9
静まり返った廊下を、足音を忍ばせて進む。こんな時間に部屋から出たのは初めてなので、警備がどうなっているのかわからない。巡回の兵士に出くわしたりしないことを祈ったが、もともとここは人の少ない王宮だ。昼間でもひっそりとしているくらいなので、深夜の廊下は完全に無人だった。
イリスをともない、私はリシャールの部屋をめざす。ついさっき聞いたばかりの話に、胸が乱れておさまらなかった。
「ヘレドナ? あれは眠り薬でしょう? 別に眠くはならなかったけど。毒とか、どういうことなの」
真剣な顔をしたイリスが嘘を言っているだなんて思わない。でも信じたくなかった。リシャールはあれを薬だと信じていた。気休めと言いながらも毎晩寝る前にちゃんと焚いていた。彼のためにデュペック候が持ち帰ったものだという。でもそれが、元気になるためではなく彼の命を縮めるためだったなんて、考えたくもない。
だけど……本当に、毒なのだとしたら。
リシャールへの関心の薄さ、愛情や忠誠心を見せなかったデュペック候の姿が思い出される。本当に彼が、リシャールを殺そうとしているのだろうか。
「おちつけ」
イリスは私の頭を軽く叩き、そのまま背中をなでた。
「香として使われていたんだな? 焚いていたのか」
「……ええ」
そうか、と息を吐く。
「なら、間違いない」
厳しい顔でイリスは断言する。
「前に密造工場を摘発したことがあるんだ。犯人どもが苦し紛れで種を燃やしてね、こちらにも少し被害が出た」
「種……ってことは、ヘレドナは植物なの?」
今まで何度か名前を耳にしていたけれど、そういえば何から作られるものかは知らなかった。いまさらにたずねると、イリスはうなずく。
「ああ、毒草の一種だよ。根にも葉にも毒を持っていて、それらから抽出されたものが君の知ってる薬になる。眠り薬と言ったけれど、それは微量の場合だ。基本的にあれを飲んだら死ぬよ」
「……私、連れてこられる途中でヘレドナを使われたみたいなんだけど」
思い出して言うと、イリスの身体にびりっと怒りが走った。私はあわてて言い添える。
「眠らされていただけよ。襲撃の実行犯はキサルスの軍人らしいわ。裏でデュペック候が糸を引いていいて、当人たちはそれと知らずに踊らされていたの。で、あの山小屋で殺された……」
「……そうか」
殺気の浮かぶ瞳が怖い。私はイリスの袖を引いて話を戻した。
「種を燃やすと毒になるの?」
「ああ……」
殺気をやわらげてイリスは説明してくれる。それによると、ヘレドナは種にも毒を持つそうだ。全体が毒だらけのとんでもない凶悪な植物である。でも花はとても美しく、知らずに育てて中毒患者が出る事故がまれに起こるのだとか。
「種の毒性は根から抽出したものほど強くない。一粒二粒なら、直接食べても腹をこわす程度で済む。燃やすと有毒な煙を出すんだが、よほど大量に吸い込まないかぎりいきなり倒れるようなことにはならない。けど、少量ずつでも長期間吸い続けると徐々に身体が弱ってやがて死に至るんだ。暗殺……それも、家族など身内が犯行におよぶ時に使われることが多い」
時間をかけて病死に見せかけるための毒なのだ。だから使いたがる人間が多い。多くの国で栽培が禁止や制限されており、摘発されれば重い罪に問われる。それでも密造者が絶えないらしい。
私は足から力が抜けそうな思いだった。
「……間違いないのね? 本当にヘレドナの匂いなのね?」
考えるようすを見せながらも、イリスははっきりとうなずいた。
「たぶん。実物を確認できればもっとはっきりわかるんだが」
「確認して。リシャールを助けて」
「リシャール?」
いぶかしむ彼に私は急いで説明した。エランド王族最後の生き残りである王子が、この城の奥にいることを。ひどく弱っていて、ほとんど部屋からも出られない状態なのだと。これまで皇帝と信じていた相手が実は影武者だったと知ったイリスは驚いていたが、リシャールを助けてほしいという私のお願いに真剣な顔でうなずいた。
