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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第十部 時を越えて
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 近づいてみれば、戦っているのはエランド軍とシーリース軍ではないことがわかった。

 攻め込んできているのは別の国だ。港に入らず少し沖合にとどまっている、旗艦らしき船の帆に紋章が描かれていた。スーリヤ先生から習った各国の紋章を思い出す。あれはたしか、セルシナだ。エランドとシーリースの中間地点にある国。向こう側の紋章はキサルスだ。セルシナとキサルスが連合軍を結成して攻めてきているようなことを、カームさんが言っていたっけ。

 シーリースの龍船は空にとどまり、遠巻きに状況をうかがっていた。竜騎士たちはエランドの戦闘機が近づいてこないよう守りつつ、一部は民間人たちを救助しているようだ。

 私はロウシェンの龍船へ向かった。

 近くへ行くより先に向こうが気付いて、甲板に人が集まっていた。なつかしい姿が見える。私は龍にそばまで行ってもらった。

「チトセ!」

 船縁から身を乗り出してハルト様が叫ぶ。後ろからあわててつかまえるアルタが、やはりこちらを見てくる。

「嬢ちゃん、無事だったか。いったい今までどこに……しかし、えらく派手なご帰還だな」

 龍はゆったりと船に寄り添い、話ができるほどの距離で止まってくれる。みんな呆気にとられた顔で見ていた。伝説の生き物を、これほど間近で見ることになるとは誰も思わなかっただろう。

「ハルト様、この戦いは何なんです? シーリースとエランドの和平条約はどうなったんですか」

 再会した人たちにいろんな思いがこみ上げるが、今はのんびりよろこんでいる暇はない。私はいそいで尋ねた。

「条約は破れた。正式な締結をする前に白紙撤回されてしまった。内々の合意のあと、キサルス・セルシナ連合軍に停戦を求めたのだが、自分たちには関係のないことだと聞き入れられなかったのだ」

「そんな」

「邪魔をするならばシーリースも敵とみなし攻撃すると……」

「半分ははったりだろうがな。シーリース三国と正面きって戦う度胸はさすがにあるまい」

 ハルト様に続いてアルタも苦々しげに言う。

「我々に割って入られる前に、なんとしてもエランドを攻め落としたかったんだろう。欲の皮が突っ張った連中には正論など通用せん。しかし、それより問題なのはエランドの方だ。攻撃をやめないのなら条約など結ばない、外の軍はすべて敵だと、俺たちにも狂ったように向かってくるんだ。こうなったら共闘して連合軍を追い払おうと言ったんだがな、だまし討ちにする気だろうと聞く耳を持たんのだ。なんとか仲裁して停戦させようにも、エランドがあの状態では話にならん」

 連合軍とシーリースが仲間だと、エランド側は思っているのか。カームさんとの話し合いで、どう言っていたっけ? 停戦するように通達するとは言っていたけど……ディオンも、一応は聞いていた。

 でも攻められれば応戦するとも言っていた。だから今、この状況なのか。

 ディオン――彼はどうしているの。

 属領から援軍を呼ぶにしても時間がかかる。現状は圧倒的にエランドが不利だ。この状況でだまし討ちなんてする必要はないくらいなのに、なぜ信じられないの。みすみす己を窮地に追い込むの。

