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街道を見下ろすその木は、まだ新芽も見えず寒々しい枝だけを大きく広げていた。
「チトセ、そろそろ出発するぞ」
イリスがやってくる。私は視線を下ろし、彼に振り返った。
「どうかしたか?」
尋ねるイリスに首を振る。それからもう一度、かたわらの木を見上げた。
「これ、なんていう木?」
「ん? あー、多分シナじゃないかな」
イリスは幹をさわり、うなずく。
「うん、シナだ。これがどうかしたか?」
「ううん……」
植物に詳しいわけじゃない。でも日本中どこにでも生えていた、あの木だけは見分けられる。校庭にも、通学路にも、たくさん植えられていた。なつかしい記憶の中の木と、目の前の木はよく似ていた。
多分別の植物なのだろうけれど。きっと春になり新芽が伸びれば、もっと違う印象になるのだろう。それでも少しだけ、期待してしまう。
「この世界に、桜はある?」
ふたたび尋ねると、イリスは首をかしげた。
「サクラ?」
……翻訳されていないのか、それともイリスが知らない名前なのか、どちらだろう。
「幹や枝の感じはこれと似ているの。春になると小さな淡いピンクの花が一斉に咲いて、十日ほどで散ってしまう。私の国で一番愛されていた花よ」
学校をなつかしむ思いなんてほとんどないのに、春の風景だけは記憶に美しく刻まれている。満開の桜の下で行われた入学式にクラス撮影。桜吹雪の中を歩いた通学路。渡り廊下からの眺めもきれいだったな。花のあとの毛虫シーズンも、今となってはなつかしい。
「満開時は本当にきれいなのよ。枝という枝が花を咲かせて……桜並木は遠くから見ると、ピンクの雲みたいでね」
さくら、さくら……霞か雲か……。
「桜が咲くと、春だって実感するの。その前に咲く花もあるんだけど、日本人にとっては桜こそが春を象徴する花だったな。長い冬を越えて、ようやく暖かくなったんだっていう喜びそのものに思えるの」
強い風が吹きつける。まだ春の気配も感じられない冷たさに、私は身をすくめた。イリスがずり落ちかけたフードをなおしてくれた。
「この世界でも、春にはたくさん花が咲くんでしょうね」
「……ああ」
「あとどのくらいかな。早くあったかくなってほしい」
そうだな、とイリスは微笑んだ。
「もうじきだ。あとひと月足らずで新年だ。そうしたら、すぐ暖かくなる」
ひと月――もうそんなに日が過ぎたのか。
戦場ではそれどころじゃなかったから、暦なんて頭からすっ飛んでいた。こっちでは一月から春ということになっているけれど、年が明けたばかりの頃はまだ寒さが残っているのだろうな。
「新年には挙式って言ってたのにね……」
エンエンナで待っているユユ姫は、きっと暦をたしかめてはため息をついているだろう。戦をあとひと月で終わらせるのは、かなり厳しそうだ。
「間に合わせられるかな」
「……なるべく早く帰れるよう、頑張ろう」
イリスの手が背中に回される。うながされて、私は桜に似た木と別れた。
ハルト様たち本隊と別れた私は、一旦リヴェロに入ったあと、ハバールフでリヴェロ側が用意してくれた馬車に乗り換え、そこからは街道を使ってアルギリに入国した。
私はリヴェロの商人の娘。お供を連れてレーネへ避寒に行くという設定だ。適当な偽名での旅券も用意されていた。これらはすべて、カームさんからの指示によるものだ。
乗り心地のよい上等の馬車は中で寝ることもでき、寒くないようにと毛布も積み込まれていた。街道を行くかぎりよほど無茶をしなければ野宿なんてことにはならないのに、非常食やら何やら、果てはお金まで。至れり尽くせりの準備をしてもらって、私たち一行は恐縮しつつもちょっとあっけにとられてしまった。ありがたく使わせてもらうけれど、お金はあとで返さなければ。