「それは、かなり重要な人物だよ。単純な人助けの話じゃない。戦や今後のことに大きく関わってくる。死なせるわけにはいかないな」
シーリースの立場としては、リシャールが可哀相だから助けるのではなく、利用できるから助けるということになる。人の命をそんなふうに計算するのはいい気分ではなかったけれど、今はリシャールが助かるならなんでもいい。手遅れになる前に、あの子をここから連れ出さないと。
私とイリスの意見は一致し、リシャールを連れて脱出することになった。本人がそれを受け入れてくれるかが問題だけれど、説得するしかない。私はイリスを連れて、慎重に城の奥へ向かった。
一生懸命足音を忍ばせて歩く。幸いなことに廊下に人の気配はない。奥との仕切りの扉を開く時、大きな音を立ててしまわないようひやひやしたが、どうにか誰にも見つからずリシャールの部屋までたどりつくことができた。
鍵もかかっていない扉を、そっと開く。室内にはむせ返りそうなほど濃厚な匂いが充満していた。
思わず私は袖で鼻と口元を押さえた。夕食後に来た時より、ずっと匂いが強くなっている。閉め切った室内で焚き続けるとこうなるのだろうか。でもこれで昼間には匂いがほとんど気にならないほど薄れると思えない。まさか、今夜は量が多いとか言わないだろうか。
イリスも同じようにしながら、急ぎ室内を見回す。寝台のそばでは香炉がまだ煙を上げていた。明らかに、さっき見た時より多い。
私は寝台へ駆け寄った。
「リシャール、リシャール!」
ひっそりと生気のない寝顔に背筋が寒くなる。もう死んでしまっているのでは――そんなおそれを抱きながら懸命に揺すっていると、かすかなうめき声があがり、ようやくリシャールが目を開けた。
「リシャール! よかった……大丈夫?」
イリスが窓辺へ行き、大きく開け放つ。毒に汚染された室内に、新鮮な空気が流れ込んでくる。さらにイリスは香炉を取り上げると外へ投げ捨てた。
「なに……だれ……?」
驚いているようだけれど、リシャールの声には力がない。起き上がることもできないようだ。
「心配しなくていいわ。私を助けに来た人なの。リシャールのことも助けてくれる」
「たすけ……?」
意識がはっきりしないのだろうか。リシャールの反応は鈍い。
「しっかりして。くわしいことは今は話せないけど、このままここにいたらリシャールも危ないの。あのお香は、薬なんかじゃなかったのよ。具合が悪いのはあれのせいだったの。早く安全な場所で治療しないといけない」
「…………」
「知らない人についていくのが怖いのはわかるわ。でもお願い、信じて。リシャールを助けるためなの。一緒に逃げて」
戻ってきたイリスが私のうしろに立つ。生気のない目でしばらくだまって見つめていたリシャールは、やがて疲れたように目を閉じた。
「そう……助けが、来たんだね……よかったじゃない。急いで逃げなよ……僕のことは放っておいていいから」
「本当のことなのよ! すぐには信じられないでしょうけど、あのお香は――」
「疑ってるわけじゃない……もしかしたらって思うこともあったさ。だから、ああやっぱりって……」
「……知ってたの? あれが、あなたの命を縮める毒だと知って使っていたの?」
薄く目を開き、リシャールははかなく微笑む。
「知ってたわけじゃない……ただみんなこの部屋に寄りつかず、最低限の用を済ませるだけで逃げるように出て行くから、ここには長居したくない何かがあるんだろうなと思ってた……僕が嫌いなのかとも思ったけど……そう、毒のせいだったんだね……」
怒りを見せず、涙すらこぼさずに吐息とともにささやく。その声があまりに悲しくて、私の方が泣きそうだった。
「僕は……それほど邪魔な存在だったんだ……」
「なんで? そんなわけないじゃない! なんであなたが殺されなきゃいけないのか理解できない!」
「チトセ」
イリスが私の肩に手をかけて止めた。我に返り、私はにじんだ涙をふく。今は話し込んでいる場合じゃなかった。
