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願いのしるし



 いつからか、どうしてかなんてわからない。

 気がつけば、誰よりも特別な子になっていたよ。




 チトセから教えられたとおり、見回りの交代は深夜に行われていた。その隙をついて、離宮内に侵入する。

 竜騎士は日常的にエンエンナ山の断崖で訓練しているから、さほどの高さもない塀を越えるくらい簡単だった。建物の外壁も少しの手がかりでよじ登ることができる。密偵か暗殺者のような特技で騎士としては正道ではないかもしれないが、こうして役に立っているのだからやはり必要な訓練だ。なんでもできないよりできる方がいい。

 鍵の開いている窓を見つけて内部へ侵入する。なければ煙突から入ることも考えていたが、苦労せずに済んで幸いだった。

 事前に入手した見取り図で、離宮の構造は頭に叩き込んである。僕はまず、使用人が使う部屋をめざした。

 襲撃を受けた時、護衛の騎士や侍従などはほとんど殺されたが、雑事の世話をする女官はそのまま捕らわれていると聞く。クラルス公の世話もしているはずだから、見つければ彼の居場所をたしかめられるだろう。

 明かりのついている部屋があり、複数の気配がしたので、用心して近づいた。扉の隙間から覗けば、数人の男が一人の女性を暴行している最中だった。

 全裸で組み敷かれる女性はおそらくこの離宮の女官だろう。苦しげなようすで、意識があるかはわからない。エランド兵たちはかまうようすもなく、下卑た笑い声を立てながら彼女を犯している。今すぐ飛び込んで全員斬り伏せたい衝動を、握り込んだ拳に爪を立ててこらえた。

 ……予想はしていたことだ。こういう状況になって、女が無事でいられるわけがない。

 奥歯をかみしめ、その場を離れた。助けてやりたいが、今それをするわけにはいかない。他にも捕らわれている者はいるし、なによりクラルス公を救出できないかぎり問題は解決しない。僕が今すべきなのは、クラルス公の居場所と状況を知ることだ。騒ぎは起こせない。

 すまない、と哀れな女性に詫びて、僕は先を急いだ。

 何度かエランド兵と行き合いそうになり、物陰に身を潜めてやりすごす。冷や汗をかきながらようやくもぐり込めた使用人たちの部屋で、僕は一人の女官を揺り起こした。

「静かに、僕はエランド兵じゃない。危害は加えない」

 悲鳴を上げかけた女官の口を押さえてささやく。若い娘と違いかなり年輩のその女官は、さすがに落ちつくのが早かった。理性の戻った目で不審げに僕をうかがう。

「クラルス公の御在所と、どういう状況であられるかを確認したいんだ。知っていたら教えてくれないか」

 ロウシェンの騎士だとは告げず、チトセから預かった指輪を見せる。アルギリ王家の紋章を確認した女官は、たちまち身を乗り出してきた。

「陛下を、お助けしにきたのですか」

「そのために動いている」

「ああ……!」

 感極まって声が大きくなるのを、あわてて制した。他の女官が起き出して、みんなで騒いだらあっという間にエランド兵がかけつけてくる。落ちついてくれないと困る。

「静かに。今は、状況を調べるために潜入してるんだ。まだ行動は起こせない。たのむから騒がないでくれ」

「そのような……! もう何度も来ているではないですか。いつになったら行動すると言うのです」

 アルギリ側も当然クラルス公奪回のために動いている。これまでに何度も救出計画を立てながら、どれも成功していない。失敗続きだ。それを、この女官は知らないらしい。

 アルギリ軍はやり方が下手だとホーンが言っていた。堂々たる軍同士での戦いには強くても、ひそかな工作活動という方面は不得手なようだ。町にもぐり込んだ連中も動きがいまいち不自然なため、接触は最低限にとどめていた。でないとこちらまでエランド側に目をつけられてしまう。彼らと協力して動くという選択は、早い段階で捨てていた。まだ僕らだけで動いたほうがましだ。

 お国柄というか、リヴェロと対照的だ。仮に人質にされたのがカーメル公だったなら、逆にその立場を利用して内部からエランドを突き崩すだろう。あれは怖すぎて人質にできる相手ではない。僕だったらさっさと殺すか、もっと厳重に幽閉し、その場所も隠すだろう。アルギリがもっとも(くみ)しやすいと目をつけられたのには納得がいった。

