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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第九部 かよいあう心
106/130



 イリスに治療を続けるという約束も、日に一度は面会を許すという約束も、一応守られて、私は翌日また彼のいる部屋へ行くことができた。今日はそばまで寄ることも許されている。見張りの兵士は扉の前に立ちふさがり、私が逃げ出さないよう警戒していた。そんなことをしなくても、イリスを置いてどこにも行けやしないのに。

 イリスはひどい熱を出していた。大きな怪我をすればそうなることはわかるけれど、もしかしたら感染症を起こしているのではないかと、見ていて心配でならなかった。

 玉のような汗を拭いてあげながら、これでは脱水症状になってしまうと考えた。点滴ができない以上、口から飲ませるしかない。でもイリスの意識は戻らない。時折ふっと目を開けることもあるのだが、目の前のものを認識しているようには見えなかった。

 枕の下に畳んだタオルを入れて、イリスの頭を起こす。そうしておかないと、水が気管に入って窒息してしまうおそれがある。

「イリス、飲んで。お水よ、ほら」

 かさついた唇に器を押し当て、少しだけ傾ける。反応はなく、こぼれるばかりだ。

 ちゃんと意識がないと、自発的に飲ませるのは不可能だ。

 私は少し悩んだ。口移しって、現実的に考えて衛生面が心配だ。大怪我で弱っている人にそんなことをして大丈夫なのだろうか。

 でも迷っている場合ではないか。今はまず水分を摂らせないと。そっちの方が切迫した問題だ。

 私は一度口をゆすいだ後、もう一度たっぷり水を含んでイリスに覆い被さった。熱を持った唇に重なり、少しだけ水を流し込んでみる。いきなりたくさん飲ませるとむせてしまいそうだから、口の中が潤う程度に、ほんの少しだけ。

 冷たい感触に反応したのか、イリスの喉が動いた。いけそうだ。さらに少しずつ、慎重に飲ませていく。

 全部飲ませて身を離すと、イリスが目を開けた。相変わらず焦点が定まっていないが、これならもっと飲ませられるだろう。私はもう一度水を含み、彼に与えた。案の定さっきよりもやりやすく、すぐに口の中が空になる。三度目をと身を起こしかけたら、突然イリスが腕を上げて私を引き寄せた。

「ん……待って、まだ……っ」

 よほど水がほしいのか、かみつくように唇を重ねてくる。怪我をしているというのに、すごい力だ。それだけ必死なのだろうか。

 もがいてなんとか頭を動かし、水を含む。無理な体勢だしイリスが引っ張るしで、いっぱいこぼしてしまった。

 何度かくり返すと、ようやく落ちついたか、あるいは力尽きたのか、イリスが腕を落とした。苦しげにあえぐ頭の下からタオルを抜き取り、こぼした水で濡れたところを拭く。息継ぎより飲ませる方を優先していたから、こっちも息絶え絶えだ。

 布団をかけなおし、ひび割れた唇をそっとなでた。血がにじんでいて、見るからに痛々しかった。女中さんにハチミツと食用オイルをもらえないか頼んでみよう。流動食みたいなものも作ってもらえないかな。さっきみたいに半分でも意識が戻れば、食べさせられるかもしれない。

 これが日本なら点滴するなり管を入れるなりして栄養補給もできるけれど、こっちでは本人の意識がないとどうにもならない。体力勝負というのは、こういうところだ。食べない飲まないで眠り続けていたのでは、身体はどんどん衰弱していく。

