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日ごとに寒さはやわらぎ、芽吹きの香りを感じ始める。うなじをなでる風は優しく、真冬の身を切る厳しさはない。
穏やかな日差しを受ける中庭で、井戸に落とした釣瓶を引き上げると、手を濡らした水はまだ冷たかった。
重たい桶をひっくり返さないよう注意して取り上げ、足元の桶に中身を移す。水一杯汲むにもひと苦労だ。蛇口をひねるだけでいくらでも水が出てくる水道なんてないし、エンエンナ宮のように湧き水を引き込む水路もない。この世界での当たり前の生活は、私にはまだまだ難易度が高かった。
なみなみと桶を満たしてしまったら重くて運べなくなる。半分より少し多い程度で、水汲みをやめて持ち上げた。
せめて台車があるといいんだけどな。それくらいならここでも作れそうだし、提案してみようか。そんなことを考えながら、よたよたと歩き出す。壁に蔦が這う古い建物に向かうと、小さな木戸から大きな身体をかがめて人が出てきた。
「ティトシェ様、そのような仕事は私がいたします」
大股にこちらへ歩いてくるのは、アークさんだ。ユユ姫の館で働く、馭者兼護衛士、出身は職人の家系というちょっと変わった経歴を持つ。イリスと同い年とは思えない、落ちついた貫祿のある人だ。いや、老けているわけではない。イリスが童顔なだけだ。
足早にやってきたアークさんは、私の返事も待たずに手から桶を取り上げた。
「このくらい、お手伝いさせてください。何から何までアークさん一人でやってたんじゃ忙しすぎるでしょう」
「なんでもやってるわけじゃありませんよ。私も手伝いをする程度です」
男らしい顔に爽やかな笑みが浮かぶ。イリスやアルタのような美男子とは別種のイケメンだ。派手さはないけれど、魅力的な人だと思う。じっさい女性にけっこう人気があるらしい。弟さんはもう結婚していて先日子供も生まれたそうなのに、アークさん自身は浮いた雰囲気がない。誰か好きな人とかいないのかな。
アークさんは桶の中を見下ろし、ちょっと不思議そうな顔をした。
「もう少し入れてもいいんじゃないですか?」
「……入れたかったけど、それだと重くて持てなくなるので」
私の答に軽く笑い、井戸へ向かう。私の時より何倍も速く釣瓶を引き上げて、桶の中身を増やした。
こぼれそうなほどたっぷり水を入れた桶を、これまた軽々と持ち上げる。「はい、行きましょう」と私に言って歩き出す姿は、子供を相手にする大人そのもので、私はなんだかトホホな気分だった。
そりゃあね、騎士に負けないほど鍛えられた男性とじゃ、力が違うのは当たり前なんだけど。でもこの世界の人は、女性だって水汲みくらい普通にこなす。そこそこ成長した身体さえ持っていれば。
小さい子供程度にしか働けない自分が情けなかった。
木戸をくぐって建物の中へ入れば、ちょっと薄暗い。板張りの廊下は歩くとぎしぎし鳴る。とにかく古い館だからあちこちガタがきていて、アークさんは毎日大工道具を持って床や窓枠を直して回っている。ここの管理人はもういいお年なので、若い働き手が来たと喜んで、遠慮なく彼をこき使っていた。
台所に入ると、甘い匂いがただよっていた。
「ご苦労さま。そこの甕に入れてくださいね」
人のよさそうなおばあちゃんが私たちに言う。匂いのもとはオーブンだ。もちろん電気式なんかじゃなく、煉瓦で組まれた本格的なものである。
焼き上がったのは素朴なクッキーで、たまらなくおいしそうだった。
「ちゃんと手を洗うんですよ」
おばあちゃんにかかると、私だけでなくアークさんまで子供扱いだ。私たちは顔を見合わせてこっそり笑い、手を洗った。
おばあちゃんの特製ハーブティとともに、焼きたての熱いクッキーをいただく。穏やかで優しく、そして少しばかりうしろめたい午後のひとときが、最近の日常だった。
ここはエナ=オラーナから馬車で半日ほど離れた片田舎だ。王家が所有する別荘は、近くの町からも少し離れている。老夫婦が管理していて、普段は配達の小僧さんが来るくらい。人目を気にする必要のない静かな場所で、私はひっそりのんびりした毎日を過ごしていた。
