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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第十部 時を越えて
115/130



 私は深呼吸をくり返し、前髪をかき上げた。指に引っかかったリボンを頭から抜き取り、床に投げ捨てる。

 落ち着け。おちつくんだ。

 生首は見ないようにした。転がる死体を意識からシャットアウトする。こんなの戦場でさんざん見た光景だ。うろたえるな、落ち着け。

 中へ踏み込んできたデュペック候が私に手を差し伸べた。それをにらみながら、私はゆっくりと立ち上がった。

「手際が悪くて申しわけありませんな。外で始末するつもりだったのですが、すばしこい連中でして」

 デュペック候は軽く言う。始末したのが人の命だなんて、思ってもいないように。

 血の臭いに吐きそうだ。私は彼のそばをすり抜け、外へ出た。

 何度もなんども、大きく呼吸をくり返す。まだ心臓が落ちつかない。ふらつかないよう、必死に気合を入れないと崩れ落ちそうだ。

 小屋の周囲にはさっきの男たちの倍ほどの人間がいた。いずれも武装した、見るからに兵士とわかる姿だ。エランド兵なのか。

 私はさらに遠くを見回した。日が傾き始めた薄い春の青空に飛んで行くのは、小さな鳥の影だけだ。

 味方はいない。助けを呼ぼうにも、声はどこにも届かない。山の獣はいるだろうか。竜は来てくれる? 仮にデュペック候たちから逃れられたとして、そこからどうなる? 人のいる場所へ、たどりつくことはできるだろうか。

 日本の山とは規模がちがう。延々と山脈が続いている。道をたどればいつかは人里に行き着くのだろうが、そこまでどれほどの距離があるのかわからない。

「このような場所に長居は無用です。少しだけ我慢していただくことになりますが、移動しましょう」

 デュペック候がが私を追って小屋から出てくる。私は彼を振り返った。

「……移動って、どこへ」

「そう遠くありません。我々の乗ってきた輸送機が、近くにありますから」

「こんな山の中に? どうやって着陸して……」

 思わず口に出た疑問に、デュペック候は微笑んだ。

「さすがに、詳しいですな。そう、通常は広く平らな場所が必要ですが、あれは大丈夫なのです。まあ、行けばわかります」

「…………」

 垂直離着陸ができる、ヘリみたいなものだろうか。たしか、自衛隊にそういう大型輸送機があった。

 私は目を閉じた。決断しなくてはならない。あくまでも逃げることを考えるか、彼らについていくか。

 ついていく方を選べば、シーリースを離れてエランドまで連れて行かれることになる。そうなったらもう二度と帰ってこられないかもしれない。物理的にも遠く離れた海の向こうで、自分の力では到底帰ってこられない。でも帰りたいと言って帰してもらえるはずもない。国交を断った今では大使館もなく、ロウシェンに連絡するすべもない。

 どう考えても行くべきではない。けれど彼らから逃げ出して人里をさがすのも、かなり無謀な話だった。

 立っているのが辛いのは、精神的なものばかりではないだろう。貧血が起きている。のどの乾きもひどい。多分、私は丸一日以上眠らされていたのだ。激しい空腹を感じていた。

 ほとんど動けそうにない状態だった。これで山の中をさまよってどれだけ持ちこたえられるだろうか。すぐに倒れてしまうのは明らかだった。

 目を開け、深く息を吐き出す。どちらに転んでも最悪なら、せめて生命の危険がなさそうな方を選ぶしかない。

 彼らの目的は私を殺すことではない。ついて行っても最低限生きることはできるだろう。生きていれば、いつかチャンスが見つかるかも。

 そっと小屋の中に目をやる。血の海に倒れる死体はそのままだ。誰もいないこんな場所で隠す必要はないと、デュペック候たちはあとも振り返らない。私が投げ捨てたリボンもそのままだ。