 早く、目を覚まして。こんな怪我平気だって、笑って。

「時間だ」

 祈りながら髪をなでていたら、見張り役の兵士が声をかけてきた。まだ一時間も経っていないのに、もう引き離すのか。

 にらんでも当然知らん顔をされる。医者が寄ってきたので、しかたなく彼に後をまかせて立ち上がった。

 渋々廊下へ出たら、外が騒がしいことに気付いた。

 見張り兵を無視して窓へ寄ってみる。庭や離宮の周辺に、何百――いや、そんな程度ではない。千単位の兵士が集まっていた。これはもう軍勢とよぶべき集団だ。

 なんだろう、潜伏をやめて堂々と町を占領することにしたのだろうか。

「イリス殿のお加減はいかがでしたかな」

 見張りの呼びかけを無視していたら、別の声がかけられた。あまり会いたい相手ではないけれど、状況を知るためには必要なことでもある。私は振り向いた。

「あの軍勢は?」

 近くへやってきたデュペック候に尋ねる。

「ああ、援軍ですよ。他の島から着いたばかりでして。港に船が入りきれないと大騒ぎでね、少々対応に追われております」

 やはりか。

 昨日のクラルス公の退位宣言が効いたのかな。もう何も隠すことなく、この町を本陣として構えるつもりなのだろう。

 町の人たちがどうなったのか、それが気がかりだ。

「よく似合っておいでですな。やはりあなたには、そういう可憐な装いの方がよい」

 外の軍勢を眺めながら考えていたら、デュペック候が寒いお世辞を言ってきた。こんなお姫様ドレス、どう考えても似合うわけないのによく言えるものだ。

 彼の用意した服なんて着る気になれず放置していたら、今朝になって女中さんに着替えるよう頼まれてしまった。彼女たちはエランド人ではなく、もともとこの離宮にいた職員だ。脅しと命令で従わされている。私が着替えを拒否したら彼女たちがひどい目に遇うとわかるので、腹立たしさをこらえて聞き入れるしかなかった。

 裾を引きずるドレスを着て、髪をきれいに整え、化粧までされて。状況を考えれば馬鹿馬鹿しいかぎりだ。なにが目的で私にこんな格好をさせるのだか。

「せっかくですから、我が君にも見せてさしあげてください」

 デュペック候は機嫌よく言った。別にユリアスになんか見せたくない。どうせならイリスに見てほしい。彼がほめてくれたら、慣れないドレスだってきっとうれしいのに。

 青い瞳がふたたび私を映してくれるのは、いつになるのだろう……。

 デュペック候が見張り兵に指図して、私を別の部屋へ連れて行く。しかたなく向かった先にいたユリアスは、私の姿を見て眉をひそめた。

「なんだ、オルト。連れてこいとは言っていないぞ」

「部屋に閉じ込めるばかりでは、退屈でお気の毒ですよ。お茶でもご一緒して差し上げなさい」

「そんな暇はない」

 部屋には他の男たちもいた。みんなエランドの軍人だろう。じろじろと不躾な視線を向けられる。

「あなたにも休憩は必要ですよ。昨日からろくに休んでおられない。あとのことは私が引き受けますから、しばらくゆっくりしてください。彼女とも、もっと話をして互いを知る必要があるでしょう」

「……何を考えている?」

 他の者はみんなユリアスを畏れかしこまるようすなのに、デュペック候だけはにらまれても平然としていた。従兄弟同士だというから、特別な気安さがあるのだろうか。

「言葉どおりですよ。さあ、みんな出て。陛下には休息が必要だ」

 デュペック候が言うと、みんな一礼して退出していった。最後にデュペック候も出ていって、部屋には私とユリアスだけが残される。ユリアスは腹立たしげに息を吐いた。

 会議でもしていたのだろう。机の上には地図が広げられていた。これからどう攻めるか、それともどこから攻められるか――そんなことを話し合っていたのかな。

「ずいぶんとめかしこんで来たではないか。色仕掛けでもするつもりか? あいにくお前に手を出すほど女に不自由していないが」

 地図を見ていたらずいぶん失礼なことを言ってくるので、私はユリアスに目を戻した。

「とてもありがたいお言葉ね。ぜひデュペック候にも言ってもらいたいわ」

 皇帝は女好きだと聞いたことがあるけれど、女なら誰でもかまわないというほどではないようだ。私なんてお呼びじゃないという態度に、これはデュペック候ひとりの考えなのだと知る。本当に、何を考えているのだろう。側近の彼ならユリアスの好みはよく承知しているだろうに、私を着飾らせたところで無駄だとわからないのだろうか。