イリスは前に出て、リシャールの枕元にひざまずいた。
「お初にお目もじつかまつります、リシャール殿下。不躾な訪問をご寛恕ください。私はイリス・ファーレン・フェルナリス、ロウシェンの竜騎士にございます」
「竜騎士……」
あきらめ一色だったリシャールの顔に、ほんの少し力が戻る。直接見たことのない竜に彼は憧れているようだった。竜を駆って活躍する竜騎士にも、少年らしい憧れを抱いていたのだろうか。
「突然に言われてさぞ混乱なさっておいででしょうし、すぐには受け入れられないことと存じます。まことに非礼ながら、今は力ずくでも殿下をここから連れ出させていただきます。いずれ、落ちついて話せる状況になりましたら、すべてをきちんと説明いたしますので、どうかご辛抱願います」
返事を待つことなくイリスはリシャールを抱き起こす。私はあわてて衣装箱へ走り、抱えられるだけの服を出してきた。この部屋から出れば酷寒の地だ。リシャールが凍えてしまわないよう、一枚でも多く着せておかないと。
本人の協力なく服を着せるのは難しい。イリスに手伝ってもらいながら厚着させる。最後に、イリスが背負った上からしっかりと毛布で包み込む。リシャールはいっさい抵抗しなかった。その力も出せないようだった。
扉へ向かおうとした時、リシャールが言った。
「そこの机の……いちばん上の引き出しに鍵が入ってるから、取ってきて……」
枯れ枝のような指が、窓辺の小さな書き物机を指している。私は言われたとおり引き出しを開けた。鍵はふたつ。たしか、ひとつは祖王の手記をおさめた箱の鍵だ。
「セトの遺品を持っていくの?」
「いや……大きい方だけでいい」
箱の鍵とは別の方だ。私はそれを持って彼らの元へ戻った。
「まともに玄関へ向かったんじゃ、誰かに見つかるよ……言うとおりに進んで」
思いがけない助言にイリスは少し眉を上げたが、何も言わずリシャールの指示に従って廊下を進んだ。入って来た扉とは反対の、最奥へ向かう。そこの突き当たりにも階段があった。あまり目立たない、非常口みたいな階段だ。裏口に通じているのかと思ったら、一階のはずの場所に出口はなく、階段はさらに下へと続いていた。
「暗いな。チトセ、ランプを」
足を止めたイリスが、一旦リシャールを下ろして手を伸ばす。私は持ってきたランプを差し出した。
「見つかってしまわないかしら。明かりがなくても、なんとか歩けそうだけど」
「これ以上は無理だよ。暗闇でさぐりながら階段を降りたんじゃ危険すぎる。見たところ窓もなさそうだから、気付かれることはないだろう」
隠しから石を取り出して打ちつける。手早くランプに火を入れて、イリスは私に持たせた。先に立つ私に続いて、ふたたびリシャールを背負ってついてくる。
……そんなに危ないかな。たしかに暗いけど、足元が見えないほどでもないのに。
でも、このまま降りていけば地上の光はいっさい届かなくなるだろう。遠からず明かりは必要になるのだから、しかたがない。
それからもしばらく階段は続いた。いったいどれくらい深くまで降りるのだろう。不安になり始めた頃、ようやく足元が平らになった。
降りきった私たちの前には、また扉が待ち構えていた。人ひとり通るのがやっとくらいの、小さな扉だ。
「その鍵で、開くから」
リシャールに言われて私は持ってきた鍵を差し込んだ。長く使われていなかったのか、回すのに力がいった。きしんだ音を立てながら開けて扉を押す。人の手で整備された通路は、ものの十メートルほどで終わった。
天然の洞窟とおぼしき広い空間に、祭壇のようなものがある。中央に置かれている大きな石の箱は、柩だろうか。
「ここは?」
「始祖の廟だよ」
さきほどよりもしっかりした声でリシャールは答えた。
「あそこに、お眠りになっている」
凝った彫刻もない簡素な石棺にイリスも注目する。伝説の英雄があの中に眠るのかと、きっと驚いているだろう。私は祭壇の前へ行き、手を合わせた。この世界での祈りの作法ではなく、仏式の合掌をする。同じ日本人への祈りを捧げるために。
