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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第五部 秋嵐
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 話をしようと言いながら、ハルト様はすぐには話し出さなかった。暖炉の脇に積まれた薪をひとつ取り上げ、衰えかけた火の中へ入れる。新しい薪に火が燃え移るのを、ふたりしてだまって見つめていた。

 私がカップの中身を飲み干してしまう頃になって、ようやくハルト様は口を開いた。

「……すまなかったな」

 言葉の意味がすぐには頭に届かなくて、私はぼんやりと彼の顔を見上げた。穏やかなグレーの瞳が、少しだけ後悔をにじませて私を見ている。謝られたのだと気づき、そんな必要はないのにと思った。

 悪いのは私だ。私が勝手に思いつめて、いじけていただけだ。

「そなたを不安にさせたのは、私にも責任がある。最初から、きちんと話しておくべきだったな」

 私の気持ちを読み取ったかのように、ハルト様は言葉を続けた。

「龍の加護がもたらすものについて、そなたにどう伝えるべきか迷っていた。はきと伝えられるほど、私もよく知らぬのだ。そなたから龍の話を聞いて、この子には加護が与えられたのだろうと思った。だがどれほどのものなのか、どこまでの力なのか、それはわからなかった……」

 ハルト様の目が炎に向けられる。記憶と思考をひとつひとつ拾いながら話す、そんな顔だった。

「龍の加護については、ほとんど何もわからぬと言ってよい。遠い昔の伝説が語り継がれているだけなのだ。この島に最初の国を興した祖王が、龍と友誼を結び加護を与えられていた、と。すべての竜を従えたという話も、真偽のほどは定かでない。祖王自身どんな人物だったのか、どういう出自だったのか、はっきりしない。何もかもが、曖昧な言い伝えだった」

 スーリヤ先生から教わったロウシェンの歴史は、はっきり記録されているだけでも六百年以上におよぶ。シーリースが三つの国に分かれるより前、いちばん最初の王様なんて、日本で言うなら卑弥呼みたいなものだろう。存在したことだけはたしかでも、詳しいことは何ひとつわかっていない、大昔の伝説だ。

「他に龍の加護を持つ者の話は聞いたことがない。まず龍という生き物が、非常に珍しい存在だ。一生のうちに一度、その姿を見ることがあれば幸いというほどに、人の世に現れることは少ない。現れたとて、ただ遠くから眺めるだけが関の山で、触れることなどかなわない。龍と交流したという話も祖王以外に聞いたことがない。加護など、たやすく与えられるものではないのだ」

 ……私にだって、龍が自らの意思で加護を与えてくれたわけではないだろう。そもそもあの生き物にそんな意識や知性があるのか、そこからが大きな疑問だ。あの時はそんな状況じゃなかった。私はたまたま龍に触れていたことで転移に巻き込まれ、命拾いをした。偶然の、想定外のできごとだった。

 それを思えば納得がいく。目撃することすら滅多にない龍の、さらに加護を得るだなんて誰にできるだろうか。誰も経験したことのない、まったく未知の領域なのが当然だった。

 自分がどれだけ珍しいケースなのかがわかる。あれは本当に奇跡だったのだ。もしかして祖王だって、何かの偶然でたまたま加護を得ただけなんじゃないだろうか。実は私と同様、異世界からの漂着者だったりして。

「そなたに与えられたものがどれだけの力を持つのか、わからなかった。初めて目の当たりにしたのは、ユユが襲われた時のことだな。野生の、それも子育て中の地竜がそなたを助けた。そなたと竜が、心を通じ合わせることができるのだと、あの時はっきりわかった。もしかすると、祖王の伝説どおりのことができるのではなかろうか……そう思い始めていたところに、宴での一幕があったな。そなたの呼びかけに応えて竜たちが集まり、そなたの歌に合わせて踊った。間違いない、そなたは祖王の再来だと、あの時誰もが確信した」

 私が何も考えずその場のノリでやった宴会芸に、そんな目が向けられているとは知らなかった。竜たちのダンスは可愛いからみんなにも見てほしいって、そんなことしか考えていなくて、自分がどれだけ大変なことをしでかしたのか、少しも気付いていなかった。