 オリグが連絡もろくに取れないくらい行方をくらましているのも、そのあたりが原因なんだろうな。おかげで僕らまで彼と会えずにいるが、船長がなんとか連絡すると言ってくれたのに期待するしかない。チトセにどう伝えようか考え、とりあえず彼らの無事だけでも知らせようと思ったのに、結局まだ言えずにいる。

 チトセは一生懸命になると、自分自身の安全を二の次にしてしまう。ひどい時には命すら投げ出そうとする。ハルト様との約束を何度も念押しすることで自重させているが、油断するとすぐ危うくなるから気が抜けない。うかつに情報を与えると、どんな動きに出るかと不安になった。

 ここ数日、エランドの兵士と親しくなって情報を引き出そうとしているチトセを、僕ははらはらして見守っていた。

 男が苦手で、なれなれしく触られるのが大嫌いなくせに。粗野な物言いや態度も嫌いだろう。あんなふうにくっついて、いやらしい目で見られて、内心どれだけ悲鳴を上げていることか。

 それなのに懲りずに続けると主張する。頑張る意欲は理解するが、もうやめてくれと思った。いくらホーンやメイリがそばにいるとはいえ、あぶなっかしくてしかたがない。そう思っていたら案の定、無理やり連れていかれそうになった。これ以上続けさせるわけにはいかない。オリグが動いていることを知らせ、別のやり方を考えようと――提案するつもり、だったのにな。

 ここへ来る直前のやりとりを思い出して、自己嫌悪に陥った。チトセを心配したのも嘘ではないが、結局のところ僕は他の男が彼女にべたべたしているのが不快でたまらなかったんだ。もうこれ以上許せなかった。その怒りと苛立ちを全部チトセにぶつけてしまい、話をこじれさせてしまった。オリグのことも伝えられず、チトセを落ち込ませたまま来ることになった。彼女より八つも年上のくせに、何をやっているのだか。自分の情けなさにため息も出てこない。

 クラルス公の状況を確認したら、すべての情報を彼女にも伝えたうえで、もう一度いっしょに考えよう。どう動くのがいちばんいいか、ホーンの意見も入れながら決めれば、きっといい策が見つけられるはずだ。

 感情のままに彼女を傷つけてしまったことを謝って、僕がどれだけ心配しているかをわかってもらって……それから……。

 興奮する女官をなだめすかして、どうにかクラルス公のいる部屋を聞き出す。若い女官はみな兵たちの慰みものとして連れていかれ、公の世話をしているのはここにいる数人の年輩の女官だけだったので、警備のようすなどもよく知っていた。公と接触するのは難しそうだが、いちおうの目的は果たせるか。

 ――そう思っていた最中に、突然離宮内が騒がしくなった。目をさました他の女官たちにも、僕が敵ではないことを理解させ、静かにさせる。耳を澄ませていると、どうやら離宮に僕以外の侵入者があったらしいとわかった。

 たぶん、アルギリ軍の連中だな。あっさり見つかって騒ぎになるなんて、本当に下手なやつらだ。だったら最初から動かないでほしい。

 ここにもエランド兵がやってきたらまずいな。どこか隠れる場所はないかと尋ねると、女官は僕に女物の衣装を差し出してきた。

 女官に変装してクラルス公のもとへって、いくらなんでも無理だろう。女顔に生まれついたことでさんざんからかわれてはきたが、成長期以来本気で女に間違われたことなんてない。入隊したばかりの新入りの頃、先輩に無理やり女装させられたこともあったが、予想外な気持ち悪さにみんなひきつっていた。だから顔だけ女っぽくても無理なんだよ!