 ディオンはどこにいる? さがさないと。彼を見つけなければ。

「とにかくチトセ、こちらへ移りなさい」

 ハルト様が言うのを無視して、龍は船から離れた。

「チトセ!」

「ごめんなさい。行きます」

「待ちなさい、チトセ!」

「おい嬢ちゃん!」

 引き止める声を振り切ってふたたび島へ向かう。近くにいた飛竜騎士が何騎か寄ってくる。見知った顔がある。でもイリスの姿はなかった。

 ……あの後、イリスはどうなったのだろう。無茶をして倒れていないといいのだけれど。

 地上部隊の中にいないかとさがしても見つからない。代わりに赤い髪が見えた。小柄な地竜が瓦礫を押し上げ、その下から人を助け出している。逃げまどうしかない民を、シーリースの騎士たちはなんとか安全な場所へ誘導しようと奮闘していた。けれどそこへ連合軍が襲いかかってくる。無差別に攻撃しようとする兵士たちに、やむなくシーリース側も応戦する。すると今度はエランド兵がやってきて、シーリース軍もろとろ敵兵を討ち倒そうとする。もう目茶苦茶だった。どこの国と戦っているのかわからない。シーリース側にとっては手を引くしかない状況だが、目の前で殺されそうになっている民を見捨てることもできず、彼らは混戦の中で懸命に踏みとどまっていた。トトー君が部下に指示を飛ばしながら、踏みつぶされそうになっていた子供を拾い上げるのが見えた。周囲からいっせいに襲いかかる剣を打ち返している。

 もう、いいかげんにして。

 いつまで愚かな争いを続けるの。

 身体の奥底から怒りが沸き上がってくる。それに同調して龍が吠えた。島に怒りと嘆きを響き渡らせる。驚いた人々がいっせいに空を見上げた。

 もう争わないで。誰も傷つけないで。

 私は祈る。どうか、この声を聞いて。みんな思い出して。それぞれに大切な人がいる。戦う相手にも家族や友達がいる。みんな同じなのだから。守りたい人を思い出して。その人のために、戦を終わらせて。

 澄んだ響きが狂気の熱を鎮めていく。憑き物が落ちたように、放心して立ち尽くす姿が続出した。風がよどんだ空気を吹きとばす。兵も民もみな動きを止め、天の調べに耳を傾ける。混乱の波が引き、地上に静けさが戻っていった。

 不意に龍が方向を変えて海へ向かった。そこには連合軍の旗艦があった。甲板で指揮官がわめいている。

「なにをしている!? 攻撃を止めるな、一気に攻め落とすのだ!」

「しかし閣下、あの龍を……」

「それがどうした!? あんなもの、無視すればよい! 龍が何をするというのだ、放っておけ!」

「か、閣下!」

 龍が急降下する。私は目を閉じ、ぎゅっと龍のひれにつかまった。直後に衝撃がくる。ばりばりとすさまじい音が響き、人の悲鳴も混じる。やがてまた上昇した龍の背で目を開ければ、旗艦がまっぷたつになって沈んでいくのが見えた。乗組員があわてて逃げ出し、海へ飛び込んでいる。

 ……近くには仲間の船もいるし、大丈夫だよね?

 可哀相とは思わないけれどこれ以上死を増やしたくもない。急いで救助に向かう船を確認してから、私たちはまた島へ戻った。

 エランドの指揮官を、ディオンをさがす。彼はどこにいるの。どこから戦いを指示しているの。

 王宮まで来ても、それらしい姿は見つからなかった。私が困惑すれば龍もその場でとどまる。どこへ向かえばいいのだろう。悩む私の耳に、悲鳴のような声が飛び込んできた。

「姫様……っ」

 女性の声だ。見下ろせば、避難してきた人々の中にサラの姿があった。龍が地上すれすれまで降り、すぐ近くで彼女と向かい合う。

「姫様……」

 涙を流しながら、サラは私に憤りをぶつけてきた。

「なぜですか!? 精一杯お仕えした私たちを見捨てて、なぜこのような……! 天の御方は私たちを救ってくださるのではなかったのですか!?」

 彼女たちに背を向けて城から逃げ出した私を、サラは責めたてる。それに答えようとは思わなかった。私はエランドを救うために降臨した天使なんかじゃない。そっちが勝手にさらって連れてきたのだ。

 ……そう言ったところで、理解はできないとわかっていた。エランドにも罪があることを、今は受け入れられないだろう。いずれ知る時が来るまで嘆いても、恨んでもいい。いつか立ち直れたなら、他人にも痛みを与えていたことを理解してほしい。