 私をさがしてだれかがここまでたどりついたら、リボンに気付いてくれるだろうか。ここを通過したことがわかる、手がかりになるだろうか。

 儚い期待だけれど、今はそのくらいしかできない。

「どのくらい移動するの? 私、動ける状態じゃないわ」

 顔を戻して言うと、デュペック候はうなずいた。

「たしかに、顔色が悪い。やつらはずいぶんとあなたを乱暴に扱ったようですな。お気の毒に」

 部下に指図して、馬車を引いてこさせる。

「それほど遠くはありませんが、山道をご自分で歩くのは辛いでしょう。お乗りください」

「ついでに、水があるともらいたいんだけど」

 この要望にも部下が水筒を差し出してくる。私は渇きを癒し、ふたたび荷台に乗り込んだ。

 隅に寄って身体を倒す。デュペック候は外から見届けるだけで、自分も乗り込んではこなかった。

 じきに馬車は動き出した。私は気分の悪さに耐えるふりで隅にくっつき、外から見えないよう背を向けて、こっそり手を動かした。

 幌が取り付けられている土台は木製だ。そこに例のペン型ナイフで傷をつける。子供や観光客がいたずらでやるように文字を彫りつけた。長くは移動しないということだったから、ぐずぐずしていられない。外の連中に気付かれないよう気をつけながら、急いでメッセージを記した。

 ここにも何か目印を残していきたいな。デュペック候たちに気付かれないよう小さく書いているから、他の人にも見落とされてしまうかもしれない。でももうリボンは外してしまったし。

 そこまで考えて、ポケットの中にもう一本リボンがあることを思い出した。でもこれは、イリスとかならずまた会うためのおまじないで、手放すわけには……。

 どうしよう。何か他に使えるものはないか。

 考えている間に目的地に到着してしまった。馬車が停まる。迷っている暇はない。私はポケットからリボンを取り出し、メッセージのそばに落とした。

「大丈夫ですかな。着きましたよ」

 デュペック候が声をかけてくる。メッセージとリボンが背後に隠れるよう位置を注意して、私は起き上がった。その際に、さっきもらった水筒を取り落とす。残った水をこぼしながら、水筒はデュペック候の方へ転がった。

「おっと」

 受け止めたものの、もう中身は空だ。それを確認して、デュペック候はそばの部下に水筒を渡した。

 その間に私は降り口へ向かう。水筒に気を取られて、みんなリボンとメッセージには気付いていないようだ。私はことさらにふらついてみせ、降りるのに手を借りた。

 山の中でも比較的なだらかな、開けた場所だった。目の前に十人くらい乗れそうな小型のプロペラ機があった。ヘリではないのが意外だ。いくらなだらかといっても飛行機が離着陸できる場所には思えないのだけれど。ちょっと進めばすぐ木に当たる。滑走できるほどの距離もない。

「……ここから飛び立てるの? 本当に?」

「大丈夫ですよ」

 デュペック候は私をプロペラ機へ連れて行く。乗り込む前にもうひとつするべきことに気づき、あわてて私は振り返った。

「馬を、はずしてあげて」

「馬?」

 馬車を引いてきた馬はそのままだ。私たちがいなくなれば、この誰もいない山の中で、ずっと馬車につながれたままになる。

「かわいそうだから自由にしてやって。お願い」

 たわいのない懇願だと思ったのだろう。デュペック候は聞き入れ、部下に命じる。手綱と引き綱をはずされた裸馬が、軽く叩かれ走り出す。それを見届けて、私は用意された階段に足を乗せた。

 馬がかわいそうなのも本当だけれど、それと同時に馬車を確実にここに残す必要があった。あのまま放置したら馬は馬車を引いて移動するだろう。どこへ行くかわからないし、下手をして谷にでも転落したらおしまいだ。ここに馬車が残されていれば、捜索隊に発見される可能性が残る。デュペック候もそのくらいは考えるだろうが、私を連れ去ってしまった後なら別にかまわない。地上を移動するのではなく空を行くから、追いつかれることはないと安心しているだろう。ここにいたるまで痕跡を消そうとするようすがいっさいなかったから、私の読みは当たっているはずだ。

 そう、今は追いつかれない。この場では、あきらめるしかない。

 でも私がエランドへ連れ去られたとわかれば、きっと助けようとしてくれる。イリスもハルト様も、私を見捨てたりしない。

 それを信じて、私は飛行機に乗り込んだ。

 元の世界で見たような、ぎっしり並んだ座席というものはなかった。外側の形は飛行機でも、中はほとんど船底みたいなものだ。こんなので飛び立って本当に大丈夫なんだろうか。

