3
ベネット。その名前は、以前イリスの口から聞いた覚えがある。
竜騎士団騎馬隊の隊員であるとのことだった。かつて飛竜騎士を志し、最後の試験をイリスとともに受けた。そして夢を果たせなかった。
彼がメイリさんに接触していたのはなぜなのか、私もイリスも気になっていたところではある。でもその後エランドの侵攻があって、調べるどころでなくなっていた。イリスの方はどうしていたのか、話を聞くこともなかったのでなかば忘れかけていた。今メイリさんの口から出た名前を聞いて、ようやく記憶にある相手だったと気付いたくらいだ。
庭でメイリさんに話しかけていたのも彼だったんだな。あらためて間近で姿を見、確信する。すらりとした背格好と少し長めの茶色い髪。間違いない、あの時の騎士だ。
ベネットさんは私をつかまえたまま、メイリさんに明るく話しかけた。
「わがままお姫様のお守りも大変だな、メイリ」
「ベネット……」
メイリさんは困惑しているようすだ。彼と私を交互に見る。
「こんな戦場までくっついてきて、いっぱしの参謀気取りで軍議にまで出入りしているとか? みんな呆れてるぜ。陛下もたいがい甘やかしすぎだよな」
「……よせ」
私当人の前で口にされる非難を、メイリさんが力なく制止する。きっと誰もが思っていることだろうから、彼女も内心ではうなずく気分なのだろう。ただ、私に聞かせるためわざと目の前で口にするのには、消極的なようだ。
とりあえず、ベネットさんが私にいい感情を抱いていないことはわかった。それがメイリさんに同情するがゆえのことなのか、それとも他に理由があるのか、そこまではわからないが、今はいい。
彼とメイリさんの関係も気になるけれど、それよりもっと深刻な問題がある。
私はもう一度彼の手を振り払おうと身をよじった。
「すみません、急いでるので放してください」
「なにをそんなに急ぐ必要があるんだ? 今は軍議も開かれていないぜ」
「知らせたいことがあるんです……イリスに」
少し迷いつつイリスの名前を口にする。彼の反応を見たいという気持ちもあった。ベネットさんは皮肉げに笑い、あからさまに嘲笑の息を吐いた。
「ああ、お姫様はイリスがお気に入りだっけ。女が好きそうな顔してるもんな。リヴェロ公といい、えらく面食いだねえ。自分は大したことないのによ」
「やめろ、ベネット」
メイリさんが顔をしかめ止めに入る。けれどベネットさんはやめない。
「あんたリヴェロ公と結婚するんじゃなかったっけ? ひょっとして二股か? やるじゃないか。いったいどうやって公王を手玉に取ったのか、ぜひ聞かせてもらいたいね。地味で色気もないガキっぽい女だとしか思えないのに、どこがそんなにいいんだか。おとなしそうな顔して、実は床あしらいがえらく上手いとかか? それなら俺も一度試させてもらいたいね。どうせ誰の前でも脚を開くんだろうが。陛下にもそれで取り入ったんじゃないのか」
「ベネット!」
私を傷つけるための悪意を、ベネットさんはせっせとくり出してくる。メイリさんの方が反応しているが、私は特に何とも思わなかった。
この程度で私を傷つけられるとは思わないでほしい。小学中学高校と、一貫して男子は敵だった。クラスには必ず私を目の敵にして、いじめてくる奴がいた。十年以上奴らの悪意と戦ってきたのだ。こんな可愛い悪態くらいで傷つくような、かよわい神経していない。
泣きも怒りもせず平然としている私に、ベネットさんはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「あわてて行ったところで無駄だぜ。気付かないのかよ、砦の中が静かだろうが。竜騎士も他の連中も、おおかた出払ってるぜ」
この言葉はまともに思えて、私は周囲の気配に耳を澄ませた。たしかに今日は静かだった。満員状態の砦はいつもざわめいているのに、さっきからしんとして廊下を歩く人の姿もない。
