11
ゆらり、ゆらゆら。
ふわり、ふわふわ。
白いまどろみの中で、心地よい波に身を任せる。
生まれる前のあたたかな海に私はいた。ここはどこよりも安全で、どこよりも幸せな場所。つらいことなど何ひとつなく、悲しみを知ることもない。
……かわりに、泣き出したいほどの喜びもなかったけれど。
ただ穏やかで優しいだけの世界はどこまでも心地よく、そして寂しかった。なぜさみしいの? これほど幸せなのに。私は足りない何かを求めて目を開く。それはふたたび生まれ出るということ。たゆたう波から顔を出し、外の世界を見る。
青い、空が広がっていた。どこまでも広く真っ青な、明るい昼の空だ。視線を下げれば雲の海に長い影が落ちていた。空のとても高い場所をかなりな速度で飛んでいるのに、不思議と強い風を感じることはなく、寒さに凍えることもない。
雄大に泳ぐ龍の背で、私はぼんやりと雲の海を眺めていた。ふと、その下に何かがいるように感じられた。音が聞こえる。低くうなっている。海の中に何がいるのだろう。どこかで聞いた音の主を見たい。そう思う私に応じて、龍は雲海へと身をもぐらせた。
近くなる音に、なつかしさよりも不安を感じる。どこでこれを聞いたのだっけ。とてもつらい記憶と隣り合わせになっている気がする。脳裏に戦場の光景がよみがえる。多すぎる命が失われた、あの戦いはどこであったもの? 私は知っている。覚えているはずだ。
思い出したくない。でも忘れたままはもっとかなしい。逃げてきた場所を記憶から拾い上げ、なつかしい人たちの顔を思い出す。
ああ……。
こぼれ落ちた涙が空へ吸い込まれていった。私は、すべてを捨ててきてしまった。あれほど頑張ったのに、途中で投げ出して。優しくしてくれた人たちを置き去りにし、あの世界に背を向けてしまった……。
最後に見たのは誰よりも好きな人。無事だったんだ。よかった。でも私を引き止めようと懸命に追いかけてくれたのに、思い出せないまま別れてしまった。
深い後悔と喪失感に涙が止まらない。龍が小さく啼いて、もう忘れなさいと私をなぐさめた。いいえ、忘れられない。忘れたくない。どんなにつらくても、大切な記憶なのだから。
ここはどこなのだろう。あの世界とは別の場所? この雲の下には、どんな世界が広がっているのだろう。
ひきかえすことは、できないのだろうか。もう一度、あの世界へ。龍は望めば連れて行ってくれるだろうか。
雲が切れる。遥か下界に紺碧の波が広がっている。そして、空と海の間には。
悠々と空を泳ぐ龍に比べれば、それは小鳥のように小さかった。けれど距離が近づけば鳥よりもずっと大きなものだとわかる。
一瞬、またあの世界に戻ったのかと思った。記憶の中にあるものと、あまりにもよく似ていた。けれどすぐに違うとわかる。あの世界の資源や技術でなんとか作り上げたものは、しょせん粗悪な模倣品でしかなかったのだとオリジナルを見て知った。時代を感じさせる古いフォルムながら、その造りは精巧だ。日本人の知恵と技術が生み出した傑作に、日の丸が誇らしげにペイントされている。
十数機の編隊を組んで彼らは飛んでいた。あんなものが現実に空を飛んでいるなんて、ここは本当にどこなのだろう。少なくとも、私の存在していた時代の日本ではない。過去の世界なのだろうか。それともよく似た別の世界……?
