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カダ山脈を背景に、片田舎の雰囲気を漂わせる職人の街。それがシャール地方の中心地となるチェンバだ。
ヨーロッパの観光ガイドに載っていそうな可愛らしい街並みだった。エナ=オラーナのような雑多な賑わいはなく、静かに落ち着いている。人口もそれほど多くないのだろう。だからといってさびれているわけではなく、道も建物も綺麗に整備され明るい雰囲気だった。工房が軒を連ね、それぞれ凝ったデザインの看板を下げている。その看板を作るのもまた、この地方が誇る鋳物師なのだと説明された。
領主館は街を見下ろす高台に建っていた。石造りの土台に白い漆喰で造られた、美しい城館だ。青い屋根が景色に映えている。一行はひとまずそこに落ち着き荷物を下ろしたが、ユユ姫に挨拶とお祝いを述べるべく客がすでに集まっていて、すぐに忙しくなってしまった。
「街を見物してらっしゃい。馬車を出させるわ」
私が退屈しないようにと、ユユ姫が観光を勧めてくれた。お供は雑用係の男の子と、以前にもお世話になった御者兼護衛士のアークさんだ。このくらいは妥協の範囲だろうと、私は彼らとともに出かけることにした。そもそも、一人歩きは苦手な方だ。ましてここは知らない土地で、馬車の窓から見かけた街並みはうっかりすると迷いそうだったから、見張りを兼ねた案内役がついてくるのを拒否する気にはならなかった。
ここまでの旅程で疲れた馬は休ませて、小さな馬車を借りて街へ繰り出す。御者台からアークさんが声をかけてきた。
「途中、もしご気分が悪くなるようでしたら、すぐにおっしゃってください」
車酔いならここまでの道程の方が長くて大変だったのに、今さらだ。幸い今日はまだ元気である。でもユユ姫やヘンナさんにもしきりに体調を気づかわれた。そんなに顔色が悪いのだろうか。そういえばここ最近、あまり鏡を見ていない。髪も今日はヘンナさんが結んでくれた。
「大丈夫です」
この旅行でリフレッシュすれば、少しは体調もよくなるだろう。山と緑に囲まれた宮殿とはまったく違う風景が珍しくて、気分はけっこう明るめだ。
城館へ向かう時は立派な馬車に乗っていたので、人々の注目を集めていた。今は目立たない黒塗りの馬車だから誰も気にしない。道行く人は急ぐようすもなく、のんびりしている。この街に坂は少なく、大通りは道幅が広く、公園もあって明るくのびのびとした印象だった。
アークさんは公園の前で馬車を停めた。
「この辺りが散策に適しているかと思います。近くに神殿もございます」
降りる私に手を貸してくれ、辺りを示す。ごちゃごちゃとしていない、おしゃれで閑静な一角だ。通りの向こうにあるのは何かの店だろうか。表に商品を出していないので、中を覗き込まないと何を売っているのかわからない。
公園もきれいだった。芝生と広葉樹の中にところどころベンチがあり、散歩や休憩を楽しむための場所になっている。日本でなら犬を連れた人がいそうな場所だ。あいにくこっちにそういう習慣はないのか、お散歩ワンちゃんの姿は見られなかった。近くのベンチでは上品な老婦人が編み物をしていた。
「あっちはお店ですか?」
「はい。特産品を扱う店が並んでいます。よそから買い付けにくる客が多いので」
「あの辺、見てきていいですか」
「ええ、参りましょう。レイ、馬車を頼むぞ」
アークさんは当然のごとく私に同行する気で、もう一人のお供に声をかけた。
「はい。いってらっしゃいませ、お嬢様」
明るい笑顔で私を送り出してくれるレイ君は、ユユ姫のところで働く子だ。お遣いや下働きをしている。まだ十三歳の子供なのに、とても働き者でよく気が利くので、周りに可愛がられていた。私にもいつも元気に挨拶してくれて、多分傍目には同年代に見えるのだろうけれど、彼の方がずっと人間ができている。実は四歳も年上のくせに全然人間のできていない私は、時々彼の明るさがうらやましくなる。
レイ君に馬車の番を任せて、私たちは通りの向こう側に並ぶ商店へと向かった。
どの店も通りに面した場所に窓を作って、そこに商品見本を陳列している。こちらには大きな一枚ガラスを作る技術はないようで、元の世界で見慣れた全面ガラスのショーウィンドウなどはない。精一杯に大きく作った窓を並べ、できるだけ中のようすがよく見えるようになっていた。