「……どういうことだ?」
私の代わりにメイリさんが尋ねた。ベネットさんは肩をすくめる。
「ぎゅうぎゅう詰めに押し込まれて、竜も馬もついでに人間も、みんなうんざりしてるのさ。出撃があればいいが、小競り合いばかりでちっともまともな戦闘にならないだろう。これじゃあまいっちまうってんで、外に出てるんだよ。少なくとも、馬と竜は運動させてやらないといけないからな。哨戒がてらのお散歩ってわけだ」
たしかに、広い庭が過密状態になるほどたくさん馬と竜がいた。特に竜は狭い場所に閉じ込められるのが嫌いだから、運動のために外へ出したというのは納得がいく。
でもそれは、今の状況を考えると非常に危ない。私はますます焦った。
「放してっ」
「だぁから、誰もいないって言ってるだろう」
もがけばもがくほど、ベネットさんの手が強く私の肩に食い込む。痛くてつい顔をしかめてしまう。
「それならモンドさんのところへ行きます。それか、領主の誰かに」
いくらなんでも全員が出払っているということはないだろう。ナハラ騎士団長のモンドさんならいそうだし、いなければ領主たちをさがせばいい。誰かは残っているはずだ。この際ベール卿でもいい。
「行ってどうすんだよ。迷惑かけて陛下に恥をかかせるなよ。ガキは大人の言うこと聞いておとなしくしてろ」
「ベネット、だったらなぜお前はここにいる?」
メイリさんが尋ねた。そういえばと、私も不思議に思う。みんなが出ているのに、なぜ彼は残っているのだろう。
「他の連中がみんな出ていけば、逆に砦の中は静かで快適だろうが。残ってる方がお利口さんだぜ。それに、お前とゆっくり話したかったのさ」
「そういうのは、もうやめてくれと言ったはずだ。あたしは……」
「いいじゃないか。せっかくの機会だ、本人にもしっかり聞いてもらおうぜ。自分がどれだけひどいことをしたのか、そのせいでお前がどんな目に遇ったのか、言ってやればいい」
「やめろ」
「周りからちやほやとお姫様扱いされていい気になってる馬鹿女に、自分の身の程ってものを教えてやろうぜ。だいたいなんでお前がこんなやつを守ってやらなきゃいけない? こいつのせいで、お前は名誉も仕事も奪われた。仲間たちからつまはじきにされて、冷たい仕打ちを受けて、まともな騎士として扱ってもらえない。誰のせいだ? 全部こいつのせいだろうが」
「やめろ……」
メイリさんは身体をふるわせ、耳をふさいでしまう。聞きたくない――聞けばまた憎しみを抑えられなくなる。彼女の全身がそう訴えていた。
彼女のためを装いながら、逆に彼女を苦しめている。本当にメイリさんを気にかけているなら、こんなふうに苦しむ姿は見たくないはずだ。いったい何を考えているのか。私はベネットさんを見上げた。
「そのことについては、ちゃんと話し合いたいと思っていました。メイリさんが私に話してくれるなら、なんでも聞くつもりです。でもその場に、あなたは必要ありません。いたずらに彼女を悩ませるだけの言葉をまき散らさないで」
「何をえらそうに。お前が黙れよ」
上っ面だけの笑顔も消して、ベネットさんは吐き捨てる。同時に大きな手が私の口をふさいだ。
鼻まで押さえつけるものだから息ができない。もがく私を見てメイリさんが詰め寄った。
「よせ、苦しがってるだろう! 手を離すんだ!」
「心配するな、殺しゃしないよ。ここではな」
口から手が離れ、ほっと息をついたのも束の間。
首筋に強い衝撃を受けて、一気に意識が遠くなった。
「――――!」
暗くなる視界の中、メイリさんが何か言っているのはわかったが、言葉までは聞き取れず、私はそのまま崩れ落ちた。
――寒い。
全身に冷気がしみこんでくる。
伏せた顔の下が固く冷たかった。どうしてこんなに寒いのだろう。布団はどこ? 柔らかな枕はないの?
