでもいい。すべて本人の選んだ結果であり、対価を支払うのもまた本人以外にない。こちらがあれこれ気に病む問題ではない――と、思っていた。

 男同士というのは、そんなものだ。親しい友であっても、個人的な問題には突き放して考えるところがある。相手をどうでもいいと思っているのではないが、あまりベタベタしない淡白さがある。

 けれど千歳とメイリを見ていると、それでよかったのだろうかと自問する気にもなる。

 あの試験の後、もっとベネットを気にかけていたら――いまさらそれを考えたところで、もう完全に手遅れでしかないが。

 初めて出会った時のことが思い出される。生まれもった女顔のせいで、十代の頃のあだ名は「お嬢さん」だった。十六で試験を受けた時も、冷やかしや懐疑の視線を浴びたものだ。

 身体はそれなりに鍛えていたから本気で女だと思った奴はいなかっただろうが、こんな優男がという顔を誰もがしていた。ベネットはその最たる例だ。彼はイリスをはなから馬鹿にし、せせら笑っていた。

 小耳に挟んだところでは、ベネットは早くから才能に注目され、天才と誉めそやされていたらしい。竜騎士を目指す者にはそんな手合いがごろごろしている。実はイリス自身も似たような評価を得ていた。本場ではまったく役に立たない経歴だという現実を知らない新人は、むやみと自信にあふれているものだ。ベネットは最後の試練も軽くこなしてみせると余裕綽々だった。

 ……その男の悲鳴を間近で聞くことになるとは思わなかった。

「たすけてくれぇっ!」

 木々の合間から聞こえた声に、イリスは立ち止まり耳を澄ませた。山に入って二日目のことだった。

 各自個別に行動するため、試験中他の受験者と顔を合わせることはない。なるべく距離を取るようにするものだが、あの時ベネットとイリスは思いがけずすぐ近くにいた。

 物騒な気配がする。木々が揺らされ枝がへし折られる音だ。竜の声を聞いた瞬間、イリスはそちらへ向かって駆け出していた。

 何が起こっているのか、想像のとおりだった。駆けつけたイリスが目にしたのは、頭から血を流しているベネットと、懸命に竜を引き離そうとしている見届け役の騎士だった。

 騎士の方も負傷していた。イリスの見届け役が援護に向かう。イリスはベネットに駆け寄ろうとして、彼が腰から短剣を引き抜くのを見た。

 今、竜は騎士たちに気を取られ、ベネットに背を向けている。さらにその向こうに、卵を抱えた巣があるのが見えた。

 傷はそれほど深くないのか、ふらつくこともなくベネットは立ち上がる。竜の急所を狙い襲いかかろうとする寸前で、イリスは彼に飛びついた。

「よせ!」

 ベネットの手から短剣をもぎ取る。一瞬驚いたベネットは、すさまじい形相で取り戻そうとした。

「何しやがる! かえせ!」

「竜を傷つけたら即座に失格だぞ! 忘れたのか!」

 彼の手が届かない遠くへと、イリスは短剣を投げ捨てる。ベネットは目を血走らせて掴みかかってきた。

「きさま! 俺の邪魔をするのかっ」

「落ち着け。僕らに許されているのは、卵をひとつ持ち帰ることだけだ。絶対に竜を傷つけてはならない。最初に説明されただろうが」

 山に入る時、長剣も弓も持ち込むことは許されない。唯一携行できる短剣も、戦うためのものではない。もしもそれで竜を攻撃などしようものなら、結果の如何に関わらず問答無用で失格となる。受験者全員に徹底されている規則だ。わかりきった話のはずなのに、興奮したベネットは聞く耳を持たなかった。

「うるさい! そいつを寄越せ!」

 イリスの腰に手を伸ばし、短剣を奪おうとする。イリスは身をかわし、ベネットに足払いをかけた。

 転んだ彼をそのままに竜の巣へと走る。騎士たちがかなり危険な状態だった。これ以上ベネットともめている暇はない。

 竜に気付かれないよう巣にたどりついたイリスは、三つ並んだ卵からひとつを抱え上げた。

「おい、こっちだ!」

 竜に向かって声を張り上げる。

「見ろ!」

 竜が気づき、振り返る。卵を盗もうとしている人間に、たちまち怒りの咆哮を上げて突進してきた。

「――今のうちに!」

 騎士たちに声をかけて、イリスは卵を抱えたまま反対方向へ逃げ出した。竜が追いかけてくる。その大きさとすさまじい迫力に、生きた心地がしない。イリスは必死に地を蹴り、岩や木の枝を飛び移り逃げ回った。