 もっとよく考えていれば、少しくらい何か気づいていたかもしれないのに。竜が普通は主人以外にはなつかないと、イリスやカームさんから聞いていたんだから、もっと用心深くなるべきだったのに。

 とことん、うかつで平和ボケだった。

「これはあまり人に知られるべきことではない。そう思ってももはや手遅れだ。そなたと竜の関係は、すでに多くの人の知る所となっていた。今さら隠すことはできぬ。ならば、そなたが危険に巻き込まれぬよう、悪意ある者に利用されることのなきよう、守るしかない。いずれはそなたにも、きちんと話して自覚を持たせようとは思っていた。だが無邪気に竜と戯れている姿を見ると、よけいなことを考えさせたくはなかった……このまま、人のゆがんだ思惑など知ることなく、ただ竜とのふれあいを楽しんでいられたらと……間違った考えであったな」

 自嘲気味に微笑み、ハルト様は私の髪をなでた。

「オリグからも警告されていたのだ。きちんと教えて本人に警戒心を持たせるべきだと。いくら我々が知らせまいとしても、いずれかならず知ることになる。エランドのこともある今、危険は多いと。その言い分に理を認めつつ、なかなか言い出せずにいた私の優柔不断が、このような事態を招いてしまった。オリグが正しかった。最初から、そなたにはすべてを伝えておくべきだった。そなたの心をわずらわせたくないと言いながら、逆に悩ませ不安にさせてしまった。私の誤った判断のせいだ。すまなかった」

 もう一度謝るハルト様を見つめながら、私は考えていた。

 最初から聞いていたら、どうなっていたのだろう。少なくともショックは受けなかったと思う。親しくなって、家族だと思い始めた頃になってから知ったから、だまされていたのかと辛かった。そんな想いはせずに済んだだろう。

 でも、きっと心の奥にひっかかり続けて、ハルト様やみんなを信じることができないままだっただろうな。優しくしてもらえるのも、大事にしてくれるのも、龍の加護のためだろうってひねくれて、常に疑い続けていたに違いない。

 ……結局、私の性格に問題があるのだ。ものごとを明るく考えられず、すぐにひねくれて裏を勘ぐってしまうから、どういう状況だろうと多分似たような結果になっていた。

 危険性を知らせておくべきだったという点では、たしかにハルト様にも落ち度があるかもしれない。でも問題の根本は、そこではないと思う。

 問題を解決するために、私も言うべきことは言わないと。

「……ハルト様の……ロウシェンの立場から見て、私という存在は迷惑でしょうか」

 空になって冷たくなってきたカップをにぎりしめて、私は尋ねた。

「本当のことを教えてください。ロウシェンに危機を招きかねない私は、いない方がいい存在なんじゃないですか。龍の加護に気付いた時、困りませんでしたか」

「そのようには考えていない」

「気をつかってくれなくていいです。私のためを思ってくれるなら、本当の本音を聞かせてください。何を言われてもいいんです。私は、本当のことが知りたい」

 グレーの瞳を見つめ、精一杯の想いを込めて訴える。迷惑なら、困るなら、相応の対処を考えるから。いちばん辛いのは、そういう本音を隠されることだ。

「…………」

 ハルト様は深く息をついた。

「……龍の加護とは何なのだろうな。龍から与えられた特別な能力、あるいは印だろうか。それによって竜たちを従えているのか――これまでは漠然とそんなふうに捉えていた。だが、そなたを見ていると、違うのではないかという気がしてくる」

 冷たくなったカップを取り上げて下ろし、私の手をしっかりと包み込む。ぬくもりと少し強い力とに、不安定に揺れる心がつなぎとめられる。

「人は竜を愛し自慢に思いつつも、そばに寄れば恐れる。あの姿と、人など簡単に引き裂く力に、恐怖を抱く。人というか弱い生き物の当然の本能だ。だが、そなたは最初から竜に心を開いていたな。怖がるようすも見せず平気で竜に触れ、可愛いと言う。自らの手で竜を育てた竜騎士でもないのに、竜を友とみなす。龍の加護による絶対的な支配力という認識はなかったのにだ」

 危険な生き物である竜を可愛いと思うのが、特別なこと? それって単に、危険を認識できていない馬鹿ってだけじゃないのか?