 そもそも女の服なんて寸法が合わなくて着られない。無理だ、いややれと押し問答をしていたら、駆けつけてくる足音が聞こえた。僕はあわてて布団を引っかぶり、入り口に背を向けた。

 ……肝が冷えたが、どうにかごまかせた。夜で暗かったのが幸いだ。戦わずに済み、兵士たちが去った後、僕はどっと息をついた。

「おい、仕事だ」

 去ったと思った兵士がまた戻ってきたので、あわてて布団をかぶりなおす。なんでも侵入者がクラルス公の寝所で斬り捨てられたとかで、部屋が血まみれになったから掃除しろという話だった。目の前で配下を殺されたのか……クラルス公、お気の毒に。

 女官が目を輝かせて好機だと僕に言ってきた。交換用の布団やシーツを持ち込むから、その中に隠れて侵入しろと言うのだ。入って、その後どうするんだと思ったが、僕もクラルス公が今どうしておられるかは気になった。静かになった後窓から脱出すればいいかと考え、女官の提案に乗ってクラルス公の部屋へもぐり込んだ。

 ――その後の細かいことは割愛するが、クラルス公ご自身はご無事だったのでひと安心だ。ただ侵入者騒動で明かりと警備が増やされ、予想以上に脱出が困難になってしまった。結局昼まで隠れひそむ羽目になり、皇帝が大勢部下を連れて出ていったおかげで、ようやく隙を見つけて離宮から脱出できたのだった。クラルス公から託された御璽と勅書をたずさえて。

 彼は自分を見捨てさせるために決意したようだが、果たして受け取ったアルギリ側はどうするだろうな。僕はそう簡単に見捨てたりなんかしないと思うのだが。

 でも軍は動かしやすくなるだろう。急いで戻り、ホーンに言ってアルギリ側と連絡を取らねばと宿を目指す途中で、皇帝が出ていった理由を知った。

 まんまとおびき出されたアルギリの兵士たち。そしてその騒ぎに巻き込まれている、チトセと仲間たち。

 皇帝がチトセを捕らえているのを見た瞬間、僕は飛び出していた。もと飛竜隊長としてあるまじきことに、頭に血が上っていた。さわるな、僕のチトセに手を出すな!

 しかし状況はあまりに不利であり、そしてくやしいことに、僕の剣の伎倆は皇帝に劣っていた。以前後れをとった黒騎士が、今目の前にいる相手だと悟る。結果はあの時よりもひどかった。チトセが逃げるまでの時間をかせぐこともできず深手を負い――橋から落ちる寸前に見えたのは、ふたたび皇帝の腕に捕らわれた彼女の姿だった。

 ああ――チトセ……チトセ、チトセ、チトセ――

 僕はどうなってもいい。どうか、彼女だけは助かってくれ。

 願うことしかできない身は、川面に叩きつけられ流れの中に呑み込まれる。痛みと衝撃で泳ぐこともできず、意識がうすれていくのを感じる。だめだ、このままでは――誰がチトセを助けるというんだ。僕がしっかりしないと――そう思うのに、身体が動かない。

 チトセのことだけを思い、必死にもがいていると、水の底で何かがうごめいた。

 それは見る間に近づいてくる。なんだろう、巨大な影だ。魚にしては大きすぎるし、体長もありすぎる。川がそのまま生き物になって動いているような……これは、いったい何だ?

 人よりもはるかに大きな何かは、僕を乗せて押し上げる。水面から顔が出て、たちまち僕はむせた。あやうく溺死しかけていた身体に空気が送り込まれ、ひゅうひゅうと喉が鳴る。ふたたび水没しそうになった時、伸びてきた腕につかまえられ、引き上げられた。

「しっかりなさい」

 力のない淡々とした声に目を開ける。僕は川岸に繋留されている小舟のひとつに引き上げられていた。僕を助けたのは……なんだ、こんなところにいたのか……。

「オリグ……チトセが……」

「承知しております。このまま、あなたを捕らえたと報告してやつらの元へもぐり込みます。そこでちゃんと治療を行いましょう。急所は外されているようですから、あなたさえ頑張れば助かります。死ぬのではありませんぞ」

 自分こそ年中死にそうな顔をしているくせに、なんて思いながら僕はふたたび目を閉じる。オリグがいるなら、きっと大丈夫だ。彼がなんの手も打っていないはずはない。チトセ、すぐ助けるから、辛抱してくれ。

 限界だった僕の意識は、そこで一旦途切れた。そういえば川の中で僕を助けてくれたのは何だったのか、たしかめられないままだったと気付いたのはずっと後になってからだ。オリグも影のようなものは見たが、はっきり確認することはできなかったという。