カームさん、今どうしているのかな。こんなにもしてくれる彼に、心から感謝する。
最後の別れを思い出すと、申しわけなさや気まずさがあふれて、まだ当分顔を合わせられそうにない気分だ。罪悪感と、けれどどうしても受け入れられなかった部分と。胸の中で複雑な想いが絡み合っている。
向こうも同じだろうか。拒絶した私に対して、思うところは当然あるだろう。でもこうして、助けてくれる。同盟国への協力だけではない、思いやりを感じさせてくれる。
いつか、もう一度まっすぐ向かい合える日が来たら、精一杯お礼とお詫びを言おう。今は黙って、ジーナの方角に向かって頭を下げておく。
野宿になるほどの無理はせずとも、できるだけ急いで、数日後に私たちはシーリース島最南端の町、レーネに到着した。
近づくにつれ暖かくなるのを感じ、いよいよ町で馬車を降りた私は、ナハラやクルスクとの違いに驚いた。これ、体感的に日本の三月くらいだ。お彼岸の頃の、すっかり寒さが和らいだ時期の気温だろう。
道行く人々の服装は軽やかだった。厚手のコートをしっかり着込んだ私たちが滑稽なほどに。町のそこかしこで庭木が赤い花をつけているのを見かけた。椿にちょっと似ている。
白い壁にオレンジ色の瓦屋根が映える、海辺の町。気分は南国リゾートだ。
「あったかいねー」
町でいちばん大きい宿屋の前で、ホーンさんが戻ってくるのを待ちながら、私は辺りの景色を眺めていた。フードを脱いでしまいたいけれど、メイがちょっとかわいそうなので我慢する。彼女は短い髪を隠すため、ショールを頭からかぶっていた。色が赤だから赤頭巾ちゃんみたいだ。寒い場所では普通の格好でも、この町ではひどく浮く。私がフードを脱いで彼女だけかぶったままじゃ、変な人に見られかねない。二人とも重装備のまま、寒いところから着いたばかりですという姿でいる。
「話には聞いてたけど、本当に春みたいな陽気だな。これじゃ、ずっとこの格好ってわけにもいかないな」
メイも自分の格好を気にしていた。目立たずさり気なく行動しなければならない私たちとしては、現地になじむ服装を検討する必要がある。
「そうね。イリスみたいにスカーフで包んじゃう?」
宿の人に指示されて馬車を移動させているイリスは、大きな布で頭を包み込み、首の後ろでぎゅっと結んでいた。目立つ銀髪は前髪も含めてすっかり隠されてしまっている。一般人みたいな服装で剣もコートの下に隠しているから、いでたちだけを見ればガテンかテキ屋かって感じだ。しかしかなしいかな、鍛えられた身体と姿勢のよさ、そして隙のない動きが彼をその辺の一般人には見せない。メイみたいに性別に対する一般認識を利用することもできないので、苦肉の策として彼は一行の用心棒という設定にした。
お金持ちのお嬢様が旅行するのだから、用心棒を連れていたって不自然ではないだろう。むしろ、賊が出ることもある街道を、なんの自衛策もなしに旅するわけがない。やたらとかっこよすぎるけど、まあそういう用心棒だっているよね、多分。
「お待たせー、部屋が取れたよー」
ホーンさんが呼びにきた。私たちはイリスが戻るのを待ち、宿に入った。
私の読みでは、この町はエランド軍によってひそかに制圧されているはず。ざっと歩き回った感じでは、ちょっと兵士の数が多いかな、という程度で、人々のようすにおかしなところはなかった。やはり一般の民は何も知らされていないらしい。
観光客を装って、買い物しつつ町の名所を尋ねたりもして、しっかり離宮をオススメされた。もちろん中へなんて入れない。外から見物するだけだ。私はイリスと一緒に、閑静な一角に建つ離宮へ向かった。
城というより屋敷といった方がいいだろうか。塀の向こうに見える二階建ての白い建物は、高校の校舎の半分くらいだった。外から建物が見えるくらいだから、庭もフルマラソンができそうな広大さではない。