「なぜ……! 天は私たちに滅びよとおっしゃるのですか!?」

「サラ」

 後ろから止める人がいた。サラの肩を抱え、やめなさいと諭す。その姿にも見覚えがあった。

「……おばさん」

 しわを刻んだ優しい顔が私を見る。雪の中で半べそをかいていた私に温かい食事と気持ちを与えてくれた人は、思慮深いまなざしで言った。

「ディオンを止めてちょうだい、お嬢ちゃん」

「おばさん?」

「あの子はもう、人の言葉を聞こうとしないの。何を信じていいのかわからなくなって、心の支えも失って、自暴自棄になっている。止めてちょうだい。あの子を、救ってやって」

 お願い、とおばさんは言う。ああ……この人は、ディオンの。

「……彼は、どこにいるんですか」

「禁域へ向かったわ。あの山の上、あそこに封じられた武器があるらしいの。とても強い力を持ったものを始祖が隠されたと伝えられているわ。あまりに恐ろしいものだから使ってはならぬと封じられたって言われている」

 城から見える山をおばさんは指さす。部屋の窓から、そして過去の世界でも見た山だ。瀬戸さんが封じたものって、やっぱり爆弾かな。シーリースから持ち込んだか、あるいはこの島で取り戻した飛行機に搭載されていたものかも。この世界ではたしかに強力な武器だろうけれど、原爆でもあるまいしそれだけで戦況を覆せるほどではないだろう。だいいちそんなに昔のものが今頃使えるだろうか。不発弾が爆発したという事故も、せいぜい製造から百年以内だ。

 じっさいに危険があるかどうかはわからなかった。けれど、ディオンの居場所がわかったなら向かうだけだ。龍が山へ首を向けた。

「お願いよ」

 おばさんの声に送られて飛び立つ。人の足で向かえば遠く高い山も、龍にはひとっ飛びだった。頂上近くに、私が乗せられてきた輸送機が見えた。そこからは歩いて登るしかなかったのだろう。けわしい斜面のさらに上へ向かうと、頂上に大きな穴が空いていた。これは火山だったのか。深い穴の底に湖ができている。見下ろす縁の一角に、崩れかけた石造りの建物があった。下から見ていた時には気付かなかった。祠みたいな小さなもので、遠くからはただの岩みたいにしか見えなかった。

 そこだけ人の手で整地したのだろう。地面が平らになっている。通路のように細長く伸びて建物へと導いている。輸送機が降りるには少々狭すぎるが、人が歩くには十分だ。

 私は龍の背から下り立った。周囲に人の姿はなかった。中にいるのだろうか。今にも崩れてきそうな天井を見上げつつ、そっと中へ踏み込む。ひびの入った柱の奥に扉があった。朽ちかけてそこに残っているのが不思議なほどで、もう扉の役は果たしていない。ただの邪魔な残骸が端へ寄せられ、向こうに立つ大きな背中が見えていた。

「ディオン」

 ただひとり、立ち尽くす背中に声をかける。ディオンは振り返らなかった。彫像のような黒衣に近づき、私はその向こうを覗き込む。

 壊れかけた箱の中に、私では少し抱えきれないくらいの大きさの、錆の塊があった。

 おそらくは、爆弾だったのだろう。でももう朽ち果てて、元は何だったのかもわからない。錆の奥には火薬と信管がおさめられているはずだが、それがどうなっているのか、まだ機能するのか、調べる気にもなれないありさまだった。

 ……そうだろうな。崩れかけた天井からは空が見え、雨が降れば水浸しになる状況だ。いつ頃崩れたのかは知らないが、最近のことではないだろう。何十年、あるいは何百年……雨ざらしで放置された金属が、当時のままの形をとどめているはずがない。これを持ち出したところで使えないと、見る前からわかっていた。