意識が徐々にはっきりしてくる。水音が聞こえた。川の近くにいるのだろうか。私は砦にいたはずなのに、なぜ? 疑問に思うけれど頭がひどく重くて、完全に目を覚ますことはできなかった。首の後ろが痛い。何があったのだろうとぼんやり考え、どうやら殴られたらしいことに思い至った。
そうだ……廊下でベネットさんと出くわして。言い争ううちに、彼が私を殴ったのだ。
自覚するとますます痛みが強くなる。けれどそれが逆に意識をはっきりさせる役に立った。私はうつ伏せに倒れたまま、うっすらと目を開ける。屋外にいるのではなかった。石の床が目に入る。薄暗いけれど、真っ暗でもない、ちゃんと上から光の入る空間……半地下だろうか。そこに、幅二メートルほどの小さな水路が流れていた。
砦の中に水路があったなんて、知らなかった。この水は、もしかしてルルパ河から引いているのだろうか。なるほど、こういうものがあれば河から離れていても水に不自由することはない。砦内に井戸は少なく、あれだけで生活用水すべてをまかなうのは大変だろうと思っていたのだ。
「何を考えているんだ……こんなことをして、どうする気だ」
メイリさんの声が聞こえる。目を覚ましたことには気付かれない方がいいだろうと判断し、私は寝たふりのまま耳をそばだてた。
「しらじらしいこと聞くなよ。ここまでついてきたんだ、もうわかってるんだろう?」
「ベネット……」
「今なら大丈夫だ。みんな出払って、気付かれるおそれはない。じっさいここまで来る間、誰にも見つからなかっただろう? 当番の奴が水を汲みに来る時間も調べておいた。しばらくは誰もここに寄りつかない」
二人の声は、私の背後でしている。水路のそばに転がる私のすぐ後ろで、言い合っているようだった。
「イリスも今頃は外でのんびりお散歩中さ。誰も知らない、気付かない。こいつをこのまま水に放り込んでしまえば、外へ流れ出てそれでおしまいさ」
「馬鹿なことを。そんな真似をして、本当に誰にも知られないと思っているのか」
「思ってるぜ? なんで心配するのかがわからないね。この水路は地下を流れてる。砦の外へ出るまで、人の目につくことはない。落とし格子も上げておいたから出口でひっかかることもない。外へ出てしまえば、今の状況で大々的な捜索なんかできないんだ、きれいに行方不明さ」
――どうやら、私はかなり危険な状況にあるらしい。なぜベネットさんがここまでするのかと、おびえる以上に疑問に思った。いくらメイリさんに同情したからって……もし彼女が好きで、そのため私を憎んでいるのだとしても、ロウシェンの正騎士ともあろう人がこんな暗殺みたいな真似をするだろうか。
……でも、ありえない話ではないな。過去に見たいくつものニュースを思い出し、自分の考えを否定した。そうだ。警官であろうと教師であろうと、時には職務を逸脱し、犯罪に関わる者が現れる。珍しいことじゃない。本来率先して範を示すべき人が問題を起こすなんて、元の世界で当たり前に見てきた事例じゃないか。
好きな子を追い詰めた元凶に恨みと憎しみを抱き、殺害を計画する――なんて、いかにもありがちな話だ。
ただ、本当にそういう理由だろうかと首をひねる思いもあった。
ベネットさんが私に悪感情を向けているのはわかる。でもメイリさんに対して好意を抱いているかというと、そうとも思えないのだ。
表面上は好意的にふるまっていても、彼の目が、声が、すべてを裏切っていた。彼はメイリさんに対しても、真摯な気持ちを向けてなんかいなかった。どこか冷めたまなざししか記憶にない。
ベネットさんの真意は、どこにあるのだろう。
「心配しなくていい、俺が証言してやる。こいつが急に部屋を飛び出して、お前の制止も聞かずにどこかへ行ってしまった。追いかけたが見失ったってな。お前一人の言葉なら疑われるかもしれないが、俺の証言も付けば信用される。俺がこいつに何かする理由なんてないんだからな。無関係な人間の証言があれば、周りを納得させられるさ」
「…………」