「私に用がないのなら、イリスのところへ戻らせてほしいんだけど。面会時間が短すぎるわ」

「短い逢瀬だからこそ、よいのではないか? 会いたいと想いがつのり、盛り上がることだろう」

 駄目もとで言ってみれば、案の定ユリアスは鼻で笑った。

「子供にしか見えんと思っていたが、意外にしっかり女の顔になったな。惚れた男ができると、そうも変わるか」

 からかいを無視して、私は机に近づき地図を取り上げた。

「どうやってここから攻める気なのか、教えていただきたいものね。海へ逃げるには最適な場所だけど、どこを攻めるにしても遠いわ。移動するだけでも相当な時間がかかる。その前に、アルギリやリヴェロの軍が攻めてきて動きを封じられそうね」

「小娘が小賢しい。心配にはおよばん。備えはある」

 ユリアスは私の手から地図を取り上げ、椅子にふんぞりかえった。

「援軍を呼び寄せて? 三国の同盟軍を相手にできるほどの数なのかしら」

「迎え撃つのは勇敢なる民兵だ。町に残った家族や恋人を守るため、必死になって戦ってくれるだろうさ」

「……町の人を楯にする気」

 家族を人質に取り、一般の民を戦場に立たせるというのか。それでは攻めてきた軍も手を出せない。クラルス公を捕らえたやり方やイリスを使って私を言いなりにさせているやり方といい、吐き気がするほどの汚さだ。

「皇帝だなんてご大層な肩書のわりに、やっていることは三流悪役レベルね。クラルス公の言うとおり、卑劣な真似がお好きなのね」

 遠慮なく言ってやったが、ユリアスは怒らなかった。露骨に嘲りで返す。

「この島の――外の連中がどうなろうと、知ったことか。このくらい、むしろ優しいと思うがな。なぜやつらに遠慮して、正々堂々などと馬鹿げたきれいごとを言ってやらねばならん? 我らよりはるかに汚く卑しくあさましい、醜い連中に、ふさわしい報いをくれてやって何が悪い」

 笑いを含んだ声に深い恨みと憎しみがこめられている。なぜそうも他国を憎むのか、この場でそこまで言及してもいいのだろうかと迷っていたら、部屋に人が入ってきて一旦話は途切れた。女中さんが机に二人分のお茶とお菓子を並べていく。また二人に戻ると、「座らないのか」とユリアスが聞いてきた。さんざん文句を言っておいて、追い出すつもりはないのか。

 いちおう座ったものの、お菓子に手をつける気にはなれなかった。あんなに大好きだった甘い物が、少しも食べたくない。私は息をついて、お茶だけ飲んだ。

「食わんのか。甘い菓子が好物なのだろう」

「よくご存じね」

「オルトが色々と調べてきた。龍の加護を持つ人間が現れたと知った時から、我々はその存在に注目していた」

 ユリアスも甘い物に興味がないのか、手をつけない。形だけ整えられたお茶の席に、冷え冷えとした空気が流れる。

「こんな、ひとりでは何もできそうにないひ弱な小娘だと知った時は、深く失望したがな」

「何を期待していたのか知らないけど、龍の加護なんて他人にはたいして意味のないものよ。さほど利用価値もないと思うけど」

「本気で言っているのか? 竜だけでなく獣や鳥まで操っておきながら」

「…………」

 一瞬手元が震えるのを、止められなかった。

 ユリアスは鼻を鳴らして笑う。

「龍の力は神の力だ。この世のあらゆる生き物を従えることができる――あらゆる、な」

「……人も、と言いたいようね。それが本当なら、あなたのことも従えられるはずだけれど、おかしいわね?」

「人は獣ほど単純ではないからな。だが、その可能性はある。お前が真に龍の力を使いこなせるようになれば、人も支配できるかもしれぬ」

「そんな力は無用だわ。人が人を操るだなんて、ぞっとする」

 マインドコントロールというものだろうか。もしそんなことができたとしても、不幸な結果しか招かないだろう。他人に意識を乗っ取られ操られることを、誰が喜ぶものか。その瞬間、私は神どころか悪魔とみなされるだろう。

 ――だから?