「普通っぽく見えるけど、軍人としてはどう感じる? ものものしい気配とかある?」
近くに人がいないことを確認して、そっとイリスに尋ねる。うーんとイリスは首をひねった。
「そうだな……意識して見れば、何か妙だなって気はするよ。巡回の兵の数がやけに多い。公表されているとおり、クラルス公がもうディンベルへ帰っているなら、あんなに厳重な警備をする必要はない」
ふむ。ではやはり、クラルス公はここにいるのだろうか。
「アルギリ兵とエランド兵の見分けはつく?」
「さすがにそこまでは。チトセの予想が当たっているなら、あそこにいるのは全員エランド兵ってことになるな」
敷地内を歩く兵士は、知らずに見ればもともとの警備兵みたいだ。町の人は、何も違和感なんて感じていないのだろうか。
塀沿いにぐるりと回ってみる。正門以外にもいくつか小さな門があり、そのすべてに兵士が立っていた。普段のレーネ宮を知らないから断言はできないけれど、やはりちょっと厳重すぎるのではないかと思う。
私は少し考え、門に向かった。うしろでイリスが「えっ」と声を上げたけれどかまわない。じろりとねめつけてくる兵士に声をかけた。
「すみません、道を教えていただきたいんですけど」
この町に着いたばかりの外国人ですからね、道がわかりません。地元の人、それも兵隊さんに聞くのは自然なことですよね?
そんな顔で堂々と近づく。
「恋人橋って、ここからどう行けばいいんでしょうか」
町の名所その二。屋台のおばちゃん情報である。名前からして恥ずかしい。でも地元の若者には人気スポットなのだそうだ。なんでもここで告白すると永遠に結ばれるとか……まあそんな逸話つきの場所についてくる時点で、相手にもその気があるわけだから、当然成功率は高いよね。その気のないやつは事前にお断りするだろう。
意味ありげににイリスを見ながら、おばちゃんは頑張りなとまで声をかけてくれた。何を頑張れと。告白なんて、そんなのできないよ。
――それはともかく。
観光客アピールで地元の地理を尋ね、反応を見る。兵士はわずかに困惑した顔で、かたわらの同僚を見た。そっちもわからないようで、眉間にしわを寄せて首を振る。
「……そんな場所は知らない。町の連中に聞くんだな」
「え、でも、兵隊さんもこの町の人ですよね?」
無邪気な子供のふりで、私は食い下がる。離宮に常駐している兵士なら町の地理くらい知ってるでしょ。ちょうどそういう場所にご縁がありそうな年頃じゃないですか。彼女を誘って行きたい、もしくは一緒に行ってくれるような子と出会いたい、なんて妄想するもんでしょ、普通は。
「私昨日着いたばかりなんです。レーネは春みたいに暖かいって聞いてたんですけど、思ったほどじゃないですね。兵隊さん、そんなに薄着で大丈夫ですか?」
「何を言ってる。今日は晴れてて暑いくらいだろう」
「えー、暑いは言い過ぎですよ。そりゃ、風が吹かなければちょっとはあったかいなって思いますけど」
「花まで咲いてるのに寒がる方が理解できん。どこから来たんだ」
「あ、お花ってあれのことですよね? あっちこっちで咲いてますよね。あれ、なんて言うお花ですか?」
向こうの問いは無視してさらに質問を重ねてやる。私の指さす赤い花を見て、また兵士は口ごもる。もうひとりの兵士が舌打ちした。
「おい、いつまでそんな子供にかまってる。お前も、さっさと行け。ここは子供の遊び場じゃないぞ」
「すみません。えっと、だから恋人橋ってとこに行きたいんですけど」
「知るか。他で聞け」
「お嬢様、ご迷惑ですよ。まいりましょう」
後ろからイリスが声をかけ、さり気なく私を引き寄せた。兵士に申しわけありませんと頭を下げて、私を歩かせる。