「探してるから協力してくれって、砦の連中に言えばいい。イリスの奴も呼び戻してやれよ。殺した人間がそんなことをするなんて、誰も思わないだろう。お前は疑われない、だいじょうぶだ」
声だけは甘ったるいほどに優しい。それがかえってわざとらしい。恨みに衝き動かされて人を殺そうとしている人間が、こんなに優しく楽しそうな話し方をするだろうか。ベネットさんの声は、メイリさんをそそのかそうとしているようにしか聞こえなかった。
そしてそれを、メイリさんも感じていたようだった。深く息を吐くのが聞こえた。
「ベネット……やめよう。そんなことをしても何にもならない。罪が増えるだけだ」
「だから、ばれやしないって言ってるだろう」
「ばれるとかそういう問題じゃない。すべきではない、してはならないことだ。騎士として――いや、人として、許されない行為だ。己の恨みのために人を殺めるだなんて」
「きれいごとを言うなよ」
ベネットさんの声にわずかに苛立ちが混じった。
「ここまでだまってついてきたくせに、いまさら何を言ってる? そんなつもりはなかったなんて言わせないぞ。本当はこいつを殺したいほど憎んでるんだろうが。だからおとなしくついてきたんだろう? 隠さなくていい。ここにはお前を責める奴は誰もいない。俺はお前の味方だ。今が絶好の機会なんだ。ここでお前を苦しめる原因を、永遠に消し去ってしまえ。そうすりゃ楽になれる」
はがれかけた仮面をとりつくろうように、またベネットさんの声が優しくなる。でももう、ごまかしようがない。彼の言葉は表面だけをすべっていく。
「途中で止めなかったのは、人目につきたくなかったからだ。あそこでもめたら誰かが聞きつけてやってくる。人に見られたら、あんたは無関係だなんて言えなくなるだろう。それを避けたかった」
「は? 俺のためだって言いたいのか? 何を言ってる」
私はふたたび、そっと目を開けた。気付かれることも覚悟して、ゆっくり頭を動かす。ベネットさんがすぐそばに立っていた。彼はこちらに背を向けて、メイリさんの方を向いている。私が目を覚ましたことには気付いていないようだ。正面に立つメイリさんには私の動きが見えただろうが、彼女は視線や表情でベネットさんに悟らせるようなことはしなかった。
ベネットさんだけを見つめて、メイリさんは言う。
「ベネット、あんたのことは知っている。その傷跡……竜につけられたものだろう」
メイリさんの指摘に、思わずといった動きでベネットさんが首筋に手を当てた。元々髪に隠れている場所を、さらに隠すために。それを哀しげに見ながらも、メイリさんは続けた。
「飛竜隊の語り種になっている話がある。九年前、イリス様が最終試験を受けた時のことだ。自身も試験中だったのに、竜に殺されそうになっていた他の受験者を助けたと。その上で自分の竜も得て見事合格した。新入りが先輩からかならず聞かされる話だ。助けられた者の名前までは知らなかったが……あんたに会ってわかった。ベネット、あんただったんだな」
「…………」
「他に該当者はいないんだ。イリス様の同期で、生きていて、そして竜を得ていない者は、あんただけだったんだ」
イリスがベネットさんを助けた……それは聞かされていない話だ。イリスは何も言わなかった。ただ同期とだけ言って、特に付き合いもしがらみもないような言い方だったのに。
「あんたはたしかに、その子には恨みも何もないだろう。でもイリス様にはあるんじゃないか? そのために、あたしに近づいたんだろう。この時を狙っていたんだろう」
「…………」
「本当の目的は何だ? あたしにその子を殺させて、それでイリス様への意趣返しにするとでも?」
「――はっ」
ベネットさんが笑った。上辺だけの優しさをかなぐり捨て、とがった声を吐き出す。
「調べたのか。だからどうした。俺が奴に助けられたと知って、ますます奴に惚れ直したか?」