 だから、祖王は大罪人だったのだろうか。

 祖王セトは、人をも操ったのだろうか……。

「たしかに、いらぬ力だな」

 てっきり馬鹿にされるかと思いきや、あっさり同意されたので、私はまじまじとユリアスを見つめてしまった。視線に気づき、ユリアスが「なんだ」と聞いてくる。

「いえ……」

 どうにも、妙な感じだ。

 龍の加護に強い思い入れがあるようだが、その一方で冷めた見方もしている。彼が何を求めているのか、つかみにくい。

 皇帝と称し、敵の親玉であるはずなのに、あまりそういうふうに見えないのも気になっていた。たしかに他人とは異なる迫力や存在感を持っているけれど、王者というよりは騎士と呼んだほうがしっくりする。

 身なりのせいだろうか。今日も黒ずくめの、普通の騎士のような服装をしていた。デュペック候の方がよほどにおしゃれだ。皇帝と呼ばれるほどの人物が、こんなに簡素な身なりでいいのだろうか。

 たしかカームさんより一つか二つ上だっけ。まだ十分に若く、貫祿よりも活力を感じさせる容貌だ。すっきり整った男らしい顔だちに鋭さが加わって、獰猛な獣を見ているような、怖いけれどかっこいいという印象を受ける。

 アルタも男っぽくてかっこいいタイプだけれど、印象は正反対だ。どこまでも明るい陽のアルタに対し、ユリアスははっきり陰のタイプだ。それぞれに、異なる魅力を持っている。

 私自身の好みを言わせてもらえば、どっちも外れているけどね。あまり男くさいのは苦手なので、おっとり穏やかな人がいい。ハルト様みたいに。イリスは顔以外はがさつな男そのものなので、好みじゃなかったはずなんだけどなあ。

「……まるで人形だな。少し力を入れただけで折れてしまいそうな身体に、荒れを知らないなめらかな肌……いっさい仕事をしない、細い指だ」

 私が観察している間、ユリアスの方も私を観察していたようだ。

「そうやって贅沢に着飾っているのがよく似合う。苦労など知らずふわふわと甘えて生きるだけの、人形だ」

 吐き捨てるような口調に、多分彼は贅沢が嫌いなんだなと思った。着飾り、贅沢に暮らす、苦労を知らない人間が嫌いなのか。

 たしかに彼の身なりは質素だ。単純に飾り気がないだけでなく、服の素材もそれほど上等のものには見えなかった。丈夫さだけを重視したような、本当に普通の服だ。皇帝を名乗りながらこんな身なりをしているのって、どうにも違和感を感じる。私の偏見だろうか? 皇帝って、王より偉いんだぞって主張しているようなイメージがあるんだけど。

「この服を用意したのはあなたの従兄よ。わざわざ着替えさせるように、女中さんに命令までしてね」

「くだらんことに労力を割く」

「同感だわ。なんだか仲人みたいだったけれど、私はあなたの好みからは完全に外れているようね。そこは気が合ってなによりよ」

「……気の強い女は、嫌いではないがな」

 あくまでも冷たく言い返していると、ユリアスがふっと笑った。

「だがやかましく騒ぐ女は好かん。頭の悪い女もうっとうしい」

「ああ、女を馬鹿と決めつけて見下す男は多いわね。どこの世界でも一緒ね。偉そうに上から目線なのをかっこいいと勘違いして、自分イケてるとか思ってて、陰であの男キモーとかウザーとか言われて笑われてるのに気付かないパターン。見た目がよくてももてない男の典型ね」

 ユリアスの反応にはかまわず、私はテーブルの上のお菓子をナプキンに包んだ。今は食べる気がしないけれど、そのうちほしくなるかもしれない。クラルス公にもあげたいし、持って帰ろう。食べろと出されたんだから、お持ち帰りしてもかまわないよね。

「たいした度胸だな。捕虜の分際でそんな口を利いて、無事でいられるとでも思っているのか? 俺の気分次第で、今すぐにでも処刑になるかもしれんぞ」

「すれば?」

 わざとらしい脅し文句を聞き流す。

「どんな口を利こうとそれは同じでしょう。はじめから刃に囲まれているのに、今さらだわ」

 まったく平気だったと言えば嘘になるけれど、開き直る気持ちも私にはあった。彼らの思惑次第で、いつ殺されてもおかしくない立場なのだ。怖いのを通り越して、やりたきゃやれという気分になっていた。