「……ああ、びっくりした」
じゅうぶんに離れてからイリスは大きく息を吐いた。
「本当に妙な度胸があるよな。よくもあんな平然と」
「道を聞かれたくらいで剣を抜いたりしないでしょ。近寄るのも危険なら観光をお勧めされるはずないし。そんな騒ぎを起こせば困るのは向こうの方だもの、普通に穏便に追い払われるだけだと思ったわよ」
このまま離宮の周りをうろついても、たいして収穫は得られないだろう。あやしまれてもいけないので、私は一旦離宮をあとにした。
「やっぱり、あれはエランド兵みたいね」
海の方へ向かってそぞろ歩きをする。ぽかぽか陽気が本当に心地よい。凍死しかけるほどに寒かった戦場とは別天地だ。
町の人々は、この島で戦が起こっていることなんて知らないかのような顔で歩いていた。明るく穏やかな港町。子供がはしゃいで駆け回り、恋人たちは幸せそうに身を寄せ合っている。広場では大道芸人が観客を集めていた。
あまりに平和な風景が、うそ寒いほどだった。本当はここにもエランドの手が伸びているのに。足の下は薄い氷で、いつ割れるかわからないのに。
「地元民ならたいてい知っていそうな場所がわからなくて、町中で見かける花の名前も知らない。遠方から配属されたばかりっていうなら、そう言い訳しそうなものなのに、ごまかして追い払うだけ。どう考えてもあやしいわよね」
「そうだな」
「たしかに暖かいけど、暑いというほどでもないしねえ。地元の人ならむしろ、これが冬の気候だって思ってるでしょ。多分夏はかなり暑くなるんだろうから、今の時期に暑がることはないわよね」
「うん……でも着込んでると、たしかに暑いな」
イリスが襟元を緩めるので、私は首をかしげた。
「イリスも暑いの?」
「ちょっとな。エランドほどじゃないけど、僕の実家のあたりもけっこう寒いから。たまに凍死者も出るよ」
「……ああ、それであんな手当ての仕方を知ってたわけ」
低体温症になった時、イリスが的確な処置をしてくれなければ本気で凍死していたかもしれない。騎士の心得のひとつなのかと思ったらそうでもないらしく、なんでイリスはあんなことを知っていたのだろうと、ちょっと疑問に思ってはいた。
「うん。昔冬場に食料が心許なくなってさ、すぐ下の弟連れて狩りに出たんだよ。今にして思えば、吹雪の中に十二歳の子供を連れて行くのは間違いだったけど、当時は僕も子供だったからさ。このくらいなら平気かと思っちまったんだ。首尾よく獲物を手に入れたはよかったけど、弟もぶっ倒れて、両方かついで帰るはめになってさ。あれは大変だったなあ」
笑いながらイリスは言うけれど、それって遭難一歩手前だったのでは。
「……その時、イリスはいくつだったの」
「十四。最終試験を受ける二年前だったよ。ま、後に役に立ったから、あの経験も無駄ではなかったけど」
それは生きて帰れたからこそ言えることだろう。いつも私のことを無茶だとか言うくせに、自分もずいぶん無茶やってるじゃないか。
「イリスの実家って、どの辺なの」
「ウルワット地方、って言ってわかるかな」
「うん、農業の盛んなところね」
ロウシェンには珍しく平野部の多い地方だ。穀物栽培がメインな、ロウシェンの食糧庫である。
「そんなに寒くなるの」
「冬はね。なら夏は涼しいのかっていうと、そうでもなくて。気候の変化が激しいんだよな」
夏場はエンエンナの方が涼しいとイリスは言う。それもあって、ここ数年実家に帰っていないのだとか。彼は寒さよりも暑さの方が苦手なようだ。
「どんなとこか、一度見てみたいな」
「農地ばっかで、何もないド田舎だよ。まあでも、いいところかな。そうだな、いつか一緒に……」
なんとなく見つめ合ってしまい、照れて視線をそらした。いつか一緒に彼の実家へ、なんてまるで結婚報告をしに行くみたいな――いやいやいや、違うから。そういう話じゃないから。イリスは絶対そんなこと考えていないから。