 コクピットとの間の仕切りすらない。困惑する私をデュペック候が座らせる。床にはいちおう敷物がしかれていた。さらに毛布なども積み込まれていて、部下たちが手早く簡易の寝床をこしらえた。

「粗末で申しわけありませんが、到着までご辛抱願います。もしも寒ければ、おっしゃってください」

 誘拐はしても、私のことは丁重に扱うつもりのようだ。そうアピールしたいのか。寝心地がよくなるよう下に何枚も毛布を重ね、枕がわりのクッションまで用意された。

「食事はなさいますか?」

 聞かれて、私はうなずいた。何か食べないと本気で衰弱してしまう。多分今は動ける限界だ。

 どうせ不味い携帯食が出てくるのだろうと思っていたら、柔らかいパンで作られたサンドイッチがもらえた。苦手な肉やチーズも挟まれているけれど、我慢して食べた。できることが少ないなら、せめて体力はつけておかないと。いざという時に動けないのでは困る。

 その間に離陸準備が済まされ、飛行機は静かに舞い上がった。

 常識を裏切る離陸のしかただった。助走はしなかった。いきなり地上を離れ、そのまま垂直に上昇していく。これはヘリの飛び方だろう。でもヘリのようなプロペラはついていないし、騒音もない。この静かな離陸には覚えがあった。

「……龍の心臓石を使っているの?」

 龍船とそっくりな離陸だ。半分確信しながら問えば、デュペック候は自慢げに微笑んだ。

「滅多に手に入らないものだと聞いたけど」

「さようですな。現在龍船を所有しているのはシーリース三国のみ――と、いうことになっています。しかし心臓石さえ見つかれば、他の国とて龍船を持つことはできます」

「船という形じゃないけれど」

 内心の動揺を押し隠す。近代技術にくわえて心臓石まで持っているとなれば、エランドはシーリースよりずっと強いのではないだろうか。

 ……いや、心臓石はいくつもゴロゴロしているものじゃない。ひとつふたつ手に入れたところで、竜騎士団に対抗できるものではない……よね?

「船よりもこの形の方が速く移動できますので。あなたにはおそらく、詳しい説明は不要でしょうが」

 帆を張って風を受けて飛ぶよりも、プロペラの推進力で飛んだ方がたしかに速い。心臓石と石油燃料を併用した最先端の龍船というわけか。

 どうりでユリアスが驚くほど早く帰国できたわけだ。きっとあの時もこれを使ったのだろう。

 こんなものを量産されたらたまらないけれど、レアメタルやダイヤモンドよりもっとずっと稀少な心臓石が必要になるのだから、その心配はない……よね?

 いちおうの結論は出しても、不安はぬぐえなかった。

「じゃあ、エランドまで短時間で飛べる?」

「今からでは途中で日が暮れてしまいますので、一旦中継地に降りて、明日の昼までには着きますな」

 大雑把に考えて、七時間前後といったところか。成田からシンガポールへ行くくらい? いや、あれはジェット機だから比較対象にはならないか。距離的にはもっと近いのだろうけれど、この世界では普通ひと月近くかかるところを、実質一日で移動するなんて。

 これが科学の恩恵だ。そして、おそろしさだ。

 エランドが力を失うことなく技術を発展させていけば、近い将来すべての国を征服してしまうだろう。この技術が他に流出することも、そのままエランドに保有されることも、シーリースとしては防ぎたいところだ。

 エランドに隠されているという宝の正体は、この技術力だろう。資源ももちろんだけど、何より有益なのはそれらを活用する技術だ。

 食事を終えた後、私は横になった。演技ではなく身体が辛かった。毛布にくるまりながら話だけ続ける。

「あなたたちは、ずっと私を見張っていたの?」

 居場所は隠されていたはずだった。知っていたのはごくわずかな、親しい人だけだ。彼らが他に漏らすはずがない。それでもどうやってか、私を見つけてデュペック候はやってきた。ずっと……あの戦以来ずっと、動向を監視されていたのか。