色鮮やかな織物を扱う店があり、その隣には鞄や小物に仕立てた布細工を扱う店があった。素晴らしい模様織のハンドバッグとか、刺繍の可愛らしい室内シューズとか、乙女心に訴えかける品が山盛りだ。中に入ってじっくり見たいところである。でも冷やかしで入れるほど敷居は低くなさそうだ。並んでいる商品は、素人目にもさぞかしお高いのだろうと察しがつく。
さらに隣には、陶磁器の店があった。美しい絵付けのされた食器だけでなく、人形やベルなど、こちらも可愛らしい品が並んでいる。ここに姉がいたら、ふたりでキャーキャー言いながら見ていただろう。姉も可愛らしいものが好きだった。
「中へ入ってご覧になりませんか」
アークさんの勧めに、私は首を振った。
「いえ、入っちゃったら買わないと出てこられない雰囲気ですし」
「そんなことはありませんが……お気に召したものがあれば遠慮なくおっしゃってください。請求は領主館へ回させますので」
それはつまり、ユユ姫がお金を出してくれるということか? いや、そういうわけにはいかないだろう。それに気に入ったものを次々買っていたら、とても持って帰れない量になりそうだ。そのくらい、目にするものどれもが魅力的だった。
私が日常で使う用などなさそうな鋳物ですら、目を引かれずにはいられない。洗練された芸術性と、それを商品化する技術がここにはある。なるほど、シャール地方が工業によって発展している理由がよくわかった。
「姫様からも、好きに買い物をしていただくよう仰せつかっております。ティトシェ様は新製品の開発に貢献してくださいましたから、その報酬を受け取る権利がおありです。どうぞご遠慮なさらず」
「貢献って、思いつきを口にしただけですよ。それをじっさいに商品化したのは職人さんの努力です。私は何もしていません」
「しかしその思いつきがなければ、職人も開発に取り組もうとはしませんでした。あなたのおかげでこのシャールに新たな富がもたらされたのです。みな感謝しておりますよ」
「……アークさんて、もしかしてここの出身なんですか?」
ふと気づいて尋ねてみる。彼の言い方は、単に主人が管理する地方の話という雰囲気ではなかった。
「ええ」
アークさんは笑ってうなずいた。
「父は彫金師です。しかし私は子供の頃から武術にばかり興味を持っておりまして、跡継ぎは弟に任せて家を飛び出してしまいました。勘当を赦されたのは、つい最近です」
勘当までされちゃったのか。代々職人の家だとしたら、そんなものなのかな。
「じゃあ、どうして騎士にならなかったんですか。騎士に匹敵する強さだって聞きましたけど」
「はじめは、それを望んでいたのですが……」
アークさんは軽く苦笑した。
「しかし私も根はシャール人だからか、少々ずるくてね。騎士になれば家の事情など置いて、国に己を捧げねばなりません。戦があれば出ていき命を落とすこともある」
どきりとする。今の情勢では、ただのたとえ話ですまされない。
「私は命を惜しみました。今は家業を継ぐつもりはなくても、もし弟に何かあれば私が帰るしかありません。そこまで家や家族を捨て去る気にはなれません。そんな気持ちのままでは、騎士として不適格です。結局私は、職人の息子なんです。イリス様やトーヴィル様のようにはなれませんでした」
すべてを捨てる覚悟でないと、騎士にはなれないのだろうか。たしかに彼らの仕事は戦うことで、その結果命を落とす可能性もあるのだけれど……でもそういう話は、なんだか嫌だな。
嫌だと思ってしまうのは、私が平和ボケの平成日本人だからだろうか。
「じゃあ、せっかく地元に帰ってきたんだから、お家に顔を出された方がいいんじゃないですか?」
あまりつっこんで聞くのも失礼だし、こちらも暗くなってしまいそうなので話題を変える。アークさんは屈託なくうなずいた。
「ええ、時間が取れたら行ってきますよ。父には無視されるでしょうが、行かないと母や弟がうるさいので」
「お父様は、まだ少し引きずってらっしゃるだけじゃないですか? 勘当を解かれたのなら、もう赦してくださってるんでしょう」