龍の出現に向こうも気付いたようで、編隊に乱れが生じていた。うちの一機が好奇心なのか、こちらへ近づいてくる。高度を下げる龍と接近し、パイロットの姿がはっきり見えるほどにまでなった。
驚きのあまりかゴーグルをはずしてこちらを凝視している。まだ若い顔。私の姿を見つけ、さらに目が見開かれる。
驚愕に操縦を忘れたのか、危険なほどに近づいていた。このままではぶつかる。思い出したのは、沈んでしまったあの船のことだ。逃げてと、叫ぼうとしたのだけれど。
その間もなく両者は間近に迫り、衝撃を覚悟して身を縮めた瞬間、ふたたび世界が白く輝いた。
……どれだけの時間が流れたのだろう。
ほんの一瞬のようにも思えるし、百年眠っていたようにも思えた。目を覚ました時、そこはもう空ではなく、緑豊かな大地の上だった。
花の咲く草原に龍はゆったりと寝そべっていた。あらためて巨大で、長大な生き物だと感心する。とぐろを巻かない身体は延々と草原の上に伸びて、尻尾の先はちょっと走ってもたどりつけそうにない。龍というと日本や中国の伝統工芸にある姿を思い浮かべるが、それとは少し違った。手足はないし、麒麟の角もない。どちらかというと魚に近いかもしれない。たてがみの代わりに背びれを持ち、胸びれも両サイドにあった。鑑賞用の金魚みたいにひらひらしていて、半透明な白に淡い虹色が複雑に混ざり合っている。そっとなでてみればシルクの手触りだ。
顔のあたりは蛇に似ているかも? といっても先の割れた舌を出したりしていないし、大きな目に瞳孔はなく吸い込まれそうな青色をしていた。まるで宝石がはめ込まれているようだ。
小鳥がやってきて、おそれげもなく龍の身体にとまる。うるさげに追い払うこともせず、龍は静かに目を閉じた。
私は抱いていた少年を思い出し、自分の手元を見下ろした。静かすぎるのにひやりとするが、顔を寄せてよくよくたしかめてみればかすかに呼吸を感じ、肌にはぬくもりもあった。
……よかった。まだ生きている。
そっと揺すってみてもリシャールは目を開けない。大丈夫なのだろうか。龍の顔を見ても、目を閉じたきり何も反応してくれない。
私はもう一度周囲を見回した。ここは人のいる土地だろうか。医者はいる? リシャールを癒す手だてはあるだろうか。
広々とした草原に、森と川と青い山。どこまでも広がる大自然は美しかったが、人の痕跡をかけらも見つけられないのに不安を覚えた。目の前にあるのはまるきり手つかずの原野に思える。私は龍の背にリシャールを残し、思いきって地面へ下りてみた。人の身長よりも高い場所から滑り下りるのはちょっと怖かったけれど、目を閉じたまま龍がひれを動かして助けてくれた。薄絹の飾りみたいなのに私の体重をかけても平気なようで、優しく地面に導かれる。私は龍の身体をなでてお礼を言い、花の絨毯に踏み出した。
日差しはやわらかく、頬をなでる風はひやりと涼しい。春の早い頃みたいな気候だ。深く息を吸い込むと、爽やかな大気と花の香りが心地よい。森の手前に流れる川と遠くにそびえる山を見ていると、妙に既視感を覚えた。この風景、初めて見るのにどこかなつかしい。
龍の頭をぐるりと周り、向こう側に出てみる。そこで驚いた。草原の上に一機の小型飛行機が転がっていた。車輪を出さず胴体部分を直接地面につけている。正常な着陸ではなかったことがうかがい知れた。
翼に日の丸がペイントされていた。ほんの少し前、あるいはうんと昔、空の上で出会った飛行機だと気付く。龍の転移に巻き込まれたんだ。私は飛行機に駆け寄った。パイロットは無事だろうか。コクピットを覆うカバーは半開きになっている。のぞき込んだ場所に、人の姿はなかった。
……先に目を覚まして、どこかへ移動した?
周囲を見回してみても人の姿はない。私は思いきって声を出してみた。「おーい」と精一杯声を張り上げて、どこかに聞く人がいないか期待する。
何度かくりかえし、しばらく待って――けれど応える声も、戻ってくる姿もなかった。
パイロットはどうなってしまったのだろう。まさか、転移の際に弾かれて海に転落したとか? 思いついてしまった想像にぶるりと震える。そんなことになったら生きてはいられない。どうか無事でいてほしいと思ったが、たしかめるすべはない。どうしようもなかった。
ため息をついて飛行機から離れ、龍の方へ戻る。ふと気配を感じて目を向けると、獣の姿があった。大きな姿にちょっと驚く。枝分かれした立派な角を持っていた。少し離れた場所からこちらを見ている。トナカイ? いや、トナカイはあんなウェーブした長い毛ではなかったような。でも橇を引けそうなくらい大きな身体をしている。見知らぬ人間――というより龍に好奇心を抱いて、近づいてきたようだ。
そばまで寄れるだろうか。そう思った時、獣は不意に首を動かした。別の場所を見たかと思えば、くるりと背を向けて駆け去ってしまう。何か来たのだろうか。危険な獣かと警戒する私の耳に、草と大地を踏み分けて近づいてくる足音が聞こえた。
これは、獣の足音じゃない。
胸が音を立てた。パイロットが戻ってきたのだろうか。無事だった? よかった!