「……あんたのことは知らなくても、みんなイリス様がどれだけ頼もしいかは知っている。下手をすると自分も殺される、生涯で一度だけ受けられる試験を失敗するかもしれない。その可能性が高いことを知りながら、それでもあんたを見捨てなかったように、あの人はどんなに大変な状況でもけっして他人を見捨てないんだ。そして共倒れになることなく、目的を果たしてみせる力を持っている。だからみんなあの人を信頼する。頼りにする。歳が若くても隊長と認めて慕っていたんだ」
「ご立派だな!」
私は物音を立てないよう、そっと身体を起こした。床に手をついたまま、少しずつベネットさんから距離を取る。もう少しだけ、こちらに気付かないで。振り向かないで。
上へあがる階段はメイリさんの後ろだ。そこまで逃げるには、もっとベネットさんから距離を取らなければならない。でもどこまで、気付かれずに離れられるだろうか。
「ああそうさ、みんなあいつの偽善者面にだまされてる。あいつは俺を利用して自分の評判を上げただけさ。勝手に助けに入って勝手に英雄気取りだ。反対に俺は助けられて命拾いした哀れな奴と笑われる。冗談じゃない。あいつが邪魔をしたんだ! 俺は反撃の機会を狙っていた。まだ竜を得るすべは残っていたんだ。それなのに、あいつが割り込んだせいで機会を失ってしまった。俺は失格となり、試験を受け直すことも認められず竜をあきらめるしかなくなったんだ。なにもかも、全部あいつのせいで!」
恨みと憤りに満ちた叫びに身がすくむ。これがベネットさんの本当の言葉だ。彼が言いたかったことだろう。でもイリスがベネットさんを利用しただなんて、そんなことは信じられない。
「あんたの気持ちがあたしには少しわかる。あたしも似たような気持ちを持っていた。でもそれは、間違いなんだ。あんたも本当はわかってるんじゃないのか。ただ、恨まないと耐えられない――自分を支えるために、誰かを憎まずにはいられない、そんな時がある。苦しいのにやめられない……そういう気持ちを知っているから、だからあんたをあの場でとがめることはできなかった。誰にも見られない場所で、ちゃんと聞いてほしかったんだ」
「知った顔するなよ。お前に俺の何がわかる」
「全部わかるとは言わない。でも人を憎まずにはいられない苦しさは知っている。憎むことで、余計に増す苦しみもだ。ベネット、もうやめよう。苦しみから救われる道は、こんなやり方では見つけられない」
メイリさんの言葉に、私は逃げることも忘れて聞き入ってしまった。リヴェロでの事件以来、彼女もただ苦しむだけではいなかったんだ。克服しつつあるんだ。それがわかって、涙が出そうなほどにうれしい。ああ、やっぱりこの人は強い。
ベネットさんに彼女の言葉が届けばいい。この人にも、闇から抜け出す道を見つけてほしい。
けれどそんな期待を踏みにじるように、ベネットさんは昏い笑い声を立てた。
「おめでたいなあ……なんだかんだ言って、お前も甘いね。俺に同情して、説得してくれるつもりだったのか。はっ、本当におめでたくて笑いが止まらないぜ」
肩を揺らしたベネットさんは、ゆっくりとこちらを振り返った。私が起きていることに気付いていたのか。目が合い、にたりと口の端をつり上げる。
「こんなガキ一人殺したところで、俺の気が済むもんか。俺はあいつを突き落としてやりたい。俺が味わった以上の屈辱を、あいつに味わわせてやりたいんだ」
私は急いで立ち上がった。でも逃げるには距離が近すぎる。身体ごと振り向いたベネットさんは、いつでも私に手をかけられる位置だ。
「メイリ、お前には感謝してるんだぜ? お前がしでかした不始末のおかげで、あいつは隊長職から落とされた。ざまあみろだ。けど、まだ足りない。隊長の肩書を失っただけで、あいつはまだ竜騎士としてのさばっている。俺が望むのは、もっと完全にすべてを奪ってやることだ。竜も身分も失い、みじめに打ちのめされた奴を笑って見物してやりたいんだよ。それこそが、俺の救われる道さ」
ゆらりと動いた右手が腰の剣にかかる。まだ身構えてはいない。でもその気になれば、いつでも抜ける。
「竜騎士に不祥事は禁物だよな? それも二度目となるとどうなるか……」
「ベネット」