「多分ね。頑固親父ですから。むしろよく十年程度で赦してくれたと感心していますよ」
冗談めかしてアークさんは笑う。多分彼の中では、父親との関係には決着がついているのだろうな。
――私は、まだハルト様にどう接していくべきなのか、わからない。
そのまま店を覗きながら通りを歩く。私は楽しかったけれど、アークさんは退屈じゃないかと少し心配になった。女の買い物に付き合うほどしんどいことはないと、よく聞くし。まして何も買わないウィンドーショッピングなんて、男には何が楽しいのかわからないだろう。
「アークさん、どこかで休憩してくださってていいですよ。私この辺のお店を見てますから」
お供を連れて歩くことに慣れない私には、人を付き合わせているのがどうにも落ち着かない。一人で歩くことを提案してみたが、予想どおり却下されてしまった。
「お気になさらず。この程度で疲れていては護衛など務まりません。ティトシェ様こそ、歩き疲れてはおられませんか」
「まだ大丈夫です。人混みは苦手だけど、ここは静かだから」
それなりに通行人はいるが、エナ=オラーナの市場みたいな人の波ではない。こういう穏やかな場所でなら、私だってそうすぐに音を上げたりしない。
「それでしたら、神殿まで足を伸ばされてみませんか。少し向こうへ歩いたところです」
「神殿ですか……」
こっちへ来てから、宗教には特に関わっていない。ロウシェンではあまり宗教が政治に口出ししてくることはないようだ。どんな信仰なのかよく知らないくらいだから、少し興味を覚えた。
アークさんの案内で商店街を離れ、いくつかの角を曲がる。たどり着いた場所は、古い石造りの建物だった。
周りの建物よりはずっと大きいけれど、荘厳という雰囲気ではないな。金ピカじゃないからだろうか。静かな威厳とちょっとだけ怖そうな雰囲気をただよわせている。大きな柱に挟まれた階段を上がると十人くらい一度に通れそうな入口があり、その奥は広い礼拝堂だった。
信者のために開放されているらしく、中には先客の姿がある。お祈りの邪魔にならないよう、私は静かに中へ入った。
キリスト教の教会みたいな座席はなくて、がらんと広い空間だ。先客は床にひざまずいて礼拝していた。イスラム教の礼拝を思い出す風景だ。
正面の祭壇には飛竜と地竜の像があり、その二頭に守られるように男性とおぼしき像がある。細部ははっきり造られず、おおまかに男性だとわかる程度の姿だ。これが神様なのかな? どうしてこんなに抽象的な姿なのだろう。
祭壇の前でアークさんは床に膝をついた。私も彼にならって膝をつく。多くの日本人同様信仰心などろくに持ち合わせていないけれど、宗教を馬鹿にする気はない。変なカルト集団ならともかく、ちゃんとした宗教には敬意を表しますとも。
でも頭を下げながらこっそり横目で周囲を眺める。入ってきた正面の入り口とは別に、左右にも扉があった。右手の扉は回廊につながっているようだった。
お祈りを終えたアークさんに、向こうへ行けるのか小声で尋ねると、あまり奥まで行かなければ大丈夫だと言われた。ので、私は遠慮なく扉へ向かった。
石の柱が並ぶ回廊に出る。柱と天井のつながる部分はアーチ型だ。左手には壁が、右手には庭がある。あまり植込みもなくどちらかと言うと殺風景な庭だ。塀と建物の間の空間でしかない。
「たしか、この世界では創造神が信仰されてるんでしたっけ」
礼拝堂を出たので気兼ねなく話ができる。質問するとアークさんは首をかしげた。
「はい――ご出身地では違ったのですか?」
あ、そうか。彼は私が異世界人だということを知らないのだった。
「ええ、とても遠いところなので。さっきの祭壇の像が神様ですよね? なんであんな姿なんですか? もっとちゃんとお顔があればいいのに」
「神の姿など人には知りようがありません。それに創造神は自然そのものでもあります。人の姿に似せるのは、あくまでも人が礼拝しやすいようにです。神託を与えに人の夢に現れたという言い伝えにも、はっきりとした姿は見られなかったとあります。ですから、神に姿かたちというものはないと考えられています」
そうか、山や滝をご神体にするのと似た感覚なのかもしれない。
「初めに造られたのがこのシーリース島。人もここから生まれたと言い伝えられています」