 狭い場所ばかりを選んだので、身体の大きな竜にはなかなか追いつけなかった。しばらく逃げ回り、他の三人が安全な場所まで退避できるだけの時間をかせぐと、イリスはふたたび巣の方角へと引き返した。これがまた大変だった。狭い場所でなら逃げられても、開けてくるとそうはいかない。死を間近に感じながらもかろうじて逃げきり、なんとか巣に卵を戻した。

「ごめんな」

 ひとなでして、迫りくる竜から冷や汗をかきつつ逃げる。あとはもう全力で走った。激怒していた竜も巣から一定以上は離れず、おかげで命からがらイリスは飛竜隊に戻れたのだった。

「残念だが、お前は失格だな」

 応急手当てを受けるベネットに、飛竜隊長サリードの宣告が下される。ベネットは猛然と抗議した。

「待ってくれ! まだやれる!」

「助けを求めた時点で、試験を放棄したとみなされる。承知のはずだが」

「ちっ、違う……俺は……っ」

「お前は失敗したんだ。二度の挑戦は許されない。あきらめろ」

 サリードは厳格に抗議を退ける。それでもベネットはおさまらず声を上げ続けていたが、騎士たちによって強引に連れて行かれた。きちんと手当てをされた後、追い出されるのだろう。気の毒ではあるがしかたのないことだ。イリスにもベネットは資格を失ったとしか思えなかった。

 こちらを振り向いたサリードが、イリスに問いかけてきた。

「竜の卵はどうした」

「巣に戻しました」

 太い眉がくいと持ち上げられた。

「ほう? せっかく手に入れた卵を戻したというのか」

「えっと……」

 イリスは頭をかいた。言われてはじめて、そういえばそのまま持ち帰るという選択もあったかと気がついた。今まで少しも考えていなかった。

「いや、だって、あれを持ち帰るのはどうかと思うし……」

 あの場で卵を手に入れても火事場泥棒みたいなもので、けして誉められた行為ではないだろう。どのみち親竜から盗み取ることには違いないのだが、だからといってどんなやり方でもいいとは思えなかった。

「あの、僕も失格なんでしょうか」

 一度手に入れかけた卵を失い、引き返してきた。結果を見ると、イリスも失格の条件に当てはまる。おそるおそるうかがうと、年輩の騎士は面白そうに口の端を吊り上げた。

「さて――見届け役としてどう思うかね?」

 水を向けられた騎士もまた、面白そうな顔でイリスを見た。

「あのまま卵を持ち帰っていたなら、失格にしてやったところですな」

 イリスは首をすくめた。深く考えなかった行動が運命の分かれ目だったらしい。あぶない、あぶない。

 しかし、この言い方からすると――

「いちおう、まだ資格はあるが、試験の残り日数はあと三日だ。今から山に入り直して巣をさがし、卵を手に入れるのはかなり厳しいぞ。どうする?」

 試験官の問いにイリスは即答した。

「やります」

 ここであきらめるという選択など、どこにもなかった。迷いなく答える少年に騎士たちもうなずく。

「では行ってこい。健闘を祈る」

 サリードの言葉に送られてふたたびイリスは山に入り、そして期限ぎりぎりでどうにか卵を得、晴れて竜騎士となったのだった。




 ――あの時イリスが邪魔をしたことで、後々までベネットには恨まれ続けた。彼の中では、イリスのせいで失格に追い込まれたということになっていたらしい。どう考えても筋違いな逆恨みなのだが、自尊心を保つため彼なりに必死だったのだろう。いっそ哀れな気がして、イリスはベネットと対立することもなく、無関係を貫いた。

 いずれ彼もあきらめがつき、現実を受け入れる時が来るだろう――という考えは、またも外れてしまったのだったが……。

 跪いたまま思考にふけるイリスの肩を、叩く手があった。我に返り振り向けば、ザックスが立っていた。

「どうした。ずいぶん考え込んでいたようだが」

 いや、と軽く笑みを返し、イリスは立ち上がった。

「ザックスも祈りに?」

「ああ。うちはけっこう死んだからな」

 ザックスは新しい蝋燭に火をつけ、祭壇に立てる。彼が祈りを捧げる間、イリスはだまって待っていた。

「落ちついて話す時間もなくそのままになっていたが、あらためてベネットのことで謝罪する」

 祈りを終えて振り向いたザックスは、生真面目に頭を下げた。

「ザックスが謝らなくていいよ。僕とあいつの因縁だったんだから」

「だが、奴は私の配下だった。立ち直らせることができなかったのは、私の力不足でもある」

「その気持ちはわかるけど……正直、どうしようもなかったんじゃないかな」

 イリスは首を振って礼拝堂を出た。ザックスもともに出る。乾いた冬の風が髪をなぶった。

「僕も、もっとあいつに何かしてやっていればって思うよ。それで何か変えられたかどうかわからないけど、あまりに薄情すぎたかなって思う。でもいまさらだよな。こんなことになって、今頃言っても遅いよな」

