戻ってきた日常
一日だけの短い滞在を終え、隣国の王は慌ただしく帰っていった。
見送るこちらもなにかと慌ただしい。幸いにして戦闘による被害は少なく、軍や町を立て直す必要はほとんどなかったが、ひと月以上も公王が不在だったのだ。決裁や指示を求める者がひっきりなしに訪れ、クラルスは執務室からほとんど出られずにいた。ロウシェンの一行を見送ったあと、すぐさま戻って書類に向き合う。囚われの身を脱したはずなのに、いまだ自由は遠かった。
「ハルト公らはお帰りになりましたか」
張りのある声とともに入ってきたのは、従兄のエーゼルだ。どこかで預かってきたのか、手には書類を持っている。それをうんざりと見ながら、クラルスは手元の書類に署名して印を押した。
「ああ、つい先程な」
「そうですか。ご挨拶くらいすべきかと思っておりましたが、間に合いませんでしたな」
未処理の書類は、いくつかの山に分けられている。それを見回し、エーゼルはいちばん優先順位の低い山の一番下に、持ってきたものを入れた。
「あちらもずいぶんと急いで帰られたものですな」
「向こうもなにかと忙しいからな。ハルト殿は、私以上に事後処理に追われることだろう」
こちらに遠慮したのもあるのだろう。重傷の騎士くらいは残していってもよかったのに、龍船で移動できるからと連れて帰った。恩人たちにきちんと礼をつくせていないことが、クラルスの気がかりになっている。
「ハルト殿はもちろん、イリスやティトセにもきちんと礼をせねばならなかったのに、ばたばたして、ろくに顔も合わせられないままだったな」
「なに、じきにまたお会いする機会はありましょう。ハルト公とユユ姫の婚礼が控えておりますからな」
なぐさめるつもりだったのか、それとも追い討ちか、エーゼルの一言はクラルスの胸を突き刺した。できれば忘れていたいことだった。
「……婚礼、か」
「本来なら年が明けてすぐでしたが、戦のせいで延期になりましたからな。代理ではなく、陛下が直接参列なさって祝辞を贈られるのがよろしいでしょう。謝礼も、その時になさればよろしい」
「そう、だな……」
ペンの動きが止まる。クラルスは重い息を吐き出した。
かの女神が、もうじき完全に手の届かないところへ行ってしまう。わかっていた話なのに、いざとなると落ち込まずにはいられない。女々しい奴めと己に腹を立てつつも、切なく肩を落とすクラルスだった。
その肩を、エーゼルが叩いてはげます。
「そう落ち込まれず。ユユ姫に婚姻を申し込まれなかったのは、陛下ではありませんか。だまって見守ることを選ばれたのでしたら、最後まで笑顔で祝福してさしあげなさい」
「わかっている」
ため息まじりに答えて、書きかけの書類を終わらせてしまう。申し込まなかったというより、申し込めなかったのだ。正式に申し入れれば、ロウシェンは断らなかっただろう。まだハルト公と想いを交わす以前であったなら、ユユ姫は恋心をあきらめてアルギリへ輿入れしてきたはずだ。そう、彼女を妻にすることは可能だった。
だが、それをして本当に満足できただろうか。彼女の想いを知りながら踏みにじり、強引に自分のものにしてしまって、心から笑えたか? 他の男への想いを抱いた妻を、毎日どんな気分で見ればよいのだ。
クラルスにはできなかった。政略で嫁いできた妻に愛してもらえる自信など、かけらも持てなかった。
格好をつけたのではなく、尻込みしていただけだ。そんな自分がとことん情けなく、だからユユ姫にも振り向いてもらえなかったのだと、落ち込み出したら止まらない。気持ちは坂をどこまでも転がり落ちていく。
「こちらとしては、いっそ開き直ってユユ姫に求婚していただいた方がよかったのですがね。ロウシェンとの絆を深めるのに、これ以上の手はありません。おふたりの歳もちょうどよく、実に申し分のない状況でしたのに」
勝手なことを言うエーゼルを、ちらりとにらむ。それができればこんなに落ち込んでいない。自分が女あしらいに慣れているからと、気楽に言ってくれるものだ。
「どうせ開き直るならば、振られ男として開き直る方がましだ。少なくとも、今後悩む必要はないからな」