「でも私を襲った男たちは別口ね。あれは何者だったの。こうも手際よく待ち伏せできたってことは、仲間のふりをして利用して、裏切ったの?」

 近くにゆったりと座ったデュペック候は、静かに首を振った。

「いいえ、やつらは我々の存在など知りませんでしたよ。自分たちで計画したつもりで、動いていたのです」

 ……つまり、裏であやつっていたことは認めるのか。

「裏切るのと、どちらが悪質かしらね」

「あれはキサルスの軍人です。龍の娘の噂は、島の外にまで伝わっているのですよ」

「しらじらしいことを。伝えたのはあなたでしょうに」

 私の言葉を、デュペック候は否定も肯定もしない。

「我々が御身を欲し、ロウシェン公も手放そうとしない――よほどに利用価値のある、それこそ魔女か何かかと思ったのですな。戦局を有利にし、いずれはシーリース攻略の役にも立てようと愚かな期待を抱き、あなたをさらった。事実など何も知らぬくせに、噂に踊らされて滑稽なことです」

「そのとおりだけど、あなたに笑う資格はないわ。どうせ、先の戦も噂に信憑性を持たせる材料にしたんでしょう。私がいたからロウシェンはエランド軍を撤退させられたのだ、とか言ってね」

「まったくの嘘でもないでしょう。あなたがいなければ、おそらく我々が勝っていましたよ」

「……たまたま、ね」

 いくつかの場面に私が関わっていたのは事実だし、ハルト様が討ち取られるのを防ぎもした。そこだけを見れば、たしかに私が勝利に貢献したことになるのだろう。でもじっさいは兵達が必死に戦ってくれたからだし、決めの一手を打ったのはオリグさんだ。私の関与なんて全体から見ればちっぽけな割合でしかない。

「相変わらずご自分を過小評価されますな」

「そっちが過大評価しすぎなのよ。だいたい、なんだってこんなにしつこく私を狙うの。私なんか手に入れたって、面倒が増えるばかりで何の役にも立たないのに」

 空腹がおさまって気分がよくなるかと思いきや、逆に悪化してきた。胸焼けではなく、これは貧血がひどくなっているのだ。あれかな、消化のためにおなかに血が集まって、貧血を加速させているのかも。

 ぐったりする私に、デュペック候は水をさしだした。

「どうやら、ヘレドナを使われたようですな。あれは強すぎるため、目がさめてもしばらくは後遺症に悩まされます。やつらも使う薬を選んでくれればよいものを」

「よくも言えたものね。自分が仕組んだくせに」

 私は水を受け取らず、寝返りを打ってデュペック候に背を向けた。

「この先、もっとひどい目に遇うんじゃないの」

「あなたが魔女などでないことも、ただの病弱な少女であることも、よく承知していますよ。我々はあなたを戦に利用しようなどとは考えておりません。あなたを求めるのは、そんな理由ではない。天の国より下り来りし龍の姫――我らが始祖につながるお方よ。その稀なる血こそ、我らが求めてやまぬもの。我々は、始祖に再臨していただきたい。ただそれだけなのです」

 ……何を言っているのだろう。よくわからない。まるで私を祖王その人みたいに思っているようだ。神様かなにかのように、特別な存在と見ているのか。でも普通よりもひ弱な、ただの娘だということも承知している。いったい何が言いたいのか、理解できなかった。

 ――だめだ、具合が悪すぎて調子が出ない。頭もうまく働かない。私は目を閉じ、眠気に身を任せた。

 うるさいけれど単調なプロペラの音を聞きながら、眠りに落ちる。ほとんど振動のない乗り物は馬車よりもずっと居心地がよく、中継地に着くまで私はゆっくり身体を休めることができた。日暮れ頃、シーリースを出た別の島に一旦着陸する。ビエン・チャンディという、エランドの属領のひとつだった。そこの離宮で何人もの女官に世話をされ、殴られた場所の手当もされた。立派なお風呂に入れたし、寝台は豪華な天蓋つきだ。私は囚人ではなく賓客待遇だった。のぞめばなんでも用意された。ただひとつ、自由をのぞいては。

 翌日ふたたび空の旅路につく。ビエン・チャンディの女官たちは、新しい衣装を用意してくれていた。北へ向かうのにふさわしい、暖かな服と毛皮付きのコートだった。

 春から冬のよそおいに戻り、重い気分で時間を過ごす。昼になり、そろそろ空腹を感じはじめた頃、行く手に目的地が見えてきた。

「わかりますかな、あれですよ」

 デュペック候の指さす先、暗い海のただなかに、ぽつんと小さな影が浮かんでいた。まだ遠いそれを見つめる私の中に、奇妙な感覚がわきあがる。

 ……なつかしい?