「これが現実か」

 ディオンがつぶやいた。昏い笑いを含んだ声だった。

「始祖の残した切り札……神の力を宿す宝だと信じていたものの正体は、こんなぼろ屑か……こんな……」

 喉を鳴らして彼は笑う。肩が揺れている。大きな背中は私の前にそびえ立ち、絶望と悲しみを背負っていた。

「祖王は神ではなく普通の人間よ。この世界にはない知識を持っていただけで、人を超えた力は持っていなかった。それに彼は、戦うことをやめてこの島へ渡ったのよ。これを処分せずに残したのは、万一後を追って攻め込まれた場合に仲間を守るためだったのでしょうね。でも使う必要がないことを、強く願っていたはずだわ。朽ち果ててよかったのよ。それこそが、彼の望んだこと……もう終わりにしましょう。みんな戦いをやめているわ。これ以上はだめだと、気付いている。あなたも終わりにして。剣をおさめろと、皆に命じて」

 瀬戸さんはもう戦わないと言った。平和で幸せな国を作るのだと。最後まで残した爆弾も、どうか使われることのないようにと願ってこんな場所に封じたのだろう。彼の意に反して残された資料から模造品が作られてしまったけれども、人々を救うために必要なのは爆弾じゃない。もうそれは、手放してしまわないと。

「リシャール様はどうした」

 振り返らないままディオンが尋ねた。私は言葉に詰まる。

「どこにおられる」

「……ここにはいないわ」

 ゆっくりとディオンがふりかえる。昏い炎を宿した眼にふるえが走る。息をのむ私に向きなおり、ディオンは腰の剣に手をかける。

「どこへやった。あの方を返せ」

 私はそろそろとあとずさった。ゆらりと踏み出してくるディオンが怖い。背中を向けて逃げ出してしまいたい。でも、伝えないと。これは私の義務だ。

「この世界にはいないわ。龍がどこかへ送り出した――あの子にとってもっともよい場所、幸せになれる場所へと。それがどこなのか私にはわからないけれど、いつかは帰ってこられるって……」

「ふざけるな」

 地の底から響くような低い声で、ディオンはうなった。

「どことも知れぬ場所へ投げ捨てて、幸せにだと」

「それは……」

 踏み出すディオンに押されて私はさらにあとずさる。建物から出て外へ。背中に冷たい風が吹きつける。

「我らから最後の希望も奪い去ったか」

「だってここにいたらリシャールは死んでしまっていた! あなたはあの子を守れなかったじゃない! もうさみしいのはいやだって、泣いていたのよ!」

 リシャールを希望だとディオンは言う。けれどそれは、自分のための言葉じゃないのか。あの子自身の希望はどうなるの。勝手に期待され、勝手に邪魔にされて。孤独の中であの子がどれだけぬくもりを求めていたか、わからないのか。