「シーリースが世界の中心なんですか?」
「そうですね……今は外の国々も独立し力を持っていますが、かつてはシーリースの配下にありましたから。三国の王が特別に公王と呼ばれるのも、そのためです」
――おや? 公王という称号には特別な意味があったのか。てっきり自動翻訳機能が適当な処理をしたのかと思っていた。
「公とは世界そのものを差す言葉です。もともとシーリースに国はひとつで、王も一人でした。そのため公王とは世界の王であった。長い歴史の中で国が分かれ、外の島にも国が興り、本来の意味は失われましたが、今でもシーリースの公王様たちは他国からも特別な敬意をはらわれます」
誇らしげにアークさんは説明する。スーリヤ先生の授業でも聞いたことのない話だ。公王がそんなに特別な存在だとは知らなかった。
ハルト様はちょっと優柔不断なところもあるおっとりさんで、カームさんは女たらしの腹黒、クラルス公は苦悩する若者だ。三人とも人間的であまり雲の上というふうには感じていなかった。私の認識がおかしいのかな? 人に言うと叱られるかもしれない。
「シーリースが元はひとつの国だったのなら、なんて名前だったんですか?」
「それは……」
私のさらなる質問にアークさんが答えようとした時、礼拝堂から出てきた人が声を張り上げた。
「アーク! 帰ってたのか!」
アークさんと同じ年頃の、なんだか顔立ちもよく似た人が駆けてくる。振り向いたアークさんは目を丸くした。
「なんだロディ、どうしてここにいる」
「納品のついでに寄ったんだよ! なんかよく似たのがいるなーって思って追いかけてきたんだけど、本当にアークだった」
もしやこれが弟さんだろうか。並んだ二人は顔立ちだけでなく髪や瞳の色もそっくりだった。ただ、ロディさんの方はあまりがっしりしておらず、ごく普通の一般男性に見えた。
「申しわけありません、弟です」
アークさんはやはりな説明を私にした。
「年が近いんですね」
「ええ、年子なんです」
「アーク、そちらのお嬢さんは?」
ロディさんが私を見て怪訝そうになる。
「ユユ姫縁の方だ。失礼をするな」
「あ、申しわけありません、あの、アークの弟のロディと申します」
恐縮して挨拶するロディさんに、私も会釈した。
「佐野千歳です。どうぞおかまいなく、縁といってもただの居候なので」
「は?」
「ティトシェ様」
アークさんが苦い顔で私を見る。だって事実だ、私は王族でも貴族でもない。大人の男の人に気を遣われるような身分じゃない。
「私この向こうをちょっと見学してきます。気にしないで弟さんとお話しててください」
「そういうわけには」
「外へは出ないんですからかまわないでしょう? 神殿内で何か危険がありますか?」
「……しかし」
「少しひとりで歩きたいんです。ちゃんとここへ戻ってきますから」
「…………」
難しい顔をしながらも、重ねて頼むとアークさんは許してくれた。絶対に外へは出ないように、そして神殿内でもあまり奥までは行かないようにと釘を刺され、それにうなずいて私は歩き出す。アークさんには悪いが、やはりひとりで息抜きがしたかった。
アークさんのことは嫌いじゃないし、案内も護衛も必要だとは思う。でもずっとそばにいて見張られているのは気が詰まる。一般庶民家庭出身の元女子高生が、いきなりお姫様みたいになれるわけがない。
……もっとも、もう私は一般人とは言えないのだろうな。
身分はないけれど、それ以上に特異な存在になってしまった。龍の加護は悪いことを考える人間にはとても魅力的な能力だろう。私自身危険だし、周りの人にも迷惑をかけそうだ。
そう考えると竜を呼び寄せて踊らせたりとか、軽率な真似をしてしまった。以前地竜のお母さんに助けてもらった時にも大勢の騎士に目撃されているし、だから隠しようがないと、オリグさんは言ったのだろう。ハルト様に無断で街へ出かけ、ひとりで歩いたと知られた時叱られたのは、そういう理由だったんだ。
考え事をしながらぶらぶら歩いていると、地下へおりる階段を発見した。この下には何があるのだろう。もしや地下墓地があったりして。
すごく気になる。あまり奥まで行くなと言われたけれど、これは奥に当たるのだろうか。でもちょっとだけ、階段から覗くくらいなら……いいかな?