 そんなふうに感じる理由はないはずなのに、なぜか既視感を覚えた。いったい何がなつかしいの? 来たことはおろか、写真で見たこともない景色なのに。

 私が住んでいた町は海辺ではなく、船の旅なんてあの修学旅行くらいしか経験がない。この世界へ来てからも、シーリースを離れたのはこれが初めてだ。島を見てなつかしいと思うような、そんな記憶はどこにもないはずなのに。

 単なる錯覚だろうか。

「あれがエランド……」

「そうです。始祖が切り拓き、永住の地とした場所です。彼らはシーリースを追われてこの地へたどりついたが、それはさだめでもありました。エランドは龍の島――あなたも、来るべくしてここへ来たのです」

「龍の島……?」

 デュペック候の言葉が意識を浸食していく。冬の空と海のはざまに、いつか見た白く輝く生き物の幻が浮かんだ。




 エンジンが停止し前進を止めた飛行機は、そのままの姿勢で静かに高度を下げていく。見た目は飛行機でもこういうところは龍船とまったく同じだ。下り立つ場所が水面ではなく、雪に覆われた大地の上という点だけがちがう。

 無事着陸して外へ出ると、雪混じりの冷たい風が吹きつけてきた。耳や首を切りつける寒さに、短くなった髪を意識させられる。私は身をすくめてフードをかぶった。

 近くに大きな建物がある。風雪に耐えるためだろう、頑丈さと実用性が重視された外観だ。入り口の前はきれいに雪かきされているが、扉までは建物一階分に近い階段を昇らなければならなかった。たぶん、積雪で入り口が埋もれるのを避けるためなんだろう。雪かきされていない場所はそのくらいの高さまで積もっていた。

 回復しきらない体調で階段を昇るのはつらい。昇りきった場所で胸を押さえて呼吸を整えていたら、間近から声が降ってきた。

「この程度で息も絶え絶えとは、いっそ感心すべき弱さだな」

 低い、皮肉な響きをともなう声には聞き覚えがある。顔を上げると、開いた扉からユリアスが姿を現していた。

 あいかわらず黒ずくめの簡素なよそおいだ。こちらを見下ろしてくる目の鋭さと、並外れた長身からただよう威圧感をのぞけば、どこにでもいそうな騎士の姿である。私の周囲で兵士たちがそろって頭を垂れ、彼に礼をとった。

「少しは肥えて血色がよくなっているかと思えば、変わらず不健康そうな顔だ。ロウシェンの連中は、お前にまともな食事もさせてやらなかったのか?」

 再会するなりなんなんだ。嘲笑を含んだ声に腹が立ったので、私は返事もせずに黙っていた。

「そのような意地悪をおっしゃるのではありませんよ。キサルスの連中が無茶をしたせいで、姫君は具合を悪くしておいでなのです」

 後ろから階段を昇ってきたデュペック候が言う。ユリアスはふんと鼻を鳴らした。

「扱いが悪いとすぐ倒れる女など、始末に困るな。これでちゃんと子を産めるのか?」

「なに、この地でならば姫君はじきに元気になられますよ。大地の祝福を受け、どこの島にいるよりも健康に過ごせるでしょう」

「……だとよいが」

 ふいと目をそらし、ユリアスはそのまま背を向けてしまう。私を振り返ることもせず、大股に戻っていく。厭味を言うためだけに迎えに出たのかと、私は呆れて見送った。

「申しわけありませんな。女性に対して、どうにも不器用な方でして。ああ見えて、あなたを嫌っておられるわけではないのですが」

「……どう見ても好かれているようには思えないけど」

 別に嫌われていたってかまわないけどね。そもそも女性に不器用って、女好きなんじゃなかったの? 以前聞いた評判とじっさいに見た印象が、どうにもつながらない。私に女性的魅力がないからだろうか。好みの女性の前でなら、もっとちがう雰囲気になるのかな。

「これからゆっくりつきあえば、互いに印象も変わりましょう。まずはお身体を休めてください。あなたに快適に暮らしていただけるよう、準備を整えてあります。ご案内いたしましょう」