 この男にみじめな姿をさらしたくない。私は顎を上げて黒い瞳を見返した。

 けれど次の言葉で、つい唇をかんでしまった。

「お前を殺すとは言っていない。お前の大事な恋人の話だ」

「…………」

 そっちか。

 考えてみれば当然だった。私に何が効果的なのか、相手は知っているのだから。

 腹立たしかった。でもここでうろたえたところで、状況がよくなるでもない。私は息を吐いて気持ちを落ち着けた。

「……そうね。うかつだったわ、ごめんなさい。ではもっと気をつけて、あなたに媚びへつらうようにしましょう。どんな態度がお望み? ごまをすって白々しいおべっかを並べ立てればいい? それともびくびく怯えて縮こまってみせればいい? 教えてくだされば、お好みに合わせるわよ」

 わかりやすく解説すればそういうことだろうと、言ってやる。ユリアスは怒らず、おかしそうに軽く声まで上げて笑った。

「おとなしげな見た目をして、どこまでもふてぶてしい娘だな」

 それには答えず、私は包み終えたお菓子を手元に置いた。ひとまず、本気でイリスに何かするつもりはなさそうだと、ほっとする。強気を装っていても内心は冷や汗ものだった。

 私への見せしめでイリスに手を出すくらい、本当にやりかねない。媚びる必要はないが、あまり反抗的すぎてもまずい。慎重にならないと。

「せっかくお時間をいただいているのに、どうでもいい雑談ばかりでは時間がもったいないわね。よければ聞かせてくださらないかしら? 今後はどう動くつもりなの」

 不毛な会話を続けてもストレスがたまるばかりなので、私は話を変えた。潜伏をやめ、堂々と援軍を呼び寄せて、今後どうするつもりなのか聞きたかった。

「ここからいちばん近いディンベルを、やはり攻める気なのかしら。でもアルギリだって、首都の備えは固いでしょう。いくらクラルス公を人質にしていても、そう簡単には落ちないと思うけど。手こずっているうちにロウシェンやリヴェロの援軍が到着すれば、どうしたって勝てないわよ」

「援軍が、来ればな」

 ユリアスの言葉に、私は眉を寄せた。どういう意味だろう。援軍は来ないと言いたげな……来られない事情があるとでも?

「ナハラに攻めてきた軍は、もうシーリースから撤退したはずだけど」

「あれは小手調べだ。そちらの戦い方は十分に見せてもらった。次は、各地から同時に上陸する。ロウシェンもリヴェロも、自国を守るだけで精一杯になるだろう。よそへ援軍を差し向ける余裕などない」

 同時に……。

 シーリース全土を、一斉に攻撃するということか。たしかにそれがいちばんいい攻め方ではある。でも相当な兵数がないとできない作戦だ。エランド一国だけではとうてい足りないはず。傘下に組み込んだ国の軍を使う気だろうか。

「同じ侵略を受けた側の軍が、従順に戦ってくれるのかしら。お得意の人質作戦でも取るつもり?」

「利を示してやれば、連中は嬉々として戦うさ。欲深い人間は宝を得るためなら平気で他人を傷つける。豊かなシーリースを羨んでいるのは、我々だけではない」

「それぞれの国に、お前にだけ分け前をやるとでも言ったわけ? どうせ守る気のない口約束でしょう。相手が簡単に信じるかしら」

「信じようと信じまいとかまわん。いずれこちらに歯向かうつもりかもしれんが、それならば叩きつぶしてやるまでだ」

「切り札の戦闘機は、もう十機も残っていないけれど。それとも、本国にはまだ在庫があるのかしら」

「普通の軍が相手なら、一機あれば事足りる」

 ユリアスの自信は揺らがない。おそらく動員した軍は、そう反抗的ではない利害が一致している相手なのだろう。シーリースの富だけでなく、たとえば自国の自由や権利をある程度保証すると言えば、積極的に協力することもうなずける。