けれどすぐに違和感をおぼえた。これはどうも、一人や二人ではないようだ。大勢の人が近づいてきているらしい。いくつもの足音と物音、そして話し声も聞こえてきた。男女の声が混じっている。地元の人たちだろうか。
龍を振り返れば、目を閉じたまま身じろぎもしていなかった。人が見つければさぞ驚くだろうに、知らん顔をしている。危険はないということか。なんとなくわかる。もし危険があるなら、龍はすぐに私を呼び戻すだろう。龍は私にとって親、あるいは自分自身のようにも思えた。ともに転移することで私は龍と同化し、龍の一部となっている。言葉を交わさずとも互いの意志は明確に伝わる。龍が危険はないと判断し、私もそれに安堵した。
龍のそばに立って、やってくる人たちを待つ。やがて坂を上り姿を現した人々は、草原にたたずむ巨大な生き物に驚きの声を上げた。
いろんな色の髪を持つ人々だった。日本人ではない。私には言葉の壁はないから、彼らの話している内容はわかる。逆に、彼らが何語を話しているのか知ることはできない。
……ここは、どこなのだろう。彼らから聞き出さないと。
離れた場所で足を止め、驚きと怯えの目を向けてくる人々に向かって踏み出した。すると向こうからも一人が進み出て、足早にこちらへやってきた。
近づいてくる顔に私はおやと思う。たぶん四十代から五十代の男性で、真っ黒に日焼けしていたけれど、よくよく見れば東洋的な顔だちだ。髪は黒い。すぐそばまで来て、目も黒いとわかる。がっしりした体格だが、意外と背は低くて百七十センチもなさそうだった。
足を止めたその人は、驚きに言葉を失ったようすで私と龍、そして地上に横たわる飛行機を見回していた。身なりはあまりいいとは言えない。荒い織りの貫頭衣を数枚重ね、帯で締めている。足元には革で作られたブーツ……というより、厚手の靴下のようなものを履いていた。抜け落ちないよう紐で足にくくりつけられている。
初めて会う人のはずなのに、向かい合っていて不思議な親しみを感じた。とてもよく知っている人のような気分だった。向こうもそうだったのかもしれない。驚愕から少し立ち直った顔がまた私を見据え、なつかしげな声を出した。
「君は……あの時の天女か」
――私に言葉の壁はない。龍の加護によってどんな言語も意味を理解できる。けれどこれは、そのまま日本語に聞こえた。
目をまたたく私に、その人はさらに言う。
「消えたと思った零式が……これはどういうことなんだ。秋津島を出て、遠い北の果てで今頃ふたたびめぐり会うとは思わなかった」
秋津島……?
今、たしかに彼はそう言った。それは日本の別名だ。けれどもうひとつ、その名をつけられた土地を知っている。シーリースと呼ばれるより以前、島に初めての国を作り上げた王が名付けた。おそらくは、故郷をなつかしんで。
この、人は。
「今また私の目の前に現れたのは、なんのためだ? まさか、迎えなのか? 今さらだ――日本へ帰る道はとうの昔にあきらめた。今頃帰してやると言われても遅すぎる。私はもう、帰る気はない」
日本……はっきりと、そう言った。この人は、やっぱり。
「瀬戸さん……? 瀬戸久通さんですか?」
おそるおそる口を開いた私に、その人は軽く目をみはった。
「ずいぶん久しぶりに聞いたな。私の本名を知っている君は、何者だ? 天女なのか、それとも妖怪か何かか?」
ああ……。
どういうことなのか、私は理解していた。そうか、あれは――空で出会ったあの人は、祖王だったのだ。
彼が故郷を失い見知らぬ異世界へ迷い込んでしまったのは、私との――私たちとの出会いのせいだった。ともにこの世界へ転移してきて、でもどこかで彼だけがはぐれてしまった。瀬戸さんが落ちたのは同じ世界の過去。祖王として活躍し、やがて島を追われ、たどりついた先でふたたび私たちとめぐり会った。私にはついさっきのことなのに、彼の身には何十年もの時間が流れている。
ここは、最初に私が流れ着いた時代より遥か昔の世界なんだ。同じ国の生まれという以外なんのつながりもないと思っていた祖王が、実は深くつながる相手だった。以前の私とはつながらず、今はつながっている。前後する時間の複雑さに混乱しそうになる。