横道に逸れそうな頭を切り換える。今は浮ついた妄想している場合じゃない。
煉瓦造りの橋からは港が一望できた。午後の陽光に輝く海が、眼前に広がっている。展望台も兼ねているのだろう、素晴らしい眺望だ。足元の川には小さな舟がたくさん、行き来したり繋留されていたりする。見下ろした時にもちょうど一艘、アーチ型の橋脚をくぐり抜けていった。川面まではけっこうな高さで、下を見るのはちょっと怖い。そして橋の上は、まるで鴨川のごとく一定の間隔でカップル達が並んでいた。なるほど、さすが恋人橋。なんとなくこの状態を維持しなければならない気がして、私達も同じ間隔を空けて立ち止まった。
「軍艦はある?」
停泊している船を指さしてイリスに尋ねる。すぐに答が返ってこないので見上げると、イリスは厳しい顔でどこか一点を見つめていた。
「イリス?」
「――いや……そうだな、あの黒っぽいのと、それから端っこの二隻。うまく偽装してるけど、あれは多分商船じゃないな」
「あれだけ? ……まあ、たくさん軍艦が停泊してたら、さすがにおかしいって思われちゃうか」
海からの出入りも盛んな町だから、港に停泊している船は多かった。大小さまざまな船が並ぶ中、帆を畳んだ地味な船は意識しないと目に止まらない。風景の一部として見逃してしまいそうだ。
「港へ行ってみましょうか。あの船がいつ頃から入っているのか、聞いてみるのもいいかも」
「頑張るのはいいけど、けっこうたくさん歩いてるぞ。そろそろ疲れてるんじゃないか?」
イリスは私の体調を気づかう。たしかに疲れたし足も痛い。でも明るいうちに、動けるだけ動いておかないと。こっちじゃ夜の観光なんてできないんだから。
自転車でもあればいいんだけどね。実を言うと馬で出かけようという提案もされたのだが、目立ちそうなのでやめておいた。
こうしていても周囲からチラチラと視線を向けられる。相手は主に若い女性で、注目されているのはイリスだ。
隠密行動には向かないやつだよね。アルタの人選、間違いだったんじゃないの? そりゃあ私としては、イリスがそばにいてくれるのは心強くもうれしいので、文句なんてありませんがね。
「初日からとばすなよ。寝込んじまったんじゃ意味がない。今日はもう宿に帰ろう」
「寝込まないわ。こんなに暖かいんだもの、風邪ひく心配もないし」
「夏場でも熱を出すやつが何言ってる。けっして無理はしないって、ハルト様と約束しただろう」
「それは危険な真似をしないという意味で……」
言い張る私に、イリスは首を振った。
「がむしゃらに頑張ればいいってものじゃない。あとのことを考えて、常に余裕を残して行動するべきだ。ホーンとメイリも情報拾いに行ってるから、一度集合して話を聞こう」
渋る私の肩に手を回し、イリスは強引に歩かせる。こんな時まで過保護にしなくてもいいじゃないよねえ。それとも、元隊長さんの判断かなあ。
日が傾きかけた橋の上は、風が少し冷たくなってきた。そこかしこにいるカップル達は、肩を抱いたり腕を組んだり……しているとも、かぎらないな。
なんだろう、微妙な雰囲気になっている組がいくつもある。連れがよその男にばかり目を向けて、機嫌が悪そうな男性とか、白けちゃって早く帰りたそうな女性とか。大丈夫かあの人たち。縁結びの恋人橋が、縁切りの別れ橋になりそうなんだが。
周りに被害をもたらしていることにまったく気付いていない鈍感男は、私の機嫌を取ろうと焼き栗の屋台を指さして、買って帰ろうなんて呑気に笑っていた。
すみません、レーネのみなさん。どうかこの橋が破局の名所になりませんように。