「一度は更生を信じて剣を戻した部下が、またやらかしたとなれば奴はどうなるんだろうなあ。今度は怪我程度では済まず、殺っちまったとなれば……なあ?」
するりと、剣が鞘から抜かれる。銀色の刃が現れる。
「やめろ!」
声と同時にメイリさんが飛び込んできた。その手にもすでに剣が握られていた。
彼女がふるった剣を、ベネットさんは軽く受け止めた。本気の攻撃ではなく牽制のためだとわかっている。笑いながら押し返す。
「安心しろ、お前もちゃんと殺してやるよ。目撃した俺を口封じしようと襲いかかってきたんで、やむを得ず反撃したってしっかり証言してやる。大事にしてる女と可愛い部下を死なせ、身分も名誉も何もかも失って、奴がどん底に落ちて這いつくばるさまを、たっぷり見物してやるさ!」
狂気じみた笑い声を立てながら、ベネットさんはメイリさんに襲いかかる。地下の空間に戦う音が響いた。
そういうことだったんだ。最初から、私だけでなくメイリさんも殺すつもりだったんだ。また不祥事が起きて、今度こそイリスがすべてを失うように。自分の復讐に利用するため、メイリさんに近づいたのか。
この時を待って、周到に機会を狙っていたのか。
「……逃げろっ」
戦いながらメイリさんが私に叫ぶ。ベネットさんは強かった。かつて最終試験にまでたどりついた実力を持ち、その後も訓練によって鍛えられてきたのだろう。メイリさんより経験に勝る分、力も上だった。
メイリさんの分が悪いことは見ていてはっきりわかった。このままではやられる。助けを呼びに行かないと。でも階段は二人の向こうだ。大きく迂回するしかないけれど――
「行かせるかよ!」
メイリさんを蹴り飛ばし、ベネットさんはこちらへ踏み出してきた。私に向かって剣が振り上げられる。
「やめろ!」
必死の叫びとともにメイリさんが身を起こすが、間に合わない。逃げられない私の視界に、空気を切り裂いて何かが飛び込んできた。
「うぁっ!」
今しも私に斬りかかろうとしていたベネットさんが悲鳴を上げた。突き飛ばされたように後ろへよろめき、右腕を押さえる。地下の石床に赤い雫が落ちる。二の腕に矢が突き刺さっていた。
「そこまでだ。ベネット、剣を捨てろ」
上から声が降ってくる。凛としたこの声は――
私も、メイリさんも、信じがたい驚きと、そして期待に動かされて顔を上げた。明かり取りの窓のそば、わずかに張り出した場所を足場に、イリスが立って弓を構えていた。
「……きさま……」
ベネットさんも驚きを隠せない顔で見上げる。イリスは二本目の矢をつがえ、ぴたりと狙いを彼に定めていた。
「いつから、そこに……」
「最初からだ」
イリスは静かに答える。最初から、とベネットさんだけでなく、私たちも驚いた。
「お前がメイリに接触していることは、前から知っていた。これまで何の接点もなかったのにどういうつもりなのか気になっていたから、この砦でも接触してるのを見て注意していたんだ。騎士たちが出払って僕もいなくなったら、何か行動を起こすんじゃないかと思った」
イリスの言葉を理解して、私たちは三者三様の反応をした。
ちゃんと気にかけていたんだと安心しただけの私とは反対に、メイリさんは複雑な顔だった。ずっと観察されていた。今も隠れてようすを見ていたのだと知り、自分が信用されていなかったことにショックを受けている。
そしてベネットさんは、
「最初から……そうか、そういうことか……俺を嵌めたのか……出かけたと見せかけて、こっそり戻って、こそこそ陰から覗いていやがったのかよ!」
自分のたくらみが見抜かれ、網を張られていたと知る。憎しみに満ちた顔にゆがんだ笑いが広がる。視線だけで殺しそうなほどに、強くイリスをにらみつけた。
「きさまらしい、狡猾なやり方だなあ?」
「……当たってほしくない予想だったよ」
弓をうんと引き絞ったままの体勢で、イリスは微動だにせず構えを保っている。あのとんでもない筋肉から生み出される力が、彼に隙を作らない。イリスは弓の名人だ。二十メートルと離れていないこの距離で、完全に照準を合わせた状態ではまず外さないだろう。わかっているだろうに、ベネットさんは無造作に脚を踏み出した。ふたたび私に斬りかかろうと、血を流す腕で剣を振り上げる。