「日本人か? 西洋人みたいな格好だが……」
瀬戸さんはけげんそうに私を観察している。あの時代の女性って、どんな服装をしていたっけ。洋服はもう一般的に着られていて、珍しくなかったはずだけれど……こちらの世界で仕立てられた服は少し古めかしいドレス風だから、日本人としてはおかしいのかな。
「私は、日本人です。佐野千歳といいます」
私の返事に瀬戸さんは当惑するようすだった。視線を背後の龍へ移し問う。
「なら、その不思議な生き物は何だ? ここへ来てから何度か聞かされた龍のようだが、私が知る龍の姿とは大分異なるな」
「私たちの世界の龍と同じかどうかはわかりませんけど、これも龍ですよ。この世界では神様のような存在です」
「神……」
瀬戸さんは龍を見つめた後、しばし目を閉じてふたたび私に視線を戻した。
「なるほど、そうかもしれないな。私をこんなところにまで連れてきた不可思議な存在だ。ごちゃごちゃ考えるよりも、神で片づけてしまった方が簡単だ……ずいぶん不親切な神だが」
苦笑の混じる言葉に私はどう答えたものか迷った。
別に、わざと巻き込んだわけではないし、衝突しそうになったのは瀬戸さんが操縦を忘れたせいでもある。龍もまさか狙ってあそこへ出たわけではないだろう。けれどやけに申しわけない気分になってくる。
「ここは、日本がある世界とは別の次元です。異世界って言って、わかりますか?」
「ああ。おそらくそういうことだろうと思っていた。ここには月が三つもある。どれほど遠い未開の地へ行こうとも、そんな景色を見ることはなかったろうからな」
瀬戸さんは空を見上げた。まだそれほど高くない場所に白く小さな月がある。山の端には、昇ったばかりの月が。姉月と妹月だ。姉月が沈む頃になると、弟月が昇るのだろう。
「この世界に日本は……私の家族たちは、いないんだな」
「……ええ」
年月を刻んだ顔にさみしさがよぎったのは束の間だった。彼は大きな感情を見せることはなかった。もうそこについては、瀬戸さんの中で決着がついているのだろう。あきらめたと言っていた。私にはついさっきのことでも、瀬戸さんにとっては何十年も昔のことだ。その時間の分、失ったものも得たものもあるのだろう。
「……恨んでいますか? 私たちを」
私の問いに、瀬戸さんは静かに首を振った。
「そんな時もあった。なぜ自分がこんな目に遇わなければならないのかと、絶望した時もあったよ。だがもう、昔の話だ……それに、あのままでも私に未来はなかった。これから死に行こうとしていたのだからな」
瀬戸さんの目は花咲く草原に横たわる飛行機へ向けられている。あれに乗って編隊を組んで、どこへ行こうとしていたのか。時代を考えれば、おのずと答は出る。
「往路の分だけ燃料を積んで、敵艦へ突入する予定だった。お国のために散るのだと、友や両親と別れ飛び立ったんだ……だが目的も遂げられず、ひとり見知らぬ場所に迷い込んでしまった。もしや本国では逃亡したと思われているのではなかろうか、そのせいで家族がつらい目にあってはいないかと、それだけが気がかりだったが……何十年も経って、そろそろ両親も他界している頃だ。もう気にしてもしかたがないと忘れることにしたさ。そういえば、日本はどうなったのか君は知っているかい? 勝ったのだろうか」
私はだまって首を振った。瀬戸さんの顔が悲しげに沈む。もう一度、首を振って言う。
「戦争には負けました。もともと無理な戦いだったんです。でも、その後とてもよい時代を迎えました。焼け野原から立ち上がった人々が懸命に国を立て直して、世界トップクラスの経済大国へと生まれ変わらせてくれたんです」
「経済大国?」
瀬戸さんはよくわからないという顔をする。どう言えば伝わるだろうか。自分の中にある言葉をさぐり、できるだけあの世界の未来を教える。
「戦後すぐは苦しかったそうです。食べ物がなくて大変だったとか。でもアメリカに支援され、日本人も必死に頑張って復興しました。その後さらに発展して経済力をつけて、豊かな時代になったんです」
「米国が支援? まさか、そんな」