 そこからの記憶はかなり曖昧だ。傷の痛みと熱にうかされて、僕はずっと朦朧としていた。苦しかった。身体はふるえるほど寒いのに、喉はひりついて水がほしかった。助けてくれ、このままでは渇き死ぬ――

 不意に、甘露が流れ込んできた。冷たい感触が口内と喉をうるおしていく。僕は夢中で水を飲み込んだ。こんなに甘いものだと、初めて知った。

 目を開ければ間近にチトセの顔がある。不安そうに僕を見つめ、ぎこちなく口づけてくる。ふれあったところから流れ込んでくる甘い雫に、喉だけでなく僕のすべてが潤された。

 ああ、チトセ――どうか、消えないでくれ。夢ではないと、君は本当にここにいるのだと教えてくれ。

 離れようとする彼女を夢中で引き寄せる。とたんに肩が激しく痛んだが、無視してチトセを抱きしめた。力尽きるまで何度も口づけ、細い身体を抱きしめる。このたよりない、小さな身体はまぎれもなくチトセだ。ほんの少し力を入れただけで壊れてしまいそうな、ひ弱で儚げな、なのに心根だけは強情でしぶとい少女。ひねくれ者で、すぐに自分の殻にこもりがちで、思い込みの強い困った娘だ。

 でも、君が好きだよ。君の中に隠れている、一生懸命な不器用さを愛している。

 友達だとか、兄がわりだなんて、はじめのうちだけの言い訳だった。気がつけば君は誰よりも特別な相手になっていた。年の離れた男にそんな目で見られていると知れば、君はおびえるかもしれない。ようやく友達を得られたと喜んでいるのを、裏切りたくもなかった。君を傷つけないよう慎重に接して、でも抑えきれない想いはどうしてもあって。いつか、自然に君が気付き、受け入れてくれることを願いながら、見守ってきた。

 君に惹かれた男は僕だけじゃない。君の気持ちを、目の前で持って行かれてしまうかと思ったこともあった。胸が焼けつき、引きちぎられるような思いを味わったが、口出しはできなかった。もし、君が彼に惹かれているのなら――邪魔者は、僕の方だ。

 不甲斐ないだ何だのと、周りからはさんざんののしられたが、僕は君を傷つけたくなかった。君が望むもの、君が選ぶことをいちばんに守りたかった。たとえそれが、僕との未来ではなくても。

 ――でも、君はまだここにいる。僕の目の前にいて、僕を案じてくれている。

 僕のチトセ。君は、僕のものだと信じていいかい? ずっとそばにいてくれとねだった、あの言葉はそういう意味だと、信じていいのだろうか。

 熱にうかされた記憶は曖昧で、夢と現実の境がはっきりしない。抱きしめた身体もむさぼった唇も、僕の願望が見せた幻だったのかもしれない。

 すべてが落ち着き、傷の痛みもやわらぎ、ほっと息をつけるようになった頃、僕は何度もあの時のことを振り返っていた。

 ものすごく実感があったような気がするけれど、本当に現実かと突き詰めると自信がない。あれは、やはり夢だったんだろうか。あまりにも僕にとって都合がよすぎて、事実だと言いきれない。

 オリグにそれとなく尋ねてみても、はぐらかされた。絶対わかっていてわざとやってるぞ。と、いうことは、夢じゃなかったんだろうか。いや、もしかすると、僕に告げるにはしのびない身も蓋もない現実があるのかも。

 かといってまさかチトセ本人に確認するわけにはいかないしなあ。

 そんなことを考えながらまどろんでいたら、部屋に人が入ってきたのを感じた。この気配はチトセだ。すぐそばに座り、覗き込んでくるのを感じる。僕を案じてくれる空気が心地よくて、眠気を言い訳に目を閉じたままでいた。

 彼女がとらわれの身になっていたことを知った時、いちばんに頭をよぎったのは、襲われていた哀れな女官の姿だった。チトセもあんな目に遇っていたらと青ざめたが、幸いなことに無事だったようだ。なぜ皇帝はチトセに手を出さなかったのだろう。幼げな姿にその気にならなかったのか? だとしても、他の兵士たちの慰みものにされそうなところなのに、まるで守られるかのようにクラルス公とともに隔離されていたらしい。そもそもやつはチトセを捕らえてどうするつもりだったのだろう。疑問は多く残っている。