私は周囲に人がいないのを確認して、こそっと階段へ踏み込んだ。怖い系は割と得意だ。むしろ見たい方である。これがゲームなら宝箱かモンスターが待ち受けているのだけれど……さて?
それほど長くない階段を下りた先は、少し広い空間になっていた。予想していた骸骨の群れはなく、がらんとした部屋だ。上部が吹き抜けになっていて、遠い窓から光が入り明るかった。不気味な暗さはまったくなかった。
「なんだ……」
拍子抜けする。もっとすごい光景を期待していたのに、何もないただの地下室だ。実は貯蔵庫だとかいうんじゃないだろうな。
「なんにもないな……つまんないの」
普段は独り言すらあまりしゃべらない私なのに、こういう場所にひとりだとなんとなく声を出してしまう。別に怖いのをごまかしているわけではない。でも無言でいるのが妙に落ち着かないのだ。
当然誰かに話しかけたつもりはなく、返事があるなどとは思っていなかった。だから背後から声が聞こえた時には、びくりと身体が跳ねてしまった。
「何を期待しておられたのかな? 意外に冒険心がおありのようだ」
男の声にあわてて振り返る。神官に見つかったのかと焦った。しかし階段から下りてきたのは、それ以上にまずい相手だった。
黒いあご髭をたくわえた、男性的な魅力の主だ。今はもう、この島にいるはずのない人物だった。
「ごきげんよう。またお会いできましたね」
靴音を響かせてデュペック侯は地下室へ下り立つ。とっくの昔にエランドへ帰ったはずの人物がなぜここに現れるのか、私は理解できずに混乱した。だって龍船で送っていったはずだ。彼が出国するところは確認されているし、戻ってなんかこられないはずないのに。
人違いでも何でもないと思い知らせるように、彼は親しげに話しかけてくる。
「しばらくお見かけしないうちに、ずいぶんやつれてしまわれましたな。よほどにお悩みが深いようだ」
「どうして……帰ったはずじゃ……」
私のつぶやきに、デュペック侯は皮肉げに口の端を吊り上げた。
「帰りましたよ、私の影が」
「影……?」
なんだそれは。影武者という意味か? ではみんながデュペック侯だと思って送っていったのは、偽物だったのか。
本人はまだシーリースにいた。わざわざ偽物を用意して出ていったと見せかけて、潜伏していた。その目的は……。
「ご心配なく。あなたに危害を加えるつもりで現れたのではありませんよ」
冷や汗をかく私を余裕の顔で眺めながら、デュペック侯は言った。
「おおかたハルト公から脅されておいでなのでしょう? 私があなたを狙っているとか何とか」
「……そうじゃないのなら、何のためにここへ?」
冷静になれ。自分に言い聞かせる。デュペック侯は一人だ。仲間が上にいたとしても、一瞬で私を拘束できる距離ではない。大声を上げれば神官やアークさんにも聞こえるだろう。ここへ人が集まってきたら、彼だって簡単には脱出できない。不法滞在者なのだから、彼も人目につきたくはないはずだ。
「話をするためですよ」
デュペック侯はそんなことを言って一歩私に近づく。けれど私が警戒して身構えるのを見ると、それ以上踏み出さずその場で立ち止まった。
「なんの話ですか」
「あなたのお顔を見ていればわかる。我々エランド人は、さぞかし悪人扱いされているのでしょうな。周囲の国を次々征服する欲深な侵略者だとでも教えられているのでしょう」
「…………」
「しかし物事にはいろんな側面があるとおっしゃったあなただ。違う見方もできませんか? 教えられたことだけが真実だと盲目的に信じるのではなく、他の真実もあるかもしれないと……あなたの養い親が、無条件に信じられる相手ではないと知った今ならば」
「……っ」
デュペック侯の言葉に、不覚にも息を呑んでしまった。彼は私とハルト様との確執を知っている。なぜ、そんなことを知っているのだろう。