「平和になればリシャールも帰ってこられるわ。本当にあの子を取り戻したいなら、戦を終わらせて」

「終わりだとも」

 ディオンが剣を抜く。狂気を宿した眼が私を見据える。

「ユリアス様を失い、リシャール様までいなくなって、もはや俺に戦う意味などない。すべて終わりだ……すべてを滅ぼし、終わりにしてくれる」

 剣が鈍く光る。狂気以上に絶望の色が濃かった。どうやったら彼に届くのかがわからない。ありふれた言葉ではディオンの絶望を打ち消すことなどできそうになかった。

 すべてを滅ぼすか、さもなくば自分が倒れるか。

 それまで彼は止まれない。

 私は遥か下の湖を見下ろした。ここから落ちればきっと死ぬ。ほんの少し足を踏み外せば、もう終わりだ。

 ごくりと唾を飲み込んだ。死ぬのも、死なせるのも、怖かった。いつかの光景がよみがえる。崖を落ちていく姿――私が突き落とした。この手で、人を死へと追いやった。

 あのおそろしい記憶を、もう一度くり返せというのか。

 泣きそうな気分でディオンに目を戻す。彼と目が合い、強い気持ちが伝わってくる。

 やめて――求めないで。そんなこと、したくない。今からでもやり直せないの? まだ希望はあるはずなのに。

 ふるえる足が石につまずいた。私はその場に尻餅をついて、ただディオンを見上げることしかできなかった。

「……やはり、お前には無理か」

 見下ろしたディオンが笑った。

「無力な小娘が。役立たずめ」

 剣が振り上げられる。見上げる目尻から涙がこぼれた。泣いているのはどっち? 憤怒と絶望に染められたディオンの顔にも、涙が流れているように思えた。

 私に剣を振り下ろそうとしていたディオンが、不意に飛びずさった。寸前まで彼が立っていた場所に、風を切り裂いて飛んできたものが突き刺さった。

 槍だ。投擲用の小振りの槍が突き立っている。

 翼の音が聞こえた。影が差し、頭上を竜が通りすぎていく。その背から飛び下りた人が、私の前に着地した。

 山の風に銀の髪が吹きなぶられる。

「……来たか」

 ディオンが笑った。待っていたと言わんばかりの声だった。イリスは無言で槍を構える。投げたものとは違う、長く重量もある槍だ。斧のような刃がついた、斬ることも突くこともできるハルバードだ。

「戦はもう終わりだ。龍の声を聞かなかったのか。混乱していた兵士たちも武器を下ろした。連合軍はシーリース軍の監視下に入った。これ以上の戦いは無用だ」

 槍を構えたままイリスが言う。ディオンの顔にはわずかな変化もなかった。鼻で笑い、剣を構え直す。

「……引く気はないか」

「愚問だ」

「エランドの民をどうする。すべてを投げ出すつもりか」

 いちばん効果がありそうな言葉すら、ディオンを止めることはできなかった。

「どうでもよい――滅びるさだめならば、滅びればよい。それで苦しみも悲しみも終わる」

 かなしい終わりだけをディオンは見つめている。それ以外を受け入れようとしない。イリスもそれ以上説得しようとしなかった。

 ふたりは同時に地面を蹴る。

 声を上げることもできなかった。目の前ですさまじい死闘が始まる。互いに相手の命を狙い、必殺の攻撃をくり出している。かわし、打ち払い、攻めて。一瞬たりとも止まらない。足元はすぐ近くに斜面が迫り、足を踏み外せばたちどころに滑落する。そんな危険と隣り合わせの場所で、恐れも見せず激しく戦った。

 ひらりとイリスが跳んで襲い来る刃をかわした。身の軽さを最大の武器とする彼があやつるのは、もっとも得意な得物だ。体格差を攻撃範囲の広さで補い、剣で戦った時よりも威力ある技を繰り出している。対するディオンも全力で戦っていた。笑みは消え、すさまじい速さで剣をふるう。

 涙が止まらない。イリスの無事と勝利を願うけれども、あまりに悲しすぎる戦いだった。ディオンの望んでいることが何か、いやというほど伝わってくる。きっとイリスも感じている。戦うことで応えている。

 互角の勝負が無限に続くかと思われたが、終わりは唐突に訪れた。先に隙を生んだのはディオンの方だった。わずかな体勢の乱れを見逃さず、イリスが槍をすくい上げる。ディオンの腕を刃が撫で、血飛沫があがった。