 ――でも、私は動物を軽視しているわけではない。たとえばライオンやクマなど、見た目は可愛いけれどそばには怖くて近寄れない。とても危険な生き物だと知っている。懐いているはずの飼育員すら、時には襲われてしまう事故が起きるのだ。言葉の通じない動物は、どんな反応をするかわからない。あなどってはいけない。そう思っている。

 竜だってそうではないのか? 爬虫類系が平気だから見た目に嫌悪感を感じないとはいっても、攻撃力がすごそうなのは一目見てわかる。それなのにどうしていつも平気で近寄ってさわれたのだろう。

 騎士団で飼われている竜だから、大丈夫と思っていたのだろうか。野生の竜と初めて出会った時には、襲われるのではないかとたしかに怖かった。でも助けてくれたのだと知って、その時から竜は怖い生き物ではなくなった。

 その安心感はどこから来ていたのだろう。単なる考えなしだったのか、それとも違う何かがあったのか……。

「これは私の単なる想像だが、龍の加護というのは、もしかすると龍と同じ存在になることかもしれぬ。龍と同化した、あるいは龍に取り込まれた――じっさいに何があったのかはわからぬが、そなたは世界を越える際に龍と深く交わったのだろう。そして、龍の一部になった。今こうして一人の人間として存在していながら、同時に龍の分身でもあるのだろう。それは竜にとって特別なことであるだけでなく、そなた自身も竜を自身の眷属と見る感覚を得たことになる」

「…………」

「そなたと竜の間には、単純な好意だけでない深く強い絆がある。むしろそれに表面的な意識の方が影響を受けているのだろう。竜を慈しみ、竜に慕われ、信頼し合う――我々が理想とする、最高の関係だ。それが迷惑だなどと、考えもつかぬ」

「…………」

「それを見た人の中に悪心を起こす者がいたとしても、そなたや竜の罪ではない。その人間が悪いのであって、そなたに非を問うことなどできるはずもない。そしてそなた自身が竜を利用して悪事をはたらくことも、あり得ぬと断言できる」

「……どうしてそんなことが言えるんですか。私だって人間です。人より性格が悪くて、いやらしいことをいっぱい考えてます。正義の味方なんかじゃない」

「そなたの悪いところは、とかく自分を否定して卑屈になるところだ。そういう人間は、他者を攻撃する側には回らん」

 ハルト様は少しおかしそうに笑った。

「疑い、拗ねて、いじける。人から嫌われることを気に病み、極力人目につくまいと身を小さくしている。人と関わらなければ嫌な思いをすることもあるまいと、自分の殻にこもってしまう。困ったものだがな。しかしそれらが害をもたらすのは他者に対してではなく、そなた自身に対してだ。わかっているだろう?」

 思いがけずはっきり言われて、微妙な気分になる。いちいちごもっともで反論のしようもないことばかりで、さすがにへこんだ。

「そなたが積極的に他人と関わり、攻撃も辞さないのは、誰かを助けるために動く時ばかりだ。それ以外では波風を立てぬよう、人から目をつけられぬようおとなしくふるまっている――カーメル殿の時だけが例外かな? まあ、あの御仁とも、本当に深刻な対立をしていたわけではないしな。これまでのそなたの行動に、悪事を懸念する材料などひとつも見当たらなかった。そなたはただの、善良で生真面目な人間だ。私はそれを知っている。そなたが否定しても、そなたを見ている者はみな知っている」

 握った私の手を、一度軽く揺する。優しい笑顔にまた目がうるみそうになって、うつむいた。あれだけ泣いたのにまだ涙が残っているのか。いい加減体内の水分がなくなって干からびてしまいそうなのに。