「あとでお願いしていいかしらね。どうも煙突が詰まっているみたいでねえ」
おいしいおやつを餌に、ちゃっかりおばあちゃんは新しい用事を言いつける。アークさんは嫌な顔もせず煙突掃除を引き受けていた。
ひとりでぼさっとしているのも芸がないし、私も手伝えないかと考える。煙突掃除なんて、身の軽い方がいいよね。アークさんより私が適任かも。
そう思って提案してみれば、ふたりにそろって首を振られた。
「嬢ちゃまは、豆の筋取りをしてくださいな」
「……はい」
細長い豆が入った籠を渡される。アークさんが屋根に上って真っ黒になっている間、私は黙々と筋取りをすることになった。
おばあちゃんは夕食の仕込みを始め、外ではおじいちゃんが薪を割っている。静かで、穏やかな時間だ。戦争なんてどこにもないと錯覚してしまいそうなほどに。
外の世界から隔離された空間で、私はかりそめの平和の中に隠されていた。
エランド軍がシーリースから撤退しても、それですべてが終わりではない。まだまだ問題は山積していた。
不在中に攻め込んできた軍を、エランドの皇帝ユリアスはいちはやく帰国して体勢を立て直し、撃退した。千載一遇のチャンスと意気込んだジリオラやラシュエル、ゲイナは、ふたたび力を失いエランドの支配下に戻った。主立った指導者たちがみんな殺されてしまったので、もう抵抗はできないだろうとのことだった。
けれどまだ続きがある。他からも反エランドの声が上がり、属国となっていたいくつもの国がエランドに向けて軍を差し向けたのだ。離反しない国もあったからエランドが一方的に負けることもなく、現在のところ形勢は五分五分、にらみ合いになっているらしい。
シーリースとしては、難しい立場だった。
外国同士でもめているのであれば、どうぞご勝手にと言いたいところだが、そういうわけにもいかない。大規模な紛争は貿易などに影響するし、他にも大きな懸念事項があった。
「エランドが負けたら負けたで、我々にとってはよろしくない。あの空飛ぶ鉄の鳥――あなたが戦闘機と呼んだ、エランドの特殊兵器を他国の手に渡すわけにはいきません。これまでシーリースに手を出すことをあきらめていた国々が、対抗手段を得て欲を抱くおそれが大きい。これは阻止せねばなりません」
私に教えてくれたのは、参謀室長のオリグさんだ。
「勝算さえあれば攻めてきそうな国が、他にもあるんですか」
「残念ながら」
そもそも他国がエランドを攻めるよう仕向けたのはオリグさんなので、その後の問題についても考えていたはずだ。突っ込んでみると、彼はあっさり答えた。
「我々が取るべき手段は二つにひとつですな。他国より先にエランドを攻め落とし、かの国の軍事力を確保するか、それを示唆してエランドと条約を結ぶか」
「どっちも簡単にできるとは思えませんね。特に条約の方は、エランドもですが他国が納得するでしょうか」
「名目上は長く続いた戦を終わらせ、諸国に平和を取り戻すということになります。各国が主権を取り戻せば、それ以上戦う理由はなくなります。戦後補償の問題は残りますが、これは協議して決めていくよりありません。どこの国も、本音はともかく協議の場でエランドの特殊兵器を寄越せとは言えますまい。それは他の国に対する宣戦布告とも受け取れますので」
「……エランドは、乗ると思いますか?」
私の疑問に、オリグさんはさて、と首をかしげた。
「かの国の反応は読めぬところもありますので、なんとも。乗ってこぬ場合は、攻め落とすよりありませんな」
なるべくそうならないよう頑張って交渉するが、とオリグさんは言っていた。条約を結んだからといって未来永劫戦争の心配がなくなるわけではないけれど、ひとまずの平穏は得られる。その後の平和は人々の努力次第だろう。それに攻め落とすと言っても、遠く離れたエランドまで遠征するのは容易ではない。他の国より条件が悪いのだし、戦えばまたたくさんの人が死ぬ。もうこれ以上戦争はいやだ。話し合いで解決してほしいと、心から願った。