「……あまり気にするな。奴が弱かっただけだ。お前のせいではない」

 なんとなくふたり並んで歩く。日差しの薄い空を、何頭かの飛竜が飛び回っていた。地上には物珍しげに見上げる町の人の姿がある。地竜も人気者だった。地方の人々にとっては滅多に見られない特別な生き物だ。そばには怖くて近寄れないため、遠巻きに見物する人垣ができていた。

 竜を愛し、自慢にするロウシェンの民。竜を持つことで特別視されている竜騎士。その構図に、時折疑問を抱く。

「……なあ、ザックス。聞いていいか?」

「なんだ」

「その……失礼な質問かもしれないから、気を悪くしないでほしいんだけど、どうしてザックスは竜を望まなかったんだ? その実力はあったのに」

 腕に覚えのある者は大抵一度は竜騎士に憧れる。しかしザックスははじめから騎馬隊を希望していた。彼ならばきっと竜を得ることができただろうに。

 竜騎士団の大半を構成しているにもかかわらず、騎馬隊は一段低く見られがちだ。竜を持つ者こそが優れているのだという、偏見や思い上がりが騎士団の内外に存在する。それゆえなおさらに、実力のある者は竜を求めるのだ。

 足を止めたザックスは、笑い混じりの吐息を漏らして肩をすくめた。

「まったく、失礼な質問だな。騎馬隊の何が悪いと言ってやる」

「ごめん。騎馬隊を見下すつもりはないんだ。飛竜隊や地竜隊が特別だとも思ってない。けど、そんなふうに考える奴は多いだろう。だから……」

「特別と言えば特別には違いない。だが、騎士本人ではなく竜のおかげによるものだろう。私はそれが気に入らない」

 年長の友人は静かに言った。

「竜騎士の戦闘力がずば抜けて高いことは事実だが、竜に助けられている部分が大きい。私はあくまでも己自身の力で勝負したかった。すべて自分の能力だと、胸を張りたかった。つまりは、負けん気が強いということだな」

 友人の言い方にイリスはくすりと笑いをこぼした。

「付け加えると、親のもとから卵を奪い取るというのが、どうにもな。罪悪感を覚えずにはいられない」

「ああ、それ僕も思ったよ」

 試験の時を思い出し、イリスは苦笑した。

「試練だとか何とか、やたらと美化されてるけどさ、じっさいはそんなかっこいいものじゃないよ。巣のそばに張り込んで、親竜が離れた隙に卵をかすめ取ってくるんだから、完全にコソ泥だろ。もしくは誘拐犯か? 人間社会でやったら犯罪以外のなにものでもないよな」

 あけすけな告白に、ザックスは声を立てて笑った。

「竜にとったら迷惑な話だよな。人間が勝手な理由をつけて、大事な子供を盗んでいくんだから。そりゃあ殺したくもなるだろう。本当に、竜騎士なんてろくでもない」

「そこまで言う必要もないと思うが」

 遠慮なく言いたいことを言うが、ザックスの顔に厭味はない。彼はただまっすぐ誠実に、己の心情を述べたにすぎない。

「我々には竜が必要だ。それも事実だ。親竜には申しわけないが、ロウシェンの民を守るためだ」

「……どうだろうな。他には竜を抱える軍なんてない。竜がいないのが普通だろう。なら、竜なんて本当は必要ないのかも……」

 ザックスは首を振った。

「今回、お前たちのおかげで窮地を切り抜けられた。竜騎士でなければ成せなかったことだ。そこは素直に認め、ありがたがっていいと思う。だからといって卑屈になるつもりもないがな。さっきも言ったように、我々は己の力のみで勝負している。それで結果を出せば、実質的に竜騎士よりも上だということだ。部下たちにも、そう教えてきたつもりだったのだがな」

 恥じることはない、誇りを持てという言葉は、最後までベネットには届かなかった。虚勢でも何でもなく、ザックスは己の道に自信と誇りをもっている。その姿から学んでくれていれば、ベネットにはいくらでも可能性が開けていただろうに。

 己と向き合い、千歳と向き合い、道を模索したメイリ。誰も何も見ようとせず破滅へと進んだベネット。対比的な姿に、やるせない思いだけが残る。

 また思いにふけるイリスを見て、ザックスは咳払いをした。

「ことわっておくが、お前たちを批判したり否定するつもりはないぞ。頼もしい仲間だと思っている」

「知ってるよ」

 どこまでも真面目な友人にイリスは微笑む。イリスにとっても、彼は頼もしい仲間だ。

「なんでもそうだが、悪い方向へ取ろうとすれば、いくらでも否定の言葉は出てくるものだ。竜がだめで馬ならいいのか? 家畜は? みんな人間の勝手で使われている。それを全部否定するのか? どこかで、割り切る必要はあるだろう。そうでないとやっていられん」