 けれど、今はこの心地よい空気を楽しんでいたい。少しの間だけ、懸念事項を忘れておだやかな幸福に浸っていたい。

 唇をそっとなでる指を感じた。くすぐったさに笑いそうになるのを僕はこらえた。荒れているのを、ずいぶん気にしていたっけ。薬だとか言って妙なものを塗られたのには辟易したが、そのおかげか治ってきている。そういうところを気にするのは、やっぱり女の子なんだな。

 さて、いつ目を開けようか。頃合いをはかりかねていたら、頬にもくすぐったいものを感じた。これは……髪の毛?

 その次に感じたものに、僕の頭は一瞬真っ白になった。また夢を見ているのかと思った。ふれたかふれないか、ごくわずかにかすめただけで離れていくのを、あわてて引き止める。抱き寄せて、夢中で口づけた。

 ちょっと我を忘れてしまい、力を入れすぎたようだ。苦しそうな抗議を受けて、渋々力を緩める。ぜいぜいと息継ぎしているのが色気なさすぎて、逆にこれは現実なのだと僕に実感させた。

 目を開ければ、めったにないほど動揺している顔がある。

 白い頬がみるみる赤くなっていった。いつもにくたらしいほど冷静で、あまり表情を動かさない彼女が、目に見えてうろたえているのが面白く、可愛かった。

 逃げようとする身体を抱きしめて放さない。だってもう遠慮は必要ないだろう? チトセ、君は僕のもの。そう言っていいんだよな?

 何度もなんども口づけて、君をたしかめる。この瞬間を、どれだけ夢見てきたことだろう。

 出会ってからまだ一年も経っていないけれど、君はもう僕にはかけがえのない、なくてはならない存在だよ。どうかこのまま、僕のそばにいておくれ。君の願いは僕の願いだ。これから先、ずっとともにあろう。離れることなく、寄り添っていこう。

 遠く離れた異なる世界から、君をこの地へ運んでくれた運命に、僕は感謝する。君にとっては悲しいできごとだっただろうが、喜ぶことをどうか許してほしい。かわりに僕が誰より君を愛するから。一生大切に守り、寂しい思いなどさせないから。

 チトセ、いつまでもそばに、いておくれ。




「どこへ行くつもりだ?」

 誰もいないと思っていたのに、背後からかけられた声に僕は首をすくめた。

 振り返ればジェイドが怖い顔をしてにらんでいる。どうやら、見張られていたようだ。

「いや、ちょっと厠へ……」

「そんなにしっかり着替えてか?」

 無駄だろうと思った言い訳は、予想どおり瞬時に蹴飛ばされた。ずかずかと歩いてきたジェイドは僕の頭をはたき、出てきたばかりの部屋へ押し戻した。

「ジェイド、見逃してくれよ」

「話によるな。どこへ行く気だった?」

 全然見逃してくれなさそうな声でジェイドはくり返す。僕はあきらめて、出かけようとしていた理由を語った。

「町へな……ちょっと待て! 怒るな! 遊びに行くわけじゃないよ!」

 怪我人に容赦なく拳を振り上げるもと副官・今上官にあわてて言い訳する。

「その身体で町まで行くって、何を馬鹿げたこと言ってる。頭までイカレたか」

「イシュで飛んでって、目的を済ませたらすぐ戻るつもりだったよ。そのくらいなら、もうできるから」

「阿呆! 抜糸も済まねえうちに無茶がすぎるわ!」

 結局殴られた。頭だけで、彼なりに加減はしてくれているようだが、無理をするなと叱るくせにやってることが矛盾してないか。

「ったく、いったいどんな用があるってんだよ。俺に言やいいじゃねえかよ」

「他人まかせにするわけにはいかないから……」

「だから、どんな用だ。ごちゃごちゃ言ってねえでさっさと吐け!」

 寝台に座り、僕はため息をついた。懐から出したものをジェイドに見せる。

「ああ? なんだこりゃ」

「リボンだよ」

「そいつは見りゃわかる。たしか姫さんからもらったものだったよな。俺たち独り者の目の前で見せつけやがって」

「お前だっていろんな女の子と付き合ってるだろうが。これは、もらったんじゃなくて借りたんだよ。帰ったら返すって約束だったのに、いろいろあったせいでこんなになっちまってさ」