そんな状況で、参謀室はもちろんのことハルト様も毎日忙しそうだった。ユユ姫との婚礼が間近に迫っているのに、のんびりお祭ムードにもひたれない。王族の姫らしくユユ姫は状況をしっかりわきまえ、領主としての役目も怠らないけれど、時々物憂げな顔をしているのが気の毒だった。
一生に一度の晴れ舞台なんだから、喜びと幸福だけに包まれて迎えてほしいのに。なんだかごたごたと落ちつかないのが、私としても残念だ。
その日もユユ姫のことが気になったのと、イリスのお見舞いに行きたくて、私は三の宮へ向かっていた。ユユ姫と話したあと馬車を借りて、飛竜隊まで送ってもらおうと考えていた。
イリスの経過は順調で、短時間なら起き出すこともできるようになっている。もう心配はないのだけれど、私が顔を出さないと拗ねるので二日に一度は行くようにしていた。……私自身、会いたいし。
重たいコートから解放された身軽な服装で、二の宮の廊下を歩く。途中参謀室に立ち寄ろうかと一瞬考え、やっぱりやめておいた。そう頻繁にお邪魔しては仕事の邪魔になる。新しい知らせも入っていないし、今日は遠慮することにして出口へ急いだ。
向かいから役人らしき男性が五、六人の集団で歩いてきたのも、最初はまったく気にしていなかった。邪魔にならないよう端へ寄ってすれ違おうとした瞬間、いきなり腕をつかまれてびっくりする。振り向いた私の鼻先に光る切っ先が突きつけられた。
「さわぐな。おとなしくついて来い」
私にナイフを突きつける男が、押し殺した声で言う。他の男が反対側の腕をつかんできて、私は両側から拘束される形で歩かされた。
「……なんの真似? あなたたちは……」
「黙れ! さわぐなと言っただろう、この場で殺されたいか」
聞こうとすると、暴力的な声で脅しつけられる。私を見る男たちの目はひどく剣呑で敵意にあふれていて、これはちょっとまずいと内心焦った。
さっき見せられたナイフは戦闘用のものなどではなく、ごく普通の小刀だったし、男たちに訓練された雰囲気はない。どう見ても荒事とは無縁の文官っぽいが、そうはいっても成人した男が六人だ。とうてい私に対抗できるものではない。このままついていくと心楽しくない未来が待ってるだろう。なんとか逃れるすべはないかと、引きずられながら私は周囲を見回した。
人目がない瞬間を狙ったのだろうが、それでもここは行政の中心地、二の宮の廊下だ。誰かは通りがかるだろう――と期待して視線をめぐらせていたら、離れた場所に女官が数人いるのが見えた。
二の宮勤めの女官たちだ。一の宮の女官も混じっている。遠目でもわかる知り合いの姿に期待して、私は足を止めた。
「ミセナさん!」
声を張り上げ、彼女を呼ぶ。そばで舌打ちが聞こえた。
「さわぐな!」
「人を呼んでください! 警備の騎士を――」
「うるさいっ」
側頭部に衝撃がきた。半瞬遅れて痛みを感じる。足を止めた私を、男たちは強引に引きずった。文字通り床に足を引きずり、物のように運ばれる。あきらかに拉致されそうになっている私の姿を、女官たちが見ているのがわかった。
彼女たちに止めに入ってもらおうなんて思わない。そんな危険な無茶は頼まない。でもどこか近くに警備の騎士がいるはずだ。それを呼んでくれるだけでいい。教育された女官たちなら、きっと素早く判断して動いてくれるはず。
――そう願ったのだが、彼女たちが動くようすはなかった。
なにごとか囁き合いながら、引きずられていく私をただ眺めている。ミセナさんもその場から動こうとはしなかった。
……そうか、彼女たちも……。
驚きを感じる前に理解して、絶望に似た脱力感をおぼえた。
抵抗もできない私を、男たちは小さな通用口から外へ連れ出す。人気のない場所を選んで移動し、たどりついたのは点在する宮殿建物のひとつ、ごく小さな休憩所だった。
すぐ近くに崖がある。はるか高みから流れ落ちる滝のそばに張り出し、絶景を楽しめるようになっている。ひんやりした水の匂いに包まれる場所は、夏の避暑には最適だけれど、今の時期は寒々しいだけで人気がない。他の建物とも離れているので、ここで多少騒いでも誰にも気付かれそうになかった。
人目につかない場所にやってきて、男たちは私を乱暴に放り出した。冬の間掃除していなかったのか、少し埃っぽい床に私は転がった。
「女官たちに見られたぞ。大丈夫か」