瀬戸さんはどれほどの思いを抱えながら、この世界で生きたのだろうか。彼の生涯を思えば、私の頑張りなんて足元にもおよばない。どれだけの苦労があったのか……でも、今はただ静かに眠るだけだ。どうか、安らかに。
頭を下げた後祭壇から離れ、さらに奥へと向かう。その先にも洞窟は続いていた。廟よりも広い空間になっていた。鍾乳洞だ。
小学生の時に行った秋芳洞を思い出した。ランプの明かりに奇岩が照らしだされ、摩訶不思議な地下の世界が広がっている。
「城の地下にこんなものが……チトセ、足元に気をつけろよ」
「うん。イリスも気をつけてね。明かり、これでいい?」
「ああ」
できるだけ足元がはっきり見えるようランプを提げながら歩く。腕が疲れて、時々持つ手を替える。濡れた足元は滑りやすくて神経をつかった。少し行くと水音が聞こえてきた。地下の川が流れているんだ。
「ねえ、こんなとこに入り込んで大丈夫なの? 地下で迷っちゃわない?」
観光地のように順路が整備されているわけでもないだろう。進むほどに不安になってきた。
「脇道へ入り込まなければ大丈夫だよ。もうずっと前の記憶だけど、大きい道を歩いて行くだけだったはずだ」
「外につながってるの?」
「うん。出られる場所がある。もしかすると雪に埋もれてるかもしれないけど……掘ればなんとかなるんじゃないかな」
ううむ、なんだか不安だなあ。でも引き返しても敵のただ中に戻るだけだ。リシャールの記憶に頼るしかないか。
地下の奇景は珍しく面白いものだけれど、不気味でもあった。逃げてきたという立場が、余計に気持ちを弱らせる。私はおびえをはらうため、わざと明るく話した。
「リシャールは前にもここへ来たことがあるのね? その頃は探検できるくらい元気だったんだ?」
「うん。いちばん最初に降りたのは、五歳の時だったと思う。兄上が連れてきてくれたんだ」
本物のユリアスの方か。リシャールが五歳なら、亡くなる直前のことなんだろうな。
「それからも、何度か……昔は、今よりは動けたからね。危ないから絶対にひとりでは来ちゃいけないって言われて、ディオンの時間が空いてる時だけ連れてきてもらったんだ。あの頃はまだ母上もいて、夏の草原を一緒に歩いたな……」
なつかしむ声には、もういなくなった家族を恋う寂しさも含まれていた。その気持ちは私にもよくわかる。でも私はひとりじゃない。イリスをはじめ、私を大事にしてくれる人たちに恵まれている。リシャールには、誰がいる? ずっと、あの部屋でひとりぼっちだった。唯一気にかけてくれるディオンも、忙しくてなかなか顔を出せなかった。
たくさんの臣下がいても孤独だっただろう。それでもまさか害意を向けられているとは思わなかっただろうに、殺されかけていたと知って、今どんな気持ちなのだろうか。リシャールの傷を思うと、不憫でたまらない。
大きな反応を見せずただあきらめるだけの少年を、絶対にこのまま死なせたくなかった。私がみんなに助けられたように、リシャールにだって幸せな未来を手にしてほしい。弟の代わりではなく、リシャール自身に幸せになってもらいたかった。
地下は、けして暖かくはないけれど、風が吹きつけることも雪が降ることもないので、地上よりはましだった。ただ足元が歩きにくいのだけが難点だ。川と平行して進むようになり、うっかり転げ落ちてしまわないよう緊張しつつ歩いた。
「チトセ、そんなに急ぐな。もっとゆっくり進め」
後ろからイリスに注意されて、私は足を止めた。
「別に急いだつもりはないけど……ついてくるのが大変だった? ちょっと休む?」
ずっとリシャールを背負っているのだから、イリスには負担が大きい。怪我をした肩も気にかかる。まだ完治してはいないと思うんだよね。やせ我慢しているんじゃないかと心配で、歩くのが辛いなら休憩しようと提案したが、それには首を振られた。