 うめき、さらに足元を乱したディオンに、イリスは間を置かず突っ込んだ。構えた槍の先がディオンの胸に吸い込まれていく。

「…………」

 今度こそ完全に動きを止め、ディオンは身体の脇に腕を垂らした。力を失った手から剣が滑り落ちる。己に突き立つ槍を見下ろし、笑った口の端に血が流れた。

 イリスが身を引く。槍が引き抜かれ、黒い長身がかしぐ。数歩ふらついたディオンは、そのまま仰向けにどうと倒れた。

 苦しげな呼吸がまだ続いている。胸と口から血を流しながら空を見上げていたディオンが、ふとこちらを向く。私と目が合った。

「…………」

 彼の目から狂気は消えていた。そこにもう激情はなく、急速に光を失っていく。

「これ、まで、か……」

 ――出会ってからはじめて、穏やかに笑う彼を見た。皮肉も自嘲も見せず、ただ静かに笑い……目を閉じる。

 すべての動きを止めた彼を見つめたまま、私は泣き続けていた。

 肩で大きく呼吸をくりかえしていたイリスが、額の汗をぬぐい歩きだす。私の前へ戻ってきて、膝をついた。

「終わったよ。帰ろう」

 地面に槍を置いて、私に腕を差し伸べる。

「エンエンナへ――みんな待っている。一緒に帰ろう」

 悲しみと喜びが入り乱れて涙が止まらない。私も腕を伸ばし、イリスに抱きついた。強く抱き返され、互いのぬくもりをたしかめる。ここにいる。愛する人が、腕の中にいる。もう離れない。ともに生きていくと決めて、戻ってきたの。

 ディオンの中にも愛情はあった。ユリアスに、そしてリシャールに。島の人々のためにずっと頑張ってきた。なのに、どこで踏み違えてしまったのだろう。なにがいけなかったのだろう。

 守るための戦いがいつしか奪うための戦いになり、止まることができなくなった彼は、滅ぶか滅ぼすかで終わらせようとした。ただ悲しい……でも、もう終わった。彼もまた、これ以上苦しむことはない。すべてから解放されて、ようやく安らげたのだ。

 足音が聞こえた。涙を残したまま振り返れば、デュペック候が登ってきたところだった。静かに眠るディオンを見下ろし、息をひとつつく。

「……なにもかも、終わりましたな」

 ゆっくりと歩いてきて、彼はディオンのそばにひざまずいた。

「私のしたことは、ディオンを追い詰めるだけだったのか……よかれと思ったことが、この男に絶望しか与えなかったのか……間違えていたと、いうことでしょうか」

 ディオンの頬をなでる彼にいつもの笑みはなく、静かな悲しみを浮かべている。

「我々の負けですよ……お行きなさい。願わくば、民たちをむごい目には遇わさないでやってください。彼らはただ哀れなだけです。もうこの島に戦う力はない。どうか、慈悲を与えてやってください」

 ディオンの身体の下に腕を入れ、抱き起こす。大きな身体を苦労しながら、それでもなんとか抱いて彼は立ち上がった。

「始祖の遺産もみな、あなた方にゆだねます。だが、この男だけは渡さない。敗者として首を晒されるなど耐えがたい。それだけは、あきらめていただきますよ」

 止める暇はなかった。もしかしたらイリスは気付いていたのかもしれないけれど、動かなかった。私は開いた口から声も出せず、宙に身を踊らせる彼を見つめるしかなかった。

 ディオンを抱いて、デュペック候は湖へと落ちていく。斜面の向こうに姿が消える。イリスが私を抱きしめた。彼の胸に顔をうずめて、私はひたすら泣いた。悲しくて、悲しくて、かなしかった。

 私が落ちつくまでずっと、イリスはなで続けてくれていた。私たちしかいなくなった山頂に、やがて光が下りてくる。雲の間から太陽が現れていた。顔を上げた私の頬をイリスがぬぐってくれる。そのまま口づけられて、私も応えた。もう一度こうしてたしかめあうことができて、穏やかに喜びが戻ってくる。まだ残っていた悲しみが、最後のひとしずくとともにこぼれ落ちていった。

 イシュちゃんが戻ってきて近くに降りる。私たちは立ち上がった。空に癒しと鎮魂の歌が響きわたる。見上げた先に白い神がいた。歌いながら、龍はゆっくりと遠ざかっていく。

 代わりに近づいてくる影があった。優美な船が三艘、並んでこちらへ向かってくる。イリスに肩を抱かれ、私は迎えを待った。たいせつな人たちの姿が見える。白い帆の下には美しい人が、緑の船には若く真面目な人が。そして中央には父と友が。みんなが私たちを迎えに来る。