「あいつらも知らん顔してたじゃないか、ほうっておけ」
「それよりこいつだ。妙な真似をしないうちに、さっさとやるぞ」
起き上がろうとした身体をうつ伏せに押さえつけられる。遠慮のない力で押されるから、床と挟まれて痛いし苦しい。いきなり殺す気だろうか。だめもとで大声を出そうかと思ったら、先手を打つように髪をわしづかみにして引っ張られた。
痛い、と思った次の瞬間、近くで嫌な音がした。
ぱらぱらと顔に髪がかかる。何をされているのか理解し、驚いている間にさらに髪を引っ張られる。専用の鋏などではなく、多分切れ味もあまりよくない小刀で強引に髪を切られるのは、とにかく痛かった。引っ張られてたくさん抜けたと思う。髪そのものは切られたところで痛くもかゆくもないけれど、頭皮への刺激が強すぎてうめいてしまった。
ようやく男たちの手が離れ、どうにか半身を起こした私の周りには、長い髪が散乱していた。
こんなに伸びてたんだなあ、なんて場違いなことを考えたのは、あまりの事態に思考が少し麻痺していたのかもしれない。美容院を思い出したり、なんだか呪われそうな光景だとか思ったりした。
頭がとても軽い。押さえる手が離れたからだけではないだろう。
「いいざまだ。魔女は髪に魔力を溜めると聞くからな。これで何もできんだろう」
小刀を持った男が私をせせら笑う。こっちではそんなふうに言い伝えられているのか。そういえば日本にも、髪に霊力が宿るという話があったっけ。
魔女……ね。
「なるほど、あなたたちは例の馬鹿げた噂を真に受けた、純真な人たちというわけね」
顔や肩に張り付く髪を払い落としながら、私はため息混じりに言った。
「妖術なんて本気で信じる人いるのかしらと思ったけど、案外みんなおとぎ話が好きなのね」
立とうとしたらまた衝撃がくる。肩を蹴られてふたたび床に倒れ込んだ。
「ふん、そんな言い逃れができると思うなよ。お前が鳥や獣をあやつったと、じっさいに見た連中が証言しているんだ」
「無害な小娘の姿をして、まんまと王宮に入り込んだ毒蛇め。本当の姿はどんなだ? 老婆か、それとも醜い怪物か。火であぶれば正体を見せるのか?」
「陛下をたぶらかし、ロウシェンに災厄を持ち込んだおぞましい魔物め。戦もきさまのせいなんだろう」
口々にののしりながら、男たちは私を蹴り、踏みつける。顔や頭も蹴られた。言い返す余裕もない。まずいと思うが、六人がかりでやられては逃げることもできない。床についた手を踏みにじられ、痛みに思わず声が出た。
「たまたま魔物が棲みついたとも思えんな。お前はエランドが送り込んできたんだろう。エランドがらみのさまざまなできごとに、お前が関与していたのはわかっている。昨年のリヴェロ公暗殺未遂といい、先だっての戦といい、危機が起きた時には決まってお前の存在があった。陛下や重臣に取り入って得た情報を流し、わが軍を罠にはめようとしたんだろう」
そのまま踏み続けられる。指が折れると困るので手を握り込もうとしたけれど、気付いた男はさらに体重をかけてきた。本気で骨が折れそうな痛みに、食いしばった歯の間からうめきがこぼれた。
――私が妖術を使い人や動物をあやつるという噂は、下火になるどころかますます広がっている。冷静に聞けば笑ってしまいそうな話を、時におもしろおかしく、時には大まじめに、貴族や役人たちが噂し合っていた。火種をまいたのは多分デュペック候だろうが、これほど一気に広がった理由は、もとから私に反感を抱いていた連中が噂に便乗したせいだろうとオリグさんが言っていた。
もとは素性の知れない平民の孤児が、ハルト様に庇護を受けて実質的な養女にまでなったことを、表立って批判はしなくても面白く思わない人間は多い。身分や血筋を重視する貴族は、ほとんどが内心で私を嫌っているだろう。でもハルト様を批判することにもつながるから、これまでは公然と口にすることができなかった。内心の不満を隠して愛想をふりまいていた人々にとって、今回の噂はもってこいの口実だったのだ。
私が妖術を使うだなんて本気で信じている人がどれだけいるのかはわからないけれど、敵意をむき出しにしている人間なら、そこら中にあふれていた。