 私は立派な人間じゃない。いつだって人の目を気にして、攻撃されるのが嫌で、自分から距離を取って逃げてばかりいた。真面目にしていたのもおとなしくしていたのも、全部自分を守るためだ。攻撃されないようにと、そればかり考えて。

 全然立派な理由じゃないから、誉められるようなこととは思えない。でも……人に害は与えないと、そう信じてもらえることだけは、自信を持ってもいいのだろうか。

「そなたの周りに問題が起きやすいのはたしかだ。だが迷惑とは思わんよ。そのようなこと、そなたに限った話ではない。ユユとてうら若い女性(にょしょう)の身で領主などしているものだから、さまざまな思惑にさらされている。一度はそのせいで命を落としかけたしな。立場ある者には、たいてい危険や問題がつきまとう。それをいちいち忌避していたのではやっておれぬ。上手く対処することだけ考えていればよいのだよ。代表格である私が言うのだから本当だ」

 片手を離し、ハルト様は私の背中を軽く叩いた。安堵と喜びがこみ上げる中、最後にもう一つだけたしかめたくて私は口を開く。

「私を、養女にしようと思われた理由は?」

「それを疑われるのは切ないな」

 ハルト様は苦笑した。

「いたしかたないかもしれぬが……真実、そなたと家族になりたかっただけだ。手元にとどめ監視するためなら、そのような手段を取る必要はない。あの時言ったとおり私も寂しかったし、そなたを守ってやりたいとも思ったからだ。龍の加護のこともあるから、なおさらそなたには大人の保護が必要だと思った。誰かに託すのではなく、私が親となって見守ろうと思った。それだけだ」

 視界がにじむ。こらえようと思うのに、どうしても止められない。こぼれ落ちたものが私とハルト様の手を濡らす。私はハルト様に抱きついた。

「疑って、ごめんなさい」

「ああ。私もすまなかった」

 ハルト様は強く抱き返してくれた。温かい。どこまでもあたたかい大きな胸だ。疑わなくていいんだ。これを信じていられるんだと思えるのが、どうしようもなくうれしい。

「辛かったんです……本当は、誰も私のこと好きじゃないのかもって思ったら、かなしかった……私は、好きだから。みんなが、ハルト様が好きだから、その気持ちが私だけだったらかなしすぎて」

「ああ」

「自分が嫌な性格してるって知ってるから、嫌われてもしかたないって思ってしまって、そんなはずないって自信が持てなかった」

「賢いくせに、妙なところで馬鹿だな。嫌っているならもっと違う関係になっていただろうに。あれだけ皆と仲良くしていながら、わからなかったのか? 嫌いな相手なら、必要以上に近づかぬ。わざわざ会いに来たり、外出に誘ったりせぬだろう。顔を合わせた時だけごまかして、できるだけ距離を取るものだ。なぜそんなことがわからぬのだろうな」

 おかしそうに笑いながらハルト様は私の身体を軽く揺する。小さい子をあやすようなしぐさだ。高校生にもなってそんなことをされて恥ずかしいと思うのに、気持ちよくて離れられない。