「本当ですよ。私は終戦から五十年以上後に生まれたので、当時のことは直接知りません。でもそういうことがあったとは聞いています。敗戦しても日本は日本のままで、天皇制も存続しました。新しい憲法が作られ、新しい時代を迎えました。今の日本はとても自由で平和です。たとえば政府の批判を口にしても逮捕されることはない。殴られたりもしない。軍隊に代わる組織はありますが、徴兵制はありません。アメリカとも友好関係にあります。アメリカだけでなく、世界中のいろんな国と交流していました。イギリスやフランス、ロシアとも」
「…………」
かつての敵国と交流していると聞かされて、瀬戸さんは言葉を失っていた。当時の認識を持ったまま聞いて、受け入れられる話だろうか。目を閉じ深く息を吸い込んだ瀬戸さんは、言葉とともに吐き出した。
「そうか……そうだな。あれから三十年経ったんだ。私が変わったように、日本も変わったのだろうな」
三十年――ひとりでこの世界に落ちてきて、それほどの時間を過ごしたのか。
瀬戸さんは離れた場所で見守る人々を振り返り、軽く手を振った。大丈夫という合図だろう。そのまま草の上に腰を落とす。膝を立てて座る彼の隣に私も腰を下ろし、並んで風景を眺めた。
まだ驚きながらも、龍が危険なものではないと理解したのだろう。人々は同じようにその場で休みはじめた。荷物をほどき、お弁当らしきものを取り出す人もいる。老若男女、さまざまな人がいた。はじめにやってきたのは数十名の集団だったが、その後からも続々と人が到着した。全体でどれだけの数になるのだろう。草原に人の姿が増えていく。
「平和で自由か……そうだな、それがいちばんいい。戦って勝っても結局は恨みと憎しみだけが残ると、嫌になるほど知った。日本は戦争を終わらせ、いい時代になったんだな」
「はい」
こちらの世界へ来てからも、瀬戸さんは戦い続けてきた。その果てにこの地へやってきた。ここはエランドなんだ。今はおそらく夏で、雪がないからわからなかったけれど、その気で見回せばたしかにわかる。地上の景色は変わっても山の形は変わらない。遠くにそびえるあの山は、王宮の窓から見たものと同じだった。
新天地にやってきた人々の顔には、不安と期待が入り交じっていた。ここで生きていけるだろうか。ここなら生きていけるだろうか。まだ何もわからない、手さぐりの状態だ。
「ここにも、そんな国を作りたいな……もう戦わない。平和で幸せな国を作りたい。できるだろうか」
うなずこうとして、私はためらった。エランドの未来を思うと、簡単にうなずいていいのかわからない。けれどひとつだけ教えたいことがあった。
「あの子がわかります? 龍の背で眠っている子……あれは、あなたの子孫です」
リシャールを指さして言えば、瀬戸さんは不思議そうな顔になった。
「私が流れ着いたのは、ここより何百年も先の時代でした。この島にはちゃんと国ができていて、始祖の末裔が残っていました。あの子がそうです。あなたの遠いとおい未来の子供です」
瀬戸さんが立ち上がり、リシャールの顔を見上げる。同じく立ち上がった私は、彼が穏やかに微笑んでいるのを知った。
「子孫か。そう言われても、まるで実感がわかないな。息子たちとは全然似ていない。日本人の面影などかけらもない……それほどに代を重ねて、この島で生きていったんだな」
そうか、とかみしめるように彼はつぶやいた。
「我々は、ここで生きていけるんだな。何百年先にまで子孫を残せるほど、しっかりと根付いていけるのだな」
「はい」
その道は易しくなく、これから彼らは大変な苦労をすることになるだろう。きっと瀬戸さんにもわかっている。それでも、彼は微笑む。
「ありがとう。希望が持てるとわかって、よかった。この先も頑張ることができるよ」
「瀬戸さんは、もう日本へ帰る気は全然ないですか? もしかしたら帰れるかもしれませんよ。三十年後の日本ではなく、元いた時代に」
世界を越える時、時間の流れは無効となる。過去にも未来にも行ける。それを示しても、瀬戸さんは首を振った。