「ちがう、僕は平気だよ。この程度で根を上げるほど騎士は弱くない。ただ、こんなに真っ暗な中で無防備に進むのは危険すぎるから。転んだり足を踏み外したりしかねないから、用心しろと言ってるんだ」
「気はつけてるわ。あぶない場所は避けて歩いてるわよ」
「ランプの明かりが届く範囲なんて、ほんの少しだろう。踏み出した場所に地面がなかったらどうする」
「そんな状態なら踏み出す前にわかるって。真っ暗闇でもないのに、ちゃんと前を見ていれば問題ないでしょ」
「……なんだって?」
イリスが眉をひそめる。叱られるのかと私は首をすくめたが、彼はいぶかしげに訊いてきた。
「暗闇じゃないって、どういうことだ。完全に暗闇だろう。ランプがなければ一歩も進めないぞ。間違っても落とすなよ」
「え……?」
明かりが大事なことはわかるが、なくても歩けないほどではない。私は理解できずに首をかしげた。
「暗闇? 何を言ってるの?」
「そっちこそ何を言ってる。君には、この地下の景色がはっきり見えるとでもいうのか」
「見えるわよ?」
答えた私にイリスは愕然とした顔になる。なぜそんなに驚かれるのだろうとこっちもおどろき、そして彼には見えていないのかと気付いた。
「イリスには見えないの? あそこの石筍は? そこの川は? 向こうにある棚田みたいな場所は?」
「……見えない。僕の目には完全な闇だ」
「え……?」
しばらく私たちは言葉を失い、ただ互いの顔を見つめる。沈黙を破ったのはリシャールだった。
「僕にも見えないよ。きっと、それも龍の加護だろう」
「え?」
龍の加護と言われて、胸が音を立てる。
「で、でも、別に夜目が利くわけじゃないんだけど。夜は普通に暗いと感じるわよ?」
日が暮れれば私にも明かりが必要になる。いつだったかカームさんと野宿した時も、暗闇の中でおびえたものだ。
「龍は空を飛び、水を泳ぎ、地に潜る……そういうことか」
イリスが得心したという声を出した。
「加護が発揮されるのは、ここが地下だからだろう。龍が地に潜るのと同じ条件だからじゃないかな」
「そんな……」
驚きながら、どこかでこれと似たような状況があったことを私は思い出した。あれは、そう、リヴェロへ行った時のことだ。ミルシア姫の罠にはまり、地下へ突き落とされた。あの時も私の目には周囲がはっきり見えていた。でも助けに来た騎士は、何も見えないようなことを言っていなかっただろうか。
あの時は他にいろいろありすぎて、ささいな違和感なんてすぐに忘れてしまった。その後も思い出す余裕がなく、今まで完全に忘れきっていた。でも、思い出してみれば、今の状況と一致する。
こんな形でも龍の加護があったなんて。じゃあもしかして、水に落ちても溺れず、宙に投げ出されても飛べるのだろうか。リスクが高すぎて試してみる気にはなれないけれど。
それよりもイリスの反応が気になった。今まで彼は、私に特別な目を向けてくることはなかった。竜が無条件になつくことも、他の動物をあやつれることも、驚きはしてもそういうものだと受け入れてくれていた。でもここまで来ると、さすがに気味悪がられるのではないだろうか。
イリスが私に嫌悪の目を向けたらどうしよう。びくびくしながら彼を見上げる。どう思っているのか、複雑な表情で私を見つめていたイリスは、ふっと息を吐き出しうなずいた。
「うん――まあ、そういうことなら、よく注意して歩いてくれ。正直出口まで無事にたどりつけるか不安だったんだが、君が先導してくれるなら心強い。リシャール殿下、大きい道をたどればよいのですね?」
「うん。ほとんどまっすぐ進むだけだから、おかしな方向へ行かなければ大丈夫だよ」
「頼むよ、チトセ」
イリスの顔に笑みが浮かぶ。私は泣きそうになった。
「……気持ち悪くない?」
「なにがだ? ありがたい特技じゃないか。龍に感謝しておこう」
「うん……」
地下に日が差したような、明るい笑顔に私も笑う――つもりだったのに、涙の方が先に出てきてしまった。