「みな、そなたが好きだよ。私も、そなたが好きだ。大切な、我が子だ」

 何度もなんども、ハルト様は私に優しく語りかけてくれる。疑わずにいられるように、安心していられるように、繰り返し教えてくれる。

 疑わない。もう二度と、この人を疑わない。

 私は強く心に決めた。デュペック侯の言ったことやエランドの立場など、考えるべきことは色々あるけれど、ハルト様の心を疑うことだけは絶対にしないと自分に誓った。

 ここが、私の新しい家。守られて、私も守るべき、大切な場所。

 あたたかな腕の中で、私は心からの安らぎに包まれていた。




 ――そのまま私は眠り込んでしまったらしく、ふと気づくと真っ暗な部屋の中で寝台に入っていた。

 寝不足な上に疲れていたとはいえ、抱っこされてあやされてそのまま寝入ってしまうだなんて、いい年して恥ずかしい。赤ちゃんや幼児じゃあるまいし。

 なんとなく目が冴えたので、私は起き出した。着ているものはお風呂上りに着替えた服のままだった。

 辺りは静かだ。部屋の外にも人が動く物音はしない。夜中の何時ごろなんだろう。窓へ寄って空を見てみれば、弟月(ダイナス)が中空にあった。

 昨日デュペック侯と密談していた頃と、だいたい同じくらいといったところか。

 なんとなく視線を下げて庭を見下ろす。するとそこに思いがけないものを発見し、私は部屋を出た。

 足音を忍ばせて一階へ下り、目的地にいちばん近い場所へ向かう。談話室だ。庭へ出られるテラスがあり、その窓の鍵が開いていた。彼も、ここから外へ出たのだろう。

 青白い月明かりの中、こんもりと黒い山になっていた影が動いた。首をもたげてこちらを見る。それに気づいて、彼もこちらを振り返った。

「どうした?」

 傍らに酒瓶、手にはグラス。そばにイシュちゃんが寝そべり、月を肴にイリスはお酒を飲んでいた。

 近づくことも答えることもためらって窓辺に立ち尽くしていると、イリスは仕方なさそうに笑って手招きした。

 逡巡して、結局外へ出る。彼のそばまで歩いていくと、イリスは私の腕をつかんで引っ張った。あの時とは違う、優しい力で。

 逆らわずに従えば、テラスに座り込んだ彼の脚の間に座らされ、腕の中に包み込まれた。

「寒いのにこんな薄着で出てきて。風邪ひくぞ」

 その寒い中でお酒を飲んでいた人に言われたくない。

 イリスの方がよっぽど薄着だと思う。いつもの、シャツに胴衣を重ねただけの格好だ。

「……そっちこそ」

「僕は慣れてる。騎士がこの程度で震えていたんじゃ話にならないよ」

「怪我人がお酒を飲むのは、よくないんじゃ」

 新しいシャツの袖に隠されてしまっているけれど、イリスの利き腕には剣の傷がある。かすり傷とは言えない怪我だ。お酒なんて飲んだら血行がよくなってしまうから、せっかく止まった出血がまた起きないかと心配になる。

「……ちょっとだけだよ」

 イリスの答に私は酒瓶を見る。ちょっとだけ飲む人が、瓶ごと持ち出すだろうか。

「はいはい、これでしまいにするよ」

 降参、とイリスはため息をつき、グラスに残ったお酒を飲み干した。

 グラスを置き、またやんわりと私を抱き込む。背中にくっついた彼の身体が、とてもあたたかい。

「好き嫌いしないでしっかり食べてろって言ったのに、こんなに痩せちまって。わがまま娘め」

 呆れを含んだ声が私を優しく叱る。もう怒っていなさそうなようすに安堵する。夜風から守ってくれる腕と身体がとても心地よくて、ほんのりと頬が熱くなってくる。少しだけ、胸の鼓動も早いかも。

「休まなくていいの? ゆうべもほとんど寝てないのに」

「ああ……後で寝るよ」

 出張から帰ったその足でハルト様のところへ報告に出向き、そこへ私とオリグさんからの連絡が行って、ただちにチェンバへと飛んできた。着いて早々至急の打ち合わせを行い、ほとんど休む暇もなく作戦行動に入って。