 デュペック候にうながされ、私は息を吐いて歩き出した。ゆっくりつきあいたくも、ここで暮らしたくもないのだけれど。私の望みはシーリースへ帰ることだ。みんなの――イリスのいる場所へ。

 ……でも今は、どうにもならない。

 せめて体調を戻すことを優先しようと、今は逆らわずおとなしく従うことにした。

 ユリアスがいたところからして、ここはエランドの王宮なのだろうか。しっかりした立派な建物だけれど、あまりそういう雰囲気には見えなかった。大きさは学校の校舎くらいで、まあ小さなお城レベルではある。でもどこを見ても質素で、宮殿と呼ぶにふさわしい装飾はまったく見当たらなかった。シーリース三国の中でロウシェンのエンエンナ宮殿はいちばん地味だったけれど、それなりに装飾もあったし贅沢な調度も使われていた。でもここには、そうしたものがいっさいない。

 なんだか本当に学校の中にいる気分だった。入った場所はそっけない壁と階段だけがあるホールだ。そこから上へ向かう。

 私に用意された部屋は三階にあるらしかった。入り口は実質中二階だから、あと一階と半分昇らなければならない。ここまででも息切れなのに難儀な。でも手助けはきっぱりお断りした。彼らに抱いて運んでもらうなんて、全力で却下である。

 倒れそうになりながら必死に三階まで上がり、ふらふらと歩く。私の意地をデュペック候は呆れた笑いで見守っていた。

「お疲れさまでした。こちらです、どうぞ」

 ようやく到着した部屋に、周囲を見回す余裕もなく踏み込む。その瞬間、あたりが明るくなった。

「…………」

 数歩入った場所で足を止めてしまう。そこは、やわらかな光に包まれる、とても暖かい部屋だった。

 薄暗い廊下から扉を抜けただけで、別の場所へ来たみたいだ。正面の壁には窓が並んでいて、透明度の高い硝子がふんだんにはめ込まれている。室内にはたくさんの鉢植えが置かれ、天井に届きそうなほど背の高い植物もある。花も咲いている。まるで温室みたいだ。

 ――いや、じっさい温室なのだろう。外気温を考えれば、この部屋は不自然なまでに暖かい。身を寄せていた別荘のあたりよりも、さらに暖かかった。

 見回してみるが、暖炉はどこにもなかった。教室よりも広い部屋を暖炉ひとつでここまで温められるとは思えないから、ぱっと見にはわからなくても、どこかに暖房設備があるのだろう。

 光と緑の空間に、天井から吊るされた薄絹に囲まれる寝台があった。寝台、でいいのかな。四畳半くらいの広さがあって、見た目は小さなステージみたいだ。でも枕や布団があるから寝台ではあるのだろう。引きこもり属性の私は、あの中だけで生活できそうだ。

「お気に召していただけましたかな」

 デュペック候の声に意識が引き戻される。予想しない明るく優しい内装に、目を奪われていた。

 私の反応に満足げな顔をしつつ、デュペック候は言った。

「ひととおり思いつくものは用意しましたが、なにぶん気の利かない男ですので不足もありましょう。ご要望はなんなりとおっしゃってください。彼女が身の回りのお世話をいたします」

 示される方を見れば、緑の間に女性がひとりひざまずいていた。床に手をつきじっとしているので、そこに人がいることに気付いていなかった。

 顔を上げた人はユユ姫よりも年上だろうか。たぶん、二十代のなかばくらい。ナッツ色の髪をした、優しそうな美人だった。

「サラと申します。必要なものがありましたら、彼女に言いつけてください」

 紹介されて、サラという女性は口を開いた。

「ようこそおいでくださいました、花嫁様。心を込めてお仕えさせていただきます。どうかこの地に、末永き繁栄と幸福をお恵みくださいませ」

 …………。

 ちゃんと心がこもっているとわかる丁重な挨拶だったけれど、どう返せばいいのか困惑して私は黙り込んでしまった。

 なんだろう、敬意とか通り越して、信仰心みたいなものを感じてしまったんだけれど。お恵みくださいって、まるで神様にお願いするみたいだ。冗談の雰囲気もなく真剣に言われてちょっと引いてしまう。いったい私になにができると思っているのだろう。

 そして、聞き流せないひとこと。

 ……花嫁様って、だれ(・・)の?

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