貴族や役人だけではない。もうなじんだと思った一の宮の女官たちですら、私に対してぎこちない態度を見せるようになっていた。もっとも顕著だったのは、ミセナさんだ。
噂好きですぐ乗せられてしまう彼女は、本気で私を気味悪く思ったらしい。顔を合わせるのも避けられるようになっていた。もともとその程度の関係で、つまり私の対人能力が原因なんだろうが……でもこんな状況で見捨てられるとまでは思わなかったな。私が楽観的すぎたのか。
身体に与えられる痛みよりも、精神的なダメージの方に負けそうになる。どうせ私は人に嫌われるんだ、誰にも理解なんかしてもらえないんだって、以前ならさっさとあきらめていたところだ。――でも、負けるなと、自分に言い聞かせる。
理解されるも、されないも、すべて自分しだいだ。努力しなければ理解もされない。待っているだけでは何も得られない。理解されたければ自分から動けと、優しく厳しい人たちに教えられた。投げ出してはだめだと、あきらめてしまいそうな自分を励ます。
「……矛盾していると、気付かないの」
私は痛みに耐えて、なんとか声を絞り出した。
「なに?」
手を踏む男の顔を見上げる。負けない。怯まない。目をそらさず、しっかり見据える。
「私が本当に魔女だったら、そんなまわりくどいことをせず、ロウシェンはエランドに降れって命じるわよ。本当に人をあやつれるなら、そうするのがいちばん手っとり早いでしょうが。わざわざ手間暇かけて、あげく失敗するような無駄なことを、する理由がどこにあるの」
「…………」
「ここまで連れて来られる間にも、あなたたちをあやつることはできたでしょう。髪だっておとなしく切らせたりしなかった。目の前に答がぶら下がっているのに、なぜ気付かないの。私が魔女だというあなたたちの主張と、この状況は、矛盾しているでしょう」
ふと、手の痛みがやわらぐ。戸惑いを顔に浮かべた男が足から力を抜いていた。けれどすぐに、その身体を押し退けて横から別の男が割り込んだ。
「何をしている。そんな言い訳に耳を貸すな」
その男は私の襟元をつかみ、強引に吊り上げた。
「口だけは達者だが、今さらごまかしが通用すると思うなよ」
「どこがごまかしよ。事実を言ってるだけでしょう。そもそもいい年した社会的地位もある大人の男が、魔女だの妖術だの痛いこと大まじめに言ってんじゃないわよ。そんなファンタジーを口にして許されるのは十歳までよ」
「だまれ、きさまの言い分なんぞ聞いていない」
身体をひっくり返され、仰向けになる。男は私の上に馬乗りになってきた。
「これ以上痛い思いをしたくなければ、正直に答えろ。エランドはなぜああも戦える? 流された罪人の末裔が、なぜあれほどまでに力を持った。エランドには魔物が棲んでいるのか? 北の辺境にいったい何がある? 答えろ」
なるほど、それが目当てかと私は息をつく。
「伝えられている伝説が史実のままだと、無条件に信じないことね。歴史なんて真面目に研究しても次々新事実が発見される分野なんだから。時の為政者によって故意に隠されることもある。エランドは罪人の流刑地だという認識から、まず見直せば?」
「よけいなことはしゃべるな、聞かれたことに答えろ!」
頬をはたかれる。口の端に痛みを感じ、血の味がした。切ったか。
「ちゃんと答えているわよ。これまであなたたちが信じていた言い伝えは、けっして明確な根拠に裏付けされたものではない。単なる伝承で、真偽は定かではない。文書という形で記録を残すこともしなかった時代の話なんだから。じっさいははじめからエランドにはある程度の数の人が渡り、生活できるだけの力があったんでしょう。そこへ罪人が流されてきたり、よそから犯罪者が逃げ込んできたりしたのかもしれないけど、基本は他の国と変わらない成り立ちなんだと思う。だから、長い歴史を経て国力も蓄えたし、技術も向上させたんでしょう。見方を変えれば、なんの不思議もない普通の話よ」
「うそをつくな! 普通の国ならば、穢れた民などと言われることはない。理由があるからそう呼ばれてきたのだろう!」