「……そうだな」

 遠くから飛竜隊の騎士たちが呼びかけてきた。それに手を振って応えていると、力強い手がイリスの背中をどやした。

「能天気なくせに、らしくもなく悩むな。そもそも、お前が今考えるべきことは他にあるだろう。アルギリに行くなら、その目立つ髪くらい隠せよ」

 イリスは眉を上げ、自分の髪をひと房つまんだ。

「目立つか?」

「……本気で言っているから張り倒したくなるな。それだけきれいな銀髪というだけでも珍しいのに、そこまで長く伸ばして目立たないわけがないだろう」

 いささか乱暴にイリスの髪をつかみ、ザックスは詰め寄った。

「いっそ切ったらどうだ。別に洒落心で伸ばしているわけじゃないんだろうが」

「そりゃ、切ってもいいんだけど……どうせすぐ伸びるだろ。この戦がどれだけ長引くかわからないし、中途半端に伸びてうっとうしくなったら困るじゃないか。戦場じゃ、そうこまめに身だしなみを整えられないし」

「戦場でなくてもしないだろうがお前は!」

「あ、そうだ、剃り上げちまったらどうかな? それなら伸びるまでに大分時間がかかるし」

「お前というやつは……伸ばすか剃るかの選択しかないのか。なんなんだ、その極端な発想は」

 髪から手を放し、ザックスは嘆いてみせる。なにがいけないのかと頭をかくイリスを見て、疲れたように深く息を吐いた。

「ティトシェに聞いてみるんだな。彼女が剃ってもいいと言うなら、私から言うことはない」

「な、なんで、ここでチトセが出てくるんだよ」

 たちまちうろたえるイリスに、彼は呆れを隠さない。からかう気も起きんと、つれなくイリスに背を向けた。

「幸せ者に好んであてられる趣味はない。せいぜい男を見せて、彼女をしっかり守るんだな」

 そのままザックスは振り返ることなく去って行く。遠ざかる背中を見送り、イリスは一人照れて髪をかきまわしていた。

「幸せ……なのかな?」

 他人が聞いたら蹴飛ばされそうなことをつぶやく。しかし本人は真剣だった。

 千歳から愛の告白ともとれる言葉を聞かされたのはつい先日のこと。言った当人はきれいに忘れて元の知らん顔だ。あれは本当に彼女の本心だったのだろうか、そもそも恋愛感情を伴うものなのだろうかと、考え出したらきりがない。

 好かれているのは知っているが、友情、もしくは兄に対する甘えではないかという気がしてならない。それはそれでうれしいのだが、男としてはやはりそれ以上のものを望んでしまう。

 しかし覚えていない彼女に向かって、あの時の言葉はどういう意味だったのかと聞くわけにもいかない。聞いて他意はないと言われたら落ち込みそうだし。その可能性が少なくないので、勇気を出せないイリスだった。

 上着の隠しに手を入れ、大事にしまっていたものを取り出す。長く離れることになるからと、千歳に頼んで借りたリボンだった。その後結局一緒に行動しているわけだから、もう持っている意味はないかもしれない。けれどなんとなく返せずに、ずっと持っていた。

 この戦が終わり、彼女のもとへ帰った時に、伝えるつもりだった。せっかくそう決心したのに、変わらず目の前にいる千歳を見て、どうしたらいいのだろうといまさらに迷ってしまう。

「言って、いいのかな……」

 彼女はどう思うだろうか。伝えて、困らせないだろうか。ずっとそばにいてほしいという言葉はどういう意味だったのか……互いの想いが一致していることを、切に願う。

 羽音がして、相棒がそばに舞い降りてきた。甘えてすり寄るのをなでてやり、冷たいなと笑う。冬の寒さをものともせず空の散歩を楽しんできた竜は、氷のような身体を遠慮なく押しつけてくれた。

「なあ、イシュ、お前は僕といて、幸せだと思ってくれるか?」

 竜は人の言葉を語らない。返事は無心に見返してくる瞳だけだ。信頼と愛情に満ちたまなざしにイリスも微笑みを返し、冷たい鱗に口づけを贈った。

「チトセも、そう思ってくれるといいよな……」

 今一度、多くのことを祈った。散っていった命に安らかな眠りと幸福な目覚めを。この地に元の平穏な日々が訪れることを。これからも竜と人のよき関係が続いていくことを。

 そして彼女との、どこまでも続くあかるい明日を。




                    ***** 終 *****

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