スパイ。内通者。そんな言葉が頭に浮かぶ。そうだ、エランドはこれまでにも内通者を利用して陰謀をしかけていた。ロウシェンの内部に、それもハルト様の近くにエランドの息がかかった人間がまだいるのか。
「今すぐには信じてもらえないでしょうが、我々はけっして戦を好んでいるわけではありません。侵略というのも、一方的な見方だ。我々には言い分がある。しかしそれをこの場でお話しても、おそらく理解は得られないでしょうな」
「……そうおっしゃるのなら、なぜ姿を現したんです。まだこの島にいると知られたらまずいのでしょうに」
「そうですな」
私の指摘に、デュペック侯はあっさりとうなずいた。
「この後あなたが周りの人間に私のことを告げれば、たちまち捜索がかけられるでしょう。見つかれば帰国などできず、牢につながれる。私も危険を冒しているのですよ」
そんなことを言う彼の真意がわからなかった。いったい何を狙って私の前に現れたのだろう。
必死に冷静であれと自身に言い聞かせ、落ち着いた態度をとりつくろいながらも、私は周囲の気配に神経をとがらせていた。他に人が来るようすはない。でもデュペック侯がひとりだなんて、多分それはないだろう。
「ですから、できればこの場でのことは内緒にしておいていただきたいですな。まあ強制はできませんが」
「……どうして、そんなことを」
強制も何も、ここで私をさらうか殺すかすれば必要のない話なのに。
「こちらもある程度の危険を背負わなければ、信じてなどもらえないでしょう。悪の帝国と思われている我々の話を聞いていただくのは、容易なことではない」
「いったい、どんな話をしたいというのですか。そもそも、なんで私に」
「その理由は、言わずともご存じのはずですが」
デュペック侯の示唆するところが何か、もちろんわからないはずもなかったが、私は口にも表情にも出さないよう注意した。こちらから情報を出すのは極力避けたい。
そんな小娘の警戒心などお見通しとばかりに、デュペック侯は笑みを深くした。
「やはり、あなたは頭がいい。難しいことなど考えない令嬢とは違う。だからこそ、話を聞いていただきたいと思ったのですよ。問答無用でさらっていくこともできるが、そういう手段ではあなたの真の理解も協力も得られない。私は――我々は、けして戦を望んでいるわけではない。できるだけ穏便な手段でことを片づけたいのですよ」
「それなら、他国へ攻め入ったりせず国内でおとなしくしていればいいでしょうに」
「そこに我々の事情がある。しかし、今この場でお話するのはやめましょう。それほどの時間もありませんしな。続きを知りたいと思っていただけたなら――もしくは、流血を避けたいとお思いなら……」
デュペック侯はいくつかの指示を口にして、私に背を向けた。そのまま振り返ることもなく階段を上がっていってしまう。あまりにあっさり引き下がっていったのが信じられなくて、まだ何かあるのではないかと私はしばらく動けなかった。けれどいつまで経っても誰かが下りてくる気配はしない。私はそろそろと階段へ向かい警戒しながら上へ戻った。
薄暗い場所から明るい回廊へ出る。おそるおそる見回した周囲には、デュペック侯の姿はどこにもなかった。
遠くを神官らしい人が歩いて行く。
私は詰めていた息を吐き出した。悪い白昼夢でも見た気分だった。
でも現実だ。ついさっきまで、ここにエランドの高官がいたのだ。
シーリースを狙う帝国の貴族。私に龍の加護があることをおそらく知りつつ、なのに強引に拉致することもなくただ話を聞いてほしいとだけ残して去って行った。いったいどんな話をしたいのだろうか。彼らの事情とは、私がこれまで聞かされていない別の側面とは、何なのだろうか。
――今夜、姉月の入りに。
なかなか戻らない私を探しにやってきたアークさんに、デュペック侯とのひそかな約束のことを話す気にはなれなかった。