 出陣前、チトセから借りたリボンは、大事にしていたんだけどすっかりよれよれになってしまっていた。常に肌身離さず持ち歩いていたのがまずかった。斬られた時に血もついたし、その後川にも落ちた。僕の持ち物はオリグが保管してくれていたので紛失は免れたものの、ちょっともう返せる状態ではなくなっていた。

 お気に入りだと言っていた。たしかによく髪に結んでいたのを覚えている。淡い黄色の上品なリボンは、刺繍や縁飾りがほどこされた手の込んだ品だ。たぶんシャール産か、もしくはジーナ産だろう。高級品を取り扱っている店に行かないと、これだけのものは手に入らない。

 しかし今僕の手の中にあるのは、汚れくたびれて血の染みも残り、もとの美しさをすっかり失ったボロの紐だった。こんなものを返したらチトセがどんな顔をするかと、想像するのも怖い。

「代わりのものを買おうと思ってさ。同じのは無理でも、似たような品なら許してくれるかなって……痛たたた、ちょっ、ジェイド、痛いって!」

「……ったく、この野郎は、すっかり色ボケしやがって」

 片手で僕の頭をギリギリ締めつけながら、ジェイドはうなった。

「んなもん、完治してからでいいだろうが!」

「えー……だって、気になるしさ」

「ふざけんな、ようは姫さんに贈り物がしたくて浮かれてるだけがろうが! ああ、あんたがそこまでまっとうに女に目覚めたのはめでてえがな、時と場合をわきまえろ! 一時は死にかけたほどの傷だってのに、うきうき買い物に行ってる場合かよ!」

「もうあまり痛まないし、無理をしなければ平気だけど」

「町まで出かけるのは十分無理だ! いいからおとなしく寝てろ! あんまり聞き分けがねえとぶん殴って寝台に縛りつけるぞ」

「お前、そっちの方がよっぽど無茶だよ」

 がみがみ言われながらしかたなく靴を脱ぐ。毎日寝てばかりだと、かえって辛いんだがな。チトセとは反対に部屋にこもるのが苦手なたちだから、こう療養期間が続くとうんざりしてくる。

「おとなしく寝てろよ。抜け出したりしようもんなら、あんたの実家に連絡して見張りを寄越せと言ってやる」

「よしてくれ」

 そんなことをされたら、弟たちがそろってやってくるに決まっている。あいつらのことだから、チトセが原因だと恨んで彼女を攻撃しかねない。僕はおとなしく降参し、くれぐれも実家には知らせないようたのんだ。

 着替えて布団に入れば、ジェイドも納得して部屋を出て行く。ひとりに戻り、僕はリボンを見つめながら息を吐いた。

 新しいものを渡して、代わりにこれはもらいたかったんだけどな。

 こうしてエンエンナに戻ってきて、今さら不安がる必要なんてなにもないはずなのに、妙に胸が騒ぐ。

 エランドとの問題が、まだ完全に解決していないせいだろうか。皇帝もデュペック候も、チトセを手に入れたがっていた。いつか、また手を出してくるのではないかという気がしてならない。

 二つで一組のものを互いで片方ずつ持っていれば、どんなに離れても必ずふたたびめぐり会える――そんな言い伝えに頼るなんて、女々しいと笑われそうだな。だが僕は、ひとつでも多くの安心がほしかった。

 チトセは、今日も会いにきてくれるだろうか。

 君の顔が見たい。元気な姿を見せて、僕を安心させてくれ。君の声を聞き、君のぬくもりを感じて、この不安を追い払いたいよ。

 体力が落ちているせいで、少し動いただけで疲れていた。横になっていると眠気が寄ってくる。小さな足音が近づいてこないかと、耳を澄ませ待ちわびながら、僕は目を閉じた。




                    ***** 終 *****

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