 相当に疲れているはずだ。私だったらとっくに熱を出してひっくり返っている状況だ。

 なのに寝ないで、こんなところで一人お酒を飲んでいるだなんて……。

「ヤケ酒?」

 ずばり訊いてみると、頭の上で「ぐ」と詰まるのが聞こえた。

「あの黒騎士に、後れを取ったから?」

「……まあな」

 私の頭に顎を乗せて、イリスはちょっとお酒臭いため息をついた。

「奴の相手をしたのがトトーやアルタだったなら、きっと逃がしはしなかっただろう……剣も、もっと鍛えないとだめだよなあ……」

 じゅうぶん強いんだからいいじゃない、なんて無責任なことは言えなかった。

 試合のための剣技じゃないのだ。勝敗は生死にかかわる。かならず生き残るために、もっと強くなってもらわなければいけない。

 なので私はなぐさめたりしなかった。

「じゃあまずしっかり休んで、怪我を治すところからじゃないの」

「いつもと立場が逆だな」

 イリスは少し笑った。

「そうだな……頑張るよ。君だって頑張ってるんだからな」

 頭からずり落ちて、肩のところに重みがかかる。額をつけて、私に表情を見せないままイリスは続けた。

「昼間は君のことを叱ったけど……もちろん、君が悪いから叱った。それを後悔しているわけじゃない。すっかり以前の君に戻っちまってたからな」

「……うん」

「ただ、僕も全然わかってなかったなって……同じ人間で同じように暮らしているから、君の世界もここと似たようなものだって無意識に決めつけていた。じっさいは、ずいぶん違ったみたいだ」

「…………」

「ここよりはるかに平和で安全で、暮らしやすい国だったんだな。君は身体が弱くてすぐに寝込んでしまうって思っていたけど、故郷でならあまり問題にならなかったんじゃないか? 優れた薬や治療法があるから、ちょっとした怪我や病気なんてすぐに治ってたのかもな」

「…………」

「武器を持ち歩くだけで罪になる、か……それで治安が保たれるんだから、いいところなんだろうな。騎士の存在なんて、君には怖いだけのものだったろう」

 違う――と、すぐには否定できなかった。本物の剣を常に腰に提げている騎士たちは、それが私たちを守ってくれるためだとわかっていても威圧感を覚える存在だった。もし私がアメリカとかで生まれ育ったなら、もう少し違ったのかもしれない。一般市民でも銃を持てる社会で、武器を目にするのが日常だったなら、こちらの騎士たちだってあまり怖くなかったかもしれない。でも平成の日本は、モデルガンで強盗する人間がいるくらい武器を見慣れない社会だった。それを日常としていた私には、騎士を抵抗なく受け入れることができなかった。

 怖いのは本当だ。殺し合いは見たくない。殴ったり蹴ったりしているだけでも怖いのに、血が流れて人が死ぬのは耐え難い。

 私は手を上げて、肩に埋もれるイリスの頭に触れた。さらさらとした銀の髪を、くしけずるようになでる。イリスはじっとされるままになっていた。

「家族と離れて寂しいだけでなく、生活のいろんな違いに苦労していたら辛いよな……気持ちもすさむだろう。そこをわかってやれなくて、ごめん」

 自己嫌悪を含んだ声。イリスがお酒を飲んでいた理由は、黒騎士だけではなかったんだな。

 彼になんて伝えよう。苦労しているのも、いろいろ辛いのも本当だ。でもみんながよくしてくれるから、不幸だとは思わない。

 今思えば、女官長が掃除や洗濯をまかせろと何度も言ってきたのは、慣れない仕事に私が四苦八苦しているのに気づいていたからかもしれない。意地になって自分でやると主張していたけれど、本当はしんどかった。洗濯機も掃除機もなく何もかもを自分の力でやるのは、想像以上の重労働だった。私がやらなければ誰かが代わりにやるのだから、甘えて終わりにできる話ではないけれど、好意の申し出にあんな態度で応じるのではなかったと反省する。

 ここは日本じゃない。文化も生活習慣もいろいろ違う場所で、苦労するのは当たり前のことだ。慣れていくしかない。周りはとても親切で、誰も冷たく突き放したりしないのだから、しんどくても不幸じゃない。

 それをなんて言って伝えようか。

「……おみやげ」

「え?」

「おみやげ、くれるって言った……ないの?」

「……ああ」

 イリスは身体を起こして私から手を離し、ごそごそと自分の服をさぐった。

「忘れてた。ほら」

 私の目の前に差し出された手には、掌におさまる大きさの、人形?……の、ようなものが乗っていた。

 ……なんだろう、これ……。

「ナハラ地方に伝わる幸運のお守りだよ。ブゥブゥの顔を彫ってあるんだ。ブゥブゥっていうのは水辺にいる生き物で、これと大体同じくらいの大きさかな。鳴き声から名前が付けられたんだけど、夏になるとたくさん出てきてにぎやかに鳴くんだよ」

 ……つまり、カエルのようなものか。

 言われてみれば、手の中の木彫りはどことなくカエルに似ているかもしれない。扁平顔に大きな鼻の孔、大きいけれど細い目――カエルというより土偶かな。

「可愛いだろ?」

 信じがたいことを言うイリスの笑顔を、私は振り返ってまじまじと見つめてしまった。

 可愛いか? これが? どこが?