その脚を二本目が射抜いた。同時にイリスが飛び降りてくる。水路を越えて、私のそばに身軽に着地した。
ベネットさんが怒声を上げて彼に襲いかかった。イリスは私を押し退け、攻撃をかわした。怒りが痛みを凌駕したのか、ベネットさんの勢いはすさまじい。猛然と暴れ、矢継ぎ早に攻撃をくり出している。イリスはそれに、剣を抜かないまま対峙した。落ちついた顔で攻撃をかわし、ベネットさんの腕をとらえる。肘で打たれてたまらずにベネットさんは剣を取り落とした。それでもまだ暴れようとするのを、イリスの脚が蹴り倒した。
いつの間にかそばへやってきたメイリさんが私を引っ張り、彼らから距離を取らせる。同時にどやどやと足音が響いた。入り口の階段から何人もの騎士が下りてきた。先頭に立つのはモンドさんと、そしてジェイドさんだ。
「取り押さえろ」
モンドさんの指示を受けて、ナハラ騎士が二人、ベネットさんに飛びついた。両横から腕を取って立ち上がらせる。
「詳しい説明はしてもらえるのだろうな?」
モンドさんがイリスに聞く。イリスは軽く息を吐き、うなずいた。
「ええ、のちほど。アルタが戻ってきてからでもよろしいでしょうか」
「いいだろう。ではそれまで、この者はこちらで拘束する。この砦に営倉はないが、捕虜を収容するための牢がある。そこでかまわんな」
「お願いします。できれば、傷の手当ても」
「承知した」
引き立てられるベネットさんに、ジェイドさんが苦い顔を向けた。
「八つ当たりの逆恨みにもほどがあるぜ。当時の試験官が、はっきり証言している。お前は竜に襲われて、助けを求めたんだろうが。試験官も救助に入って負傷している。こいつが手を出さなきゃ、二人して殺されていたところだったって聞いてるぞ」
「違う! 俺は!」
「本人が助けを求めないかぎり、どんな状況になっても手出ししてはならない。最終試験における絶対の掟だ。お前が助けてくれと叫んだから、試験官も、そしてこいつも助けようとしたんだ。お前の望んだことだ」
「ちがう!」
突きつけられる事実を否定するベネットさんの声は、悲鳴に聞こえた。
「違う、違う、ちがう! 俺はそんな腰抜けじゃない! 助けなんか求めてない! 全部嘘だ、こいつが試験官に口裏を合わせさせたんだ!」
「んなわけねえだろうが。なんで試験官がそんなことする必要があるよ。見ていたのはてめえの見届け役だけじゃねえんだぞ。こいつの見届け役だってそばにいたんだ」
「家の力で黙らせたんだろうが! みんな嘘つきだ! 自分たちの卑怯さを隠すために、俺のせいにしてるんだ!」
「ったく、いい加減にしやがれ。逆恨みも度が過ぎて頭がイカレたか? そんな目茶苦茶な理屈で誰が納得すると」
「ジェイド、もういい」
徹底的にやり込めようとするジェイドさんを、イリスが止めた。肩に手を置き、だまらせる。ジェイドさんはイリスを見る。だまって首をふる彼に息を吐き、そしてこちらを振り返った。
イリスもこっちを見る。ふたりの視線を受けているのは、メイリさんだ。
「…………」
メイリさんは視線を受け止められず、うつむいてしまう。だから見られなかった。イリスがうれしそうに微笑んだのを。
「よくやった」
声にはじかれて顔を上げ、今度こそ自分に向けられた笑顔を見る。ジェイドさんが肩をすくめて脚を踏み出し、いささか乱暴に彼女の頭に手を置いた。
短い金褐色の髪をくしゃりとかきまぜる。言葉はないそれだけのしぐさに、メイリさんの目から涙がこぼれ落ちた。
イリスの目が私へ向けられる。安堵と、思い出した首の痛みでぼうっとなっている私を気づかわしそうに見、そばへやってきた。
「だいじょうぶか?」
覗き込む彼にすがりつきたくなる。でもだめ。メイリさんがそばにいる。私は懸命にこらえ、踏ん張った。
顔を上げてどうにかイリスに笑い返そうとして――できなかった。
その瞬間、ナハラ砦に絶叫が響きわたった。
「敵襲――!」