 シーリースは、かなり苦しい戦いを強いられそうだ。攻められて、ただそれに応戦するばかりでは、いずれ疲弊して追い詰められる。

 この状況をひっくり返すには、ちがう方向で考えるべきだろう。状況を利用して優勢に持ち込むには――そう、たとえば……。

「小生意気なと言ってやりたいが、頭が回るのはたしかなようだ。己の状況がわからぬほど愚かではなかろうに、よくそう冷静に返してくる。女というものは、もっと感情的な生き物だと思っていたがな」

 ユリアスの言葉に、思考を中断する。今のはいちおうほめられたのだろうか? 彼の顔にほんのわずか、嘲りや嫌悪以外のものが浮かんでいるように思えた。

「人が人である以上、男も女も感情にふりまわされることは避けられないと思うけど。でなければ、そもそも戦なんて起きないでしょう」

「……ふん」

 ユリアスは静かに笑う。敵意を隠すことのない人物だけれど、態度はむしろ穏やかだ。町で囚われた時以外、暴力的な行動に出られることはなかった。声を荒らげることもない。思えば町での彼も、感情的な命令や攻撃はしていなかった。していることは容赦なくても、彼自身は常に静かだ。

 けれど、内面までが静かだとは思えない。そんな人物が戦を起こすわけがない。

「あなたも、感情に支配されているわね。シーリースを攻めるのは、ただの欲ではないのでしょう? そういうふうには見えない。ずっと聞きたかったの……なぜ、こんな戦を始めたのか。敵だけじゃない、あなたの民も大勢死んでいくのに、なぜそれを命じるのか。恨み? 憎しみ? 民を犠牲にしてでも果たしたい願いとは、何なのかしら」

「…………」

 ユリアスの顔から笑いが消えた。私の言葉は、彼の何かを突いたようだった。

 けれど結局、彼は何も答えなかった。しばらく沈黙が下りた後、唐突に「歌え」と命じてくる。

「弱そうな姿も、そのくせ生意気なところも気にいらんが、歌声だけはほめてやる。俺の機嫌を取りたければ、さえずってみせろ」

 ――素直に答えるはずはないか。

 私はあきらめ、命じられるままに歌った。一瞬「ふるさと」を歌おうかと思ったが、それはやめて別の歌にする。

 戦の勝敗も栄枯盛衰も、いずれはみんな消えていく。変わらない月の光に照らされるのは、変わり果てた人の世の姿ばかり――

 一番の歌詞しかあまり知られていないが、実は四番まである。私は祖母から教わって、この歌の歌詞を全部知っていた。もの悲しい旋律の古めかしい歌は、「ふるさと」とそう変わらない時代に作られたものだ。

 歌いながらユリアスの反応をうかがった。彼はひどく真剣な顔でだまって聞いていた。歌い終えてもしばらく何も言わず、じっと考え込んでいる。

「これも、知っていたのね」

 私が言うと、ようやく顔を上げた。

「……いいや、まともに聞いたのは、これがはじめてだ」

 吐息混じりに彼は言った。

「歌詞はほとんど伝わっていなかった……そういう歌だったのか」

「これは私の故郷の歌よ。町でうたったのもそう。この地で知る人はいないはずなのに、あなたが知っていておどろいたわ。ねえ? あなたにこの歌を教えたのは、誰? その人は、今もエランドにいるのかしら」

「いるとも」

 ユリアスは立ち上がり、私に背を向けた。窓辺へ歩いていき、振り返らないまま言う。

「冷たい北の大地で、眠りについている。生まれ故郷にも、第二の故郷にも帰れず、功績に見合わぬ寂しい最期を迎えた。せめて彼の魂だけでも、ここへ連れ帰ってやりたいものだ……下がれ。もう話すことはない」

 それまでとはちがう拒絶の気配に、私はおとなしく従った。席を立って部屋から出、閉じた扉に背を預ける。さまざまな思いがこみあげ、震える息を吐き出した。

 ……ああ、やはり。

 祖王は、セトは。

 日本人、だったんだ――

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