 ……男のセンスってわからない。

 男というより、イリスのセンスに問題がありそうだ。

 竜が可愛いならカエルも可愛いと思えるだろうって、そりゃアマガエルなら私も可愛いと思う。これもよく見れば愛嬌があると言えなくもない、かもしれない。

 でも女の子へのお土産として、何か違わないか。

 これをもらって、どうすればいいのだろう。部屋に飾るのか? お守りだから持ち歩くのか? 女の子の身の回り品としてカエルっぽい土偶ってどうなんだ。

「……ねえ、イリス。私のことはどう思う?」

「は?」

「私、可愛い? ブサイク?」

 面食らった顔になったイリスは、首をかしげて答えた。

「なんでブサイクなんだ? 可愛いよ」

「イシュちゃんは?」

「可愛いな」

「ブゥブゥは?」

「可愛いだろう」

 私はイシュちゃんを見た。目が合った。女同士、心が通じたような気がした。

 カエル土偶と同列で誉められてもうれしくない!

「……ありがとう」

 胸の中に文句を押し込めて、私はブゥブゥ人形をにぎりしめた。

「気に入らなかったか? なんか部下たちにも反対されたんだけどな。女の子へのお土産なら装飾品とかにしろって……けどそういうのは、いつでも手に入れられるし。君には、お守りをあげたかったんだ。僕がそばにいられない時でも、君を守ってくれるように。ひとりで泣いたり、いじけたりしないで、元気でいられるようにさ」

 ……最後にこういうことを言うから、このイケメンは!

 カエル土偶が素敵に思えてしまうじゃないか。私のセンスまで破壊しないでくれ。

「えーと……ティ……ツィ……ツィー……」

 ものすごく難しそうに、イリスは何度も言い直した。

「チ……ト、セ」

 カミカミで、ほとんど「ツィトセ」に近い発音だったけれど。

 それでもなんとか、千歳と呼んでくれた。

 照れくさそうな顔が、ぼやけて見える。

 すっかり緩くなった涙腺が、私の体内から水分を根こそぎ絞り出そうとする。私はイリスの胸に顔を押し当てて、水分保持に努めた。

「……しんどいことや、怖いことも、たくさんあるけど、大丈夫……みんな、優しいから……」

「そうか」

「大好き。ハルト様も、みんなも、大好き……ありがとう……イリス、大好き」

 私を抱きしめる腕に一瞬力がこもり、それからイリスは一旦手を離して私の頬を包み込んだ。まだ濡れている目元に、額に、頬に、何度もなんどもキスを降らせた。

 あたたかな心地よさに目を閉じて、私は繰り返し贈られるものを受け止める。

 そうしてまた彼の胸に抱きしめられた後、思い出して訊いてみた。

「額や頬へのキスは、どういう意味なの?」

「え……あー……その、家族への親愛、とか」

 やっぱりそうか。妹扱いなんだな。まさか弟扱いじゃないよね?

 そうかそうかと納得する。うん、いいんだ。イリスみたいなお兄ちゃんなら、私もうれしい。強くて、かっこよくて、頼りになって、でもいい加減で大雑把で、時々ものすごく残念で。

 なのにわかってほしいところは、ちゃんとわかってくれていて。

 だめなところはだめだと、はっきり叱るけれど、私を見放さない。どんなに情けないところを見せても、かならず手を差し伸べてくれる人。

 そうだね、ハルト様と同じ、家族だよね。

 それでいいと思った。幸せだった。

 どこか、ちょっとだけ物足りないような気がしたことには目をつぶって。

 私は彼に甘えて、ずっと抱きついていた。

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