「そんな顔するな。今は手がふさがってるから、ぬぐってやれないよ」
「ごめん」
袖で拭いて今度こそちゃんと笑う。イリスが身をかがめて目元にキスしてくれた。リシャールの顔も近くなって、ちょっと照れる。
「じゃあ、あの、気をつけてついてきてね?」
「ああ」
熱くなった顔をごまかして前に向き直る。私は足元に気をつけ、イリスにも注意をしながら進んだ。
「そこ、出っ張りがあるから気をつけて――ここからちょっと下り坂になってるから――左手から岩が突き出してるからぶつからないでね」
いつも守られてばかりいた私が彼の役に立てるのはうれしい。私は一生懸命ガイドをつとめて地下を進んだ。
次々不思議な光景が現れる。これがただの観光地なら楽しめたけれど、人の手が入っていない自然のままの洞窟だ。案内の立て札もなく、転落防止の柵やロープもない。どこまで進めばいいのかわからないまま、出口の見えない地下を行くのは精神的なプレッシャーが大きかった。どれくらい時間が流れたのだろう。疲れて段々歩くのが辛くなってきた。でも人を背負って歩くイリスの方がもっとつらいはずだと自分を叱咤する。息が切れ、服の下に汗がにじんできた。
「チトセ、ちょっと休憩するか?」
「……もうちょっと進みましょう。ここは狭いし」
「大丈夫か? 無理するとかえって危険だぞ」
休みたいのはやまやまだが、ここでは場所が悪い。狭くて坂になっているし、流れ出した水で足元も濡れている。休むなら座りたいからせめて乾いた場所がいい。
ふうふう言いながら歩き続ける。後をついてくるイリスは、ずっと人を背負っているというのに息も乱さない。さすが騎士というべきか、それとも私が弱いだけなのか。
「お、なんかあっちの方明るいな。出口にたどりついたのか?」
イリスの声に、いつしか足元ばかり見ていた顔を上げた。たしかに前方が明るかった。これは私だけに見えているのではない。光が存在するのだ。
「思ったより早く着いたわね」
「いや、ちがうよ、あれは……」
よろこぶ私に、リシャールが言いかけて口をつぐんだ。
「なあに?」
「……ううん。行けばわかる。あそこなら休憩するのにちょうどいいし」
なんだろう。出口じゃないのに明かりがあるって、それはもしかして人がいるということだろうか。でもそれなら、リシャールはこのまま行けとは言わないだろう。私はイリスと顔を見合わせ、とにかく足を進めた。
曲がり角の向こうに光源があるようだ。近づくほどに明るくなってくる。出口じゃないのだとしたら、電気照明でもあるのかという明るさだった。まさか、あるのだろうか。戦闘機のことを考えれば、電力があってもおかしくはない。
ようやくたどりついた角から、私はそっと顔をのぞかせた。人の気配はしないし、イリスも止めないから大丈夫だろうとは思うが、なんとなく用心する。けれど向こうに存在するものを見た瞬間、警戒心も忘れて声を上げてしまった。
「なに、あれ?」
角から飛び出してしまう。そこは急に開けたホールになっていた。高い天井からつららのような鍾乳石が無数に垂れ下がり、石筍とつながって完全な石柱となっているものもたくさんある。気の遠くなる年月をかけて作られた石の森の中に、光の源はあった。
「なんだ、あれは……」
イリスも驚きの声を上げる。私の身長くらいの高さがある白い柱がいくつも連なっている。内側へ向けて少し湾曲したものが、向かい合って規則正しく並ぶ……あれは、骨だ。巨大な生き物の骨だ。
ぐるりと巻いている骨のつらなりは、蛇がとぐろを巻いている姿を連想させた。でもこんなにも巨大な蛇がいるだろうか。そうじゃない。これは――この生き物は。
「龍、なのか……」
イリスのつぶやきに、そうだとリシャールは答えた。
「ここは龍のゆりかごだよ。龍はこの島で生まれ、またここへ戻ってきて眠りにつくんだ」
「龍の島……」
初日にデュペック候から聞いた言葉を、私は思い出す。あれは、そういう意味だったのか。