大きな宿だけあって、浴場施設がちゃんとしているのがありがたかった。その夜私はしっかり温まり、髪もていねいに洗った。ここしばらく、お風呂事情に恵まれていなかったからね。クルスク城のお風呂はサウナ式で、ゆったりつかれる浴槽はなかった。旅の間なんてタオルで拭くことしかできなかったので、ようやく私の求めるお風呂にありつけたのが心底うれしい。
お風呂上がりのスキンケアをしたあと、まだ湿っている髪をやはり湿らせた紙に巻きつけていく。だいぶ伸びたなあ。この世界に流れ着いた時は軽く肩にかかる程度だったのに、もう背中を覆うくらいだ。落ちついたら切りたいな。イリスやユユ姫みたいなストレートじゃないから、伸ばしていても見栄えはよくないんだよね。
根元まで巻いて紙を結んだらできあがり。それをいくつも作り、仕上げに布で頭を巻いてほどけないようにする。これで明日にはくるくるの巻き髪ができあがるはず。
「いつもそんなことをしてるのか?」
見ていたメイが、感心、あるいは呆れたような調子で尋ねた。私は化粧水を手に取り、洗いっぱなしの彼女の顔にぴたぴたとなじませた。
「ううん、これは癖をつけるため。洗ったあとごしごしこすらなかったでしょうね? ちゃんと言ったとおり、タオルを押し当てて水気を吸わせた?」
「う、うん」
冷たい感触にメイが首をすくめる。
「はい、これも手に少し取って、顔全体に薄く塗り込んでね。強くこすらないのよ。優しくマッサージするようなつもりで」
保湿オイルを渡す。本当は香油を使いたいところだが、とても高価なので庶民には手が出せない。前にカームさんがくれたコスメセットに入っていたのは、それはそれはいい香りで使い心地がよかったな。使い切っちゃって残念。ハルト様に高級品をねだるのは気がひけるので、それ以降は植物の種を搾ったというオイルを使っている。今使っている化粧品も、昼間町で買い込んできたものだ。
「……油を顔に塗り込むのか?」
「人の肌にも油分があるの。洗うとそれが失われるから補わないと、肌荒れひいては老化のもとなのよ。ニキビ症の人にはお勧めできないけど、メイは大丈夫よね」
本人が気にするほどメイの肌は悪くない。だってまだ十七歳だもの、当然だ。ニキビもないし、ちょっと手入れをすれば見違えるようにきれいになるはずだ。今まで化粧はおろか眉を整えたことすらないというので、宿の女将さんに頼んで道具を借り、きれいにしてあげた。もともと美人な顔だちなので、すっきりさせたら可愛いこと。日焼けした肌も、見方を変えれば溌剌とした健康美と言える。南の町では違和感なく溶け込みそうだ。
私は屋台で買ってきたきれいなスカーフを広げてみせた。大胆な柄が染め抜かれ、縁にも飾りが縫いつけられていて、とてもおしゃれな一品だ。
「明日はこれ使いましょ。ホーンさんに楽器の心得があってよかったわ。本当に芸達者よね。参謀官やめても食べていけるわね。イリスには離れた場所から見守ってもらうとして、メイには頑張ってもらうわよ」
明日の予定はすでに伝えてある。うきうき話すと、メイは少し身を引いた。
「あたし……武術以外は、何も……」
うろたえて視線をさまよわせる。可愛いなあ。戦えばあんなに強いのに、こうしていると本当に普通の女の子だ。
「鈴を鳴らしながら適当に踊って盛り上げてくれればいいのよ。音楽に合わせて、好きなようにやってくれればいいから」
「ええー」
明日はちょっと違う方向で動いてみよう。今日はひたすら目立たないようにと心がけていたけれど、むしろ目立ちまくってやる。
遠い北の国から遠征してきて、楽しむ余裕などあまりないだろう兵士たちが、気を引かれるほどに。
できれば上の偉い人にまで噂が伝わって、お呼びがかかるように――なんてのは、期待しすぎかもしれないけど。
明日のため、美容にしっかりと気合を入れ、今夜は早めにおやすみなさいです。