 地上から悲しみは消えないけれど、希望と幸せを見つけていくこともできる。戦いの歴史をくりかえしながら、同時に人は愛の歴史もくりかえしていく。そうして続く長い道のどこかで、いつかまた彼らと出会うことができたなら。

 愛する人たちとはまた愛し合い、戦った人とも次は友達になりたい。

 そんな未来が来ることを、消えゆく神に願った。






 ――そして、遠い道の先で。






 頬にふれるものを感じて、彼は目を覚ました。ひんやりとしたものがくすぐっていた。水気を含んだ少し青くさい匂いを間近に感じる。正面には澄んだ青空が広がっていた。

 彼はゆっくりと身体を起こした。そこは花の咲き乱れる草原だった。明るい日差しに照らされて、世界が喜びに輝いている。

 ここはどこだろう。なぜこんなところに寝ていたのだろう。

 ぼんやりとした頭で考える。前後がわからなかった。いつここへ来たのか、どうやって来たのか思い出せない。でもこの景色にはどこか見覚えがあった。遠い昔母に手を引かれ、歩いた場所ではないだろうか。遠くを見回せば、たしかに知る森と川が、山があった。

 これは、夢だろうか?

 自分はたしか死にかけていたのではなかったか。あれほど重かった身体が、嘘のように軽くなっている。苦しさもない。今なら走ることもできる気がした。

 もしかするとすでに死んで、なつかしい時間を夢見ているのだろうか。それなら母はどこにいる? 兄は、父はいないのか。夢の中でまでひとりだなんて、ひどいではないか。

 人の姿をさがしていた彼の耳に、甲高い声が聞こえてきた。はしゃぎながら近づいてくる。幼い子供たちが草原を駆けてくる。まだ十にもならない少女と、さらに年少の男の子だ。ふたりは姉弟だろうか、よく似た明るい茶色の髪をしていた。

 花の上にぼんやりと座る彼に気付いて、子供たちが寄ってきた。弟は人見知りなのか、姉の背中に隠れている。反対に少女は大きな瞳に好奇心をいっぱいにうかべ、彼を覗き込んできた。その顔が知った少女の姿に重なる。よく似ていた。彼女より髪も瞳も淡い色で、表情はまったく違うけれども、顔だちはそっくりだった。

「王子さま?」

 可愛らしい声が彼に尋ねた。

「お母さまのお話に出てくる王子さまみたい。きれいね」

「きれい?」

 首をかしげる彼に破顔する。

「きれい! お花の王子さま、ごきげんよう」

「……君はどこの子?」

 彼の素性を知って言ったわけではないらしい。無邪気な少女に尋ねれば、少しずれた答えが返ってきた。

「お船で来たのよ。ここはお母さまのたいせつな場所なんですって。さみしがりやの王子さまがいるのよって、いつも言ってらしたの。王子さま、さみしい?」

「……どうかな」

 遠くに人影が見える。こちらへ歩いてくる。

「もうさみしくないのよ。わたしたち、王子さまに会いにきたんだから」

 足元の花をつんで少女が差し出してくる。軽く笑って彼は受け取った。無邪気な優しさがうれしく、可愛らしい。

 声が聞こえる。子供たちを呼んでいる。気付いた少女がふりかえって手を振った。

「お母さまー! こっち、こっち! 王子さま見つけたの!」

 予感があった。記憶にあるよりずいぶん大人びて、髪も長いけれど、たしかに彼の知っている人だった。向こうも彼に気付いて驚きを浮かべる。黒い瞳にみるみる涙があふれた。

 どうやら死者の国とは、少し違うみたいだ。

 彼は苦笑して立ち上がる。どうして彼女は自分を置いて大人になってしまったのか、いつの間に子供ができたのか、聞きたいことはいっぱいあるけれど。

 今はまず、彼女の涙を止めさせよう。見上げてくる少女に気づき、手を出してみればためらいなくつないでくる。その背中にくっついた弟も連れて、彼は足を踏み出した。




                    ***** 第十部・終 *****

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