私は龍の骨に近寄った。足元は平らになって歩きやすい。川もホールの端の方なので、転げ落ちる心配はなかった。
明るいのはこの骨のせいだとわかる。不思議なことに、骨そのものが発光しているのだ。電気照明のように明るいのに、目に痛くはないやわらかな光だった。
「龍の骨があるなら、心臓石もあるんじゃないのか」
イリスに言われて地面を見回すが、それらしいものは見当たらなかった。
「心臓石って、どんなの。私実物を見たことないわ」
「虹を閉じ込めたような石だよ。無色のようで、見る角度によってさまざまな色の光を放つ。大きさはそこの岩くらいかな」
説明を聞きながら、たぶんさがしても見つからないと悟る。
「それ、もう持ち出されてると思う。心臓石を搭載した乗物があったのよ。形は戦闘機と同じだったけど」
「エランドも龍船を所有していたのか」
イリスはリシャールを下ろし、上が平らになっている岩の上に座らせた。私もとなりに座る。休憩する気はないのか、イリスは珍しそうに骨を眺め、さわったりしてたしかめていた。私はリシャールの顔色をたしかめる。血の気がなく、今にも倒れてしまいそうなのが心配だ。
「だいじょうぶ? 気分が悪くなってない?」
「うん……だるいだけ……」
自力で座っているのが辛いようなので、私にもたれさせる。ぐったり寄りかかってくるのを抱きとめても、驚くほど軽かった。それが彼の命の残量に思えて怖くなる。
「もう少しの辛抱だからね。外へ出たら、かならずちゃんとお医者さんに見せて治療してもらうから」
リシャールを抱きしめてやわらかな髪をなでる。リシャールは答えず半分眠ったように目を閉じていたが、ふと開いて大分離れてしまったイリスを見た。
「彼は、チトセの恋人?」
「え、あ……うん」
ずばりと聞かれるのは気恥ずかしい。私はぎこちなくうなずいた。そう、とリシャールは吐息のような声でこぼした。なにか、ひどく寂しそうだ。
「リシャール?」
「……彼と、ふたりで逃げなよ。僕はここまででいい」
「なに言ってるの」
眉を寄せる私にリシャールは薄く微笑んだ。
「もう、無理だよ。自分でわかる……僕はもう、もたない」
「そんなこと決めつけないで! こういうのはね、気持ちが大事なのよ。ぜったい頑張るって強い気持ちでいたら、身体もそれに引っ張られるんだから」
「いいんだ……逃げたところで、どこにも僕の居場所なんてない。肉親もいない。誰もいない……それなら、ここで龍とともに眠る方がいい……」
リシャールの声からどんどん力が失われていく。抱きしめる腕の間から彼の命がこぼれ落ちていくようで、私は恐怖に焦った。
「だめよ、そんなふうにあきらめないで。居場所なんていくらでも作れるし、これから友達も家族も作れる。なにもあきらめる必要なんかないんだから」
向こうでイリスが振り返った。私たちのようすがおかしいと気付いたようだ。こちらへ引き返してくる。
「リシャール、もう少し頑張って」
「もう、いいよ……もう、ひとりはいやだ。さみしいのはいやだ……もう眠らせて……」
リシャールの目尻から涙が一筋流れる。さみしいからあきらめるなら、さみしくなければいい。私がいるからと言おうとした時だった。
「チトセ!」
イリスが緊迫した声を上げた。何か、と思い顔を上げた瞬間目の前に人影が飛び込んでくる。何人もの兵士が私たちを取り囲み、イリスに剣を向けて構えた。
「やれやれ、ようやく追いつきました。このような場所に入り込むとは無謀なことを」
場違いにのんびりした声が近づいてくる。私は息をのみ、振り返る。地下を歩くには不釣り合いな洒落た服装で、デュペック候はやってきた。
「よく無事にここまでたどりつけたものです。しかしこれ以上は危険だ。お戻りいただきましょう」
「デュペック候……」
イリスには幾本もの剣が突きつけられ、腕の中ではリシャールが死にかけていく。そんな状況の中、変わらず微笑むデュペック候がおそろしくてたまらなかった。