「そうね、たしかに理由はあるでしょう。でもそれは、本当に穢れているとか、呪われているとかではなく、もっと他の理由かもしれないと考えられないの? エランドに限らず、この世にはいろんな形の差別がある。生まれた土地や部族を理由に差別される人たちもいる。そもそも身分制度も差別を正当化するためのものよ。人と人の間に優劣をつけることで自分が利益を得たり民の不満をそらしたり、権力者の思惑によって人為的に生み出されたものにすぎないのよ。穢れた民なんていうのは、そういう真実をごまかすための口実でしょう」
「世界のはじまりの地であるシーリースでも、最も古い歴史を持つ我らがロウシェン王朝を侮辱するか!」
男が拳を振り上げる。だめだ、全然話が通じない。信じる歴史を否定されることは、容易に受け入れられないものなのか。私は目をつぶり、歯を食いしばる。骨や歯が折れないといいのだけれど――と祈ったが、悲鳴を上げたのは私ではなかった。
「ぎゃあああああっ!」
間近でおそろしい悲鳴があがり、私を拘束する手が離れる。驚いて目を開ければ、私の上に乗った男が自分の腕を抱えてひいひい言っていた。手から血が流れていると気付いた時、男の身体が私の上から蹴り落とされた。
のしかかる重みが消え、目の前の視界が開ける。抜き身の剣を手に、赤毛の少年が立っていた。
「あ……うわあっ」
何を血迷ったかナイフを振りかぶって襲いかかった男は軽くかわされ、腹部に膝蹴りをくらった。身体を折ってえづく首筋に剣の柄が打ちつけられる。あっという間に床に伸びてしまった。
「ひっ」
逃げようとした男たちは、まだましな判断をした方だ。でも逃げられるわけがない。鈍重な文官たちはあっさり追いつかれ、それぞれほとんど一瞬で昏倒させられてしまった。
残る一人は逃げそこね、必死に周囲を見回す。血走った目が私をとらえたと思ったら、猛然と飛びついてきた。
「うう、動くなっ。こっ、こいつを殺すぞっ」
ぶるぶる震える手で私にナイフを突きつける。正直さっきよりずっと怖い。はずみでうっかり刃が当たりそうだ。
榛色の瞳がこちらを見た。冷たい眼光に私をとらえる男がすくみあがる。そこへ、横手から別の攻撃が加えられた。
「えい! えいえいえいっ」
細長い木の棒が男の頭をぽかぽか叩く。半分びびった掛け声を上げて必死に箒を振っていたのは、若い女性だった。
「ティ、ティトシェ様から離れなさいっ。このこのこのっ」
泣きそうな顔でなんとか男を追い払おうとしてくれる。うれしいけれど危ない、と思ったら案の定男が箒の柄をつかまえた。
「きゃあっ」
引っ張られて前のめりになったミセナさんの身体を、私はあわててタックルの勢いで抱きとめた。取り上げた箒を投げ捨て、男がナイフを振り上げる。
「この、女どもが!」
「きゃーっ」
私を守るというより、ただ反射的にだろう、ミセナさんが抱きついてくる。いやいやいや、逃げようよ。そんなにしがみついたら動けないって。
でもふらふらの文官が私たちに危害を加える間、のんびり放置されるはずがなかった。後ろから伸びてきた大きな手が男の頭をがしりとつかむ。それだけで身動きができなくなり、男はその場でもがいた。
「女にしか強く出られんとは、情けないかぎりだな。真に国を思い、危機を愁うならば、このような卑怯な闇討ちではなく公の場で堂々と問い質せばよかろうに。結局きさまらが気にしているのは、国のことでも民のことでもない、己の保身だけだ。姑息な小物が、馬鹿げた真似をしおって」
普段の陽気な大声が嘘のように、アルタは低く静かに言う。表情のない顔は、逆に彼がものすごく怒っていることを物語っていた。
ボールみたいに軽々とつかんだ頭を振り、アルタはすさまじい勢いで男の身体を床に叩きつけた。大きくバウンドした身体は、そのままぴくりとも動かなくなった。
「ひゃああ――ア、アルタ様、殺しちゃったんですかぁ」
私にすがりついたミセナさんが腰を抜かしそうになる。こちらを見たアルタは、眉を上げてみせた。
「死んどらんよ。目を回しただけだ」
声に明るさが戻っている。ミセナさんがほーっと息を吐いた。私もちょっとびびった。死んでもおかしくない勢いに見えたけど、本当に大丈夫かな?