「できることなら両親には会いたいと思うが……こんなに歳をくって戻ってきたら、驚いて卒倒しそうだな。三十年後の日本にも戻りたいとは思わない。ここにも大切なものがたくさんできた。妻も子供たちもいる。友もいる。私を信じて多くの人がこんな北の果てにまでついてきてくれた。彼らを捨てる気はない。私はこの島に骨を埋めるよ」
「争いばかりの世界に嫌気がさしませんか? どんなに頑張っても次々つらいことが起きる。人は殺し合う。なにもかもが嫌になりませんでしたか?」
瀬戸さんは私に視線を戻し、優しい顔で頭をなでてくれた。
「そうだな、生きていればつらいことや嫌なことばかりだ。頑張った分だけ見返りがあるわけでもない。なんのために生きているのかと思うこともあったよ……だがきっと、どこにいても同じだ」
私より長く生きて、私より多くのことを経験してきた人は言う。
「君の生まれた時代には戦争がなく、平和で自由だったんだな。だが人間が集まり暮らす社会である以上、何かしらの問題はあったはずだ。別の形で悲しみも苦しみもあっただろう。人間というのは、実に愚かな生き物だ。私もたくさん間違え、失敗してきた。私のせいで苦しみ悲しんだ者もいる。そうやって互いに傷つけ合い、一方では愛し合い、護ろうとする。矛盾した生き物だ。そういうものだと、受け入れるしかないんだろうな」
龍の声が響いた。青い目が開かれ、私たちを見ている。首をもたげてもう一度啼く。呼んでいる。私に、もう行こうと呼びかける。
大きな手が背中を押した。
「つらいことがあっても、投げ出さずに頑張り続けなさい。耐えきれないほどつらい時は、誰かになぐさめてもらうといい。人はそうやって生きていくんだ。どこで生きようと、苦労から逃れることはできない。だが苦労だけではないよ。幸せもたくさん見つかるさ……行きなさい」
優しく送り出されて龍のそばに戻る。虹色のひれが私を抱き上げる。ふたたび背に戻った私を、瀬戸さんは手を振って見送ってくれた。
「もう一度会えてよかったよ。希望をくれてありがとう。君は君の生きるべき場所で、愛する人と未来を作っていきなさい――元気でな」
大地から離れ、龍はふわりと空へ泳ぎだす。私も手を振って応えた。
「ありがとう――瀬戸さんも、どうかお元気で」
「ああ。私の子孫が目を覚ましたら、先祖はいい男だったと伝えてくれよ。さようなら」
さようなら――奇跡の出会いに精一杯の笑顔でお別れして、空の高みへと昇っていく。龍の歌声が島中に響きわたり、すべての命に祝福を与えた。やがて白い輝きに何も見えなくなり、きっと二度と会うことはないと悟る。でも私は知っている。あの人が切り拓いた大地に人々の暮らしが根付き、多くの子孫が生まれていくことを。この島で新たな国が作られていくことを。
戻ろう。あの時代へ。私は龍に語りかけた。逃げてきてしまったけれど、私はあそこへ戻りたい。つらくても悲しくても、あそこで生きていきたい。愛する人のもとへ戻りたい。
彼とともに、生きていくのだ。
世界が変わる。昼から夜へ、夏から冬へ、いくつもの景色が現れては消えていく。早送りの映像のように、さまざまな景色が見えた。一面の砂漠が続いているかと思えば、真っ赤な溶岩を噴き出す山があり、岩の柱が無数にそびえる場所もあった。明らかに故郷ともシーリースの世界とも異なる、第三の異世界らしい場所もあった。宙に浮かぶ岩山をすり抜けてさらに跳ぶ。くるくると変わる景色に目が回りそうだ。龍は時間と世界を越えて飛び続ける。
もう何度目かもわからない転移の果てに、夜の世界に飛び出した。空の星が見づらいほどに、地上がとても明るかった。無数の光があふれている。長く伸びる光の川は道だろうか。車のランプが流れている。とてもよく知る光景に、胸が大きく踊った。
遠くまで見渡せば、高くそびえる光の塔がある。先端が尖るあの塔は――あれは――
少し離れた場所には、新しく造られたさらに高い塔もあった。海の方を見れば、大きな橋に観覧車――あまりにもなつかしい景色が目の前にある。
動揺せずにいられない。あれほど帰りたいと思った世界だ。この光の海の中に生まれ育った町がある。家族がいる。望めば帰れる。