どうにか虚勢を張って、クラルスは次の書類に手を伸ばした。年下の主君であり、弟のような人を、エーゼルは苦笑しつつも微笑ましく見守る。もっと強引になってもよかろうと思う気持ちもあるが、この生真面目な優しさが好ましかった。
しかし、それはいいとして、主君の結婚については、今後も検討せねばならない案件だ。
「ユユ姫がだめとなりますと、他に誰かよい相手はおりましたかな。王族で未婚の姫はユユ姫だけでしたから……王家に近いフェルナリス家は男子ばかりですし、クロシエル家はどうも人品がふさわしくなさそうですしな。リヴェロから迎えることを考えるか……それか、いっそあの娘をもらいますか?」
「どの娘だ?」
さっさと話を進めるな、と思いながらクラルスは聞き返す。書類の内容を確認しながらなので、半分聞き流しかけていた。
「ハルト公が連れておられたあの娘ですよ。今回陛下と一緒に囚われていた――名は、何と言いましたか? 聞けばハルト公は、我が子同然に扱っておられるとか。正式に養女にしていただけば、求婚するに不都合はありますまい」
思わず力を入れすぎた手元で、ペン先が紙の上を滑り、書類に汚れを作った。
「……何を言い出されるのか。見ろ、失敗してしまったではないか。ええい、新しい紙を」
侍従に言いつけるクラルスを、エーゼルは止めた。
「そのくらい、問題ないでしょう。わざわざ書き直す必要はありません」
「こんな不細工なままで渡せるか」
「細かいことを気にしていられる状況ですか。さっさと処理していかないと、いつまでたっても終わりませんよ。いいから、もうそのまま署名なさい」
「いやしかし、これでは気になって……」
「こだわるべき部分と適当でいい部分があるんです。全てを完璧になどと考えず、抜きべき手は抜きなさい。でないと終わらんと言っているのです」
強引に押し切られて、渋々クラルスは署名する。さっさと取り上げられた書類に、未練の目を送った。
「……ティトセは多分イリスと恋仲だぞ」
「おや、そちらも売約済みですか。いや、あきらめるのはまだ早い。多分、なのでしょう? それに一介の騎士と公王とでは、比較になりませんしな」
「勝手に決めないでくれ。ティトセが身分に釣られる女なら、とっくにカーメル殿が手に入れておられるだろう。そもそも、私はあんな子供相手にどうこうする趣味はない」
「陛下と二歳しか違わないと聞きましたが? たしかに見た目は幼いですが」
「その見た目が重要だ。容姿をとやかく言う気はないが、貧弱な体格というか、とにかく大人には到底見えないところは大問題だろう。私は正直、あれに執着するカーメル殿が理解できぬ。イリスも、あんな顔して私より年上のくせに。なかなか面白い娘だとは思うが、それとこれとは別だ。私はあれを、女のうちに入れる気はない」
一生懸命に言い返されて、こらえきれずにエーゼルは肩を揺らした。彼とて、本気で言っていたわけではない。どうせならばちゃんとした血筋から公妃を迎えたいものだ。ただ主君の反応が見たくて、言ってみただけだった。
「生まれを問題視なさるのではなく、あくまでも見た目年齢重視ですか。陛下らしい」
頑迷なほどに道徳観を守ろうとする主君に、呆れる思いと、だからこの人を支えていきたいという思いがある。彼の周りの皆が似たように感じているところだ。自分はいくらでも替えの利く存在だと思い込んでいるのは、当人だけである。
「放っておいていただきたい。それより、さきほどの書類は? 急がなくてもよいものなのか?」
不機嫌そうにしながら、クラルスが話を変えてくる。エーゼルは肩をすくめた。
「ええ、いちばん最後でかまいませんよ」
「本当にか? あなたのことだから少々気になる。どういう内容だったのだ」
「なに、ただの結婚許可申請です」
「誰の?」
「私の」
「……そんなもの、口頭で十分だろう! 許可する、以上!」
「いや、ここはきちんと手順を踏むべきところですよ。それに相手が誰かくらい聞いてください」
「聞かんでも知っとるわ! それとも他の女に乗り換えたとでも? それならば許可は出せぬが」
「いやまあ、許嫁殿ですけどね」
「今すぐ結婚してこい!」
山の下から書類を引っこ抜いて、やけくそ混じりにクラルスが署名する。いつもの光景に侍従は喜びを隠し、なんだかんだで仲のよい従兄弟たちのために、お茶の用意をしに向かった。