動かなくなった身体を見下ろしていると、不意に頬にふれられびくりと飛びのいた。トトー君がそばに来ていた。
「……ごめん、痛かった?」
どうやら血をぬぐおうとしてくれたらしい。切った場所を思い出し自分の手を当ててみれば、頬や唇が腫れていた。
「ううん、驚いただけ。ごめんなさい。助けてくれてありがとう。どうしてここがわかったの?」
「ミセナが知らせにきたから」
それだけ言ってトトー君は外へ出ていく。私はミセナさんを見た。目が合うと、彼女は今度こそ泣き出した。
「ティ……っ、ティトシェ、様……っ、こっ、こんなひどいことを……っ」
「大丈夫、おかげで深刻な事態になる前に助かりました。ありがとうございます」
「な、なに言ってらっしゃるんですかっ。おもいきり深刻じゃないですかっ。こんな、こんな……こんなことにいいいぃ」
彼女の視線をたどって、何のことを言っているのか理解する。ばっさりやられたもんね。見た目のインパクトは大きいだろう。
「も、申しわけありません。私が……っ、もっと早く、あの時すぐに動いていたら……申しわけありませんー」
おいおい泣かれて困ってしまう。そんなに彼女が謝る必要はないと思うんだけどな。
「申しわけないなんて、とんでもない。助けてもらって感謝しているのに。ミセナさんは何も悪くないですよ、むしろ恩人です。本当にありがとう」
「……違いますうぅ……私、あの時ちょっと迷ってしまって……誰も止めようとしないし、知らせに行こうともしないし……止めようとしたら、私まで悪く言われるんじゃないかと思って、動けなくて……でも、なんかすごく危ない雰囲気で、悪口とかそういう次元じゃ済みそうにないと思って……さ、最初から、止めるべきでした。間違ってました。本当にごめんなさいぃ」
「いえ、そんなに思い詰めなくても」
「いや、そりゃあ嬢ちゃんが間違ってるな。見て見ぬふりをするのは、共犯と一緒だ。ミセナはたしかに責められる行いをした」
アルタの言葉にミセナさんはびくりと震える。そんなに厳しくしなくても、とちょっとにらめば、アルタは肩をすくめた。
「悪いことは悪いと認められなきゃいかんぞ。身内だからってなあなあにはできんと、イリスの時にも言っただろうが。まあ今回に関しては、すぐに思いなおして知らせにきたから、差し引きで不問にするが」
ミセナさんの目からまた涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。彼女はうなずき、深く頭を下げた。
「申しわけ、ありませんでした……」
「……はい」
許すなら、まず罪を認めないといけないんだな。私は彼女の謝罪を受け入れ、うなずいた。
「でも、本当に感謝しています。ふたりを連れて来てくれて、ありがとう」
噂にすぐ乗せられてしまう、ちょっと軽い人。けれど悪人ではないし、私を心底嫌ったわけでもなかったんだ。危ないと知れば心配してくれ、助けようともしてくれる。むしろ嫌われたと決めつけ、彼女を悪者にして被害者になっていた私の方こそ、謝らなければいけないだろう。
「ごめんなさい」
頭を下げた私に、ミセナさんはわけがわからないようすできょとんとしていた。
トトー君が戻ってきて、濡らした手巾を私の頬に当ててくれた。熱を持って痛む場所に、冷たさが気持ちいい。お礼を言って手巾を借り、私は殴られた場所を冷やした。
「ミセナ、誰か呼んでこい。こいつらを連行せにゃならん」
「はい」
アルタに指図されて、今度はミセナさんが出て行く。トトー君は私の他の怪我を確かめていた。
「こいつらの独断か後ろに誰かいるのか、調べんとな。やれやれ、国の外も中も問題だらけだ」
「……すみません」
「嬢ちゃんは被害者だ。注意されていたにも関わらず一人で出歩いたことについてはあとでお仕置きだが、まずは怪我の手当てが先だな。ずいぶん平然としているが、痛むだろうに」
大丈夫だからいいと断ったのに、トトー君に抱き上げられてしまう。アルタのにやにや笑いと、集まってきた人々の視線に辟易しながら運ばれて、一の宮に帰り着いたあとはお決まりの大騒ぎだった。医者が呼ばれハルト様が駆けつけてとすったもんだのあと、やっと静かになったと思ったら最後に真打ちが飛び込んできた。
包帯だらけになった私を見て、イリスは絶句していた。