涙があふれた。帰りたかった。会いたかった。ここまで来て、なのに無心に駆け戻ることができず胸が痛い。ごめんなさいと、何度も家族に謝った。帰らなくてごめんなさい。ひどい娘でごめんなさい。かなうことならこの身がふたつに分かれて、半分で帰れたらいいのに。
でもそうしたら、きっと帰れなかった場所を思い、どちらの半分も悲しみ続けるのだろう。私は選ぶしかない。ごめんなさい、もう帰れません。私はあそこで生きていくと決めたの。ふたたびこの世界から離れることを、どうか許してください。
遠ざかるなつかしい景色に背を向けて、前だけを見る。胸が引き裂かれそうでたまらなかったけれど、ここで止まろうとは思わなかった。私はあの世界へ帰る。強く自分に言い聞かせる。
消えゆく景色に最後の涙を残し、時空を跳び越えた。あの人への想いを道しるべに、戻るべき場所をしっかりと意識する。待っていて、帰るから。差し伸べられた手を取るために。
抱きしめていた腕の中の存在が、不意に消えて驚いた。リシャールがいない。なぜ!? あわててさがす間にもまた世界が変わる。待って、リシャールがいないのに! はぐれてしまった。時空のどこかに、あの子を落としてきてしまった。
なんてこと……!
龍をなじりたくなる。どうしてリシャールを落としてしまったの。どうして助けてくれなかったの。
けれど返ってきた意識は、そうじゃないと言っていた。リシャールを見失ったのではなく、助けるためなのだと。あの子にとってもっともよい場所へ向かわせたと龍は言う。どういうことかと混乱した。
心配しなくていい、大丈夫だと龍は私に言い聞かせる。つながる意識に流されそうになる。でもどこへやったというの。たった一人で時空のどこかに落ちて、それでリシャールは救われるというの。
竜が意識を流し込んでくる。言葉ではない、風景の記憶だった。
……リシャールがいた。歩いている。自分の脚で立って、危なげなくしっかりと歩いている。
これはいつの記憶? 痩せた身体はそのままでも、ずいぶんと元気そうに見えた。小さな女の子と手をつないでいる。優しく、微笑んでいる。
これは本物の風景なのだろうか。ただの幻ではなく、現実にある風景? このとおりに、リシャールは元気になれるのだろうか。どこかで幸せになれるのだろうか。
龍はそうだと答える。リシャールはちゃんとあの島へ帰れる。今度は幸せに生きていくと。
今の私には、それを信じるしかすべはない。どうか本当であってと強く祈った。もうさみしい思いをすることなく、彼が幸せになりますように。
……いつか、また会えますように。
龍はさらに時空の先へと向かう。私はリシャールの無事を祈りながら、振り落とされないよう身を伏せた。
やがて現れた景色は――
「どうして……」
無意識にこぼれた声が、乾いた風に流されていく。風にはひどい臭いが混じっていた。煙と煤の臭い、そして金臭い……これは、血の臭い。
町が燃えていた。あちこちから煙があがり、赤い炎も踊っている。その中を逃げまどう人々の姿があった。それを追い、襲いかかる者の姿も。
美しかった島の景色は一変していた。そこは戦場だった。海から揚がってくる軍と島の軍がぶつかり合い、死を生み続けている。
これは、いつの時代?
遠くなりそうな意識を懸命につなぎ止める。悠長に気絶している場合じゃない。今がいつなのか、誰と戦っているのか、それをたしかめないと。
海に無数に浮かぶのは、見知らぬ異国の船だった。シーリースの船はいない? あちこちを見回して、遠くに龍船があるのを見つけた。白い帆と緋色の帆、そして鮮やかな黄緑の帆。三国の龍船がそろっている。周囲を飛び回る竜の姿もあった。地上へ視線を下ろせば、少ないながら地竜もいる。
どうなっているの……。
和平を結んだのではなかったのか。あれから何があったの。どうしてこうなったの。なぜ彼らは戦っているの。
ふるえる手をにぎりしめる。行かなくては。この戦いを、止めなくては。
「……お願い、行って」
私の意を受けて龍は身をくねらせる。空を泳ぎ、もっとも戦闘の激しい場所をめざす。
沖の方で爆音が聞こえた。島に残された戦闘機が、異国の船を攻撃していた。




