☆9 視線の意味
嫌になってしまうことに、従者となったエドワーズの働きぶりに落ち度は何もなかった。
元々器用な人間だったのだろう。掃除や炊事をしているメイド連中からの評判も上々に良く、あいつはノクターン家での存在感を控えめに放っている。
まるで水晶の輝きのようだ。癪に障ることに、それだけは認めざるを得ない。
「……いいか、エドワーズ。俺は、お前のことを信用していないからな」
人目のない時間に。窓を拭いていたアランを廊下の壁際に追い詰めて、俺は勢いよくそう言った。
「なんのことでしょう、坊ちゃま」
「その坊ちゃまという呼び方も止めろ、皮肉か。俺とお前は殆ど歳が違わないだろう」
その言葉を耳にして、目を丸くしたアラン・エドワーズはくすりと笑う。
「……そうですね、ジークシオン様」
「お前のような素性の知れない者をどうして父上がお認めになったか知らないがな、少なくとも俺の周りにお前を必要とするような仕事はないし……」
「マティルダは、随分と貴方に惚れこまれたようだ」
俺はその発言に息を呑む。
どうして。何故、この少年がマティルダの正体を知っているのか。
「公爵家のメイドにわざわざ魔女を採用するような何か困り事でもおありですか? ジークシオン様。魔に関わる者は災いを呼び寄せることが多い。貴方様には不釣り合いな縁だ」
「お……っ」
俺は叫んだ。
「お前に、何が分かる!」
怒りで真っ赤になりながら、俺は反論しようとした。
すると、殴られそうになったエドワーズが身軽に攻撃を避ける。
「……貴方が今の貴方になるずっと前から」
ひっそりと聞き取れない大きさの声で、何事かをエドワーズが紡ぐ。そして、複雑な感情のこもった、生ぬるい水温の瞳でこちらを見た。
「随分と貴方は変わってしまったようだ。私は昔の貴方の方が好きだった」
「……かし、のって」
こいつは一体何を言っているのだ?
まさか、前回の人生からの知り合いだとでもいうのだろうか。しかし、記憶の隅から隅を探したところでこの少年の存在はどこからも出てこない。そのことにざわざわとした違和感を覚えて、それをはっきり問いただすことに躊躇しているうちに、エドワーズは浅く笑い声を立てた。
「年寄りの耄碌です、お気になさらず」
「だから、お前の歳は俺と一緒のはずで……」
「坊ちゃん。この世に見えるものばかりに囚われると、大切なものを見落としますよ」
エドワーズが陰をもって笑う。
眩暈がしそうなほど、太陽が煌めく。
背後の空がゆっくりと陰って。春の青い空気が鼻の奥にツンと薫った。
その日、出かけるには天気が良かった。
俺は流行りのレストランのランチにリリーを誘った。
婚約者という立場を使って、彼女と少しでも一緒の時間を過ごそうと目論んでいる。そのことを自覚したら、少し羞恥心というものを感じてしまう。
先日贈ったドレスではなく、凛々しい男装で現れた彼女を見ても心は驚くくらいに静かだ。女性の姿でも、男を装っていてもリリュカはリリュカだ。綺麗な彼女が楽しそうにしているだけで充分に満足できる。
それなのに、だ。
ジークシオンは半目となった。
「エドワーズ、近くにお前がいなければもっと愉快な気持ちになったのだが」
「仕方がありません、私は坊ちゃまの従者であります故。主人の安全が第一でございます」
「デートの時ぐらい邪魔をしないという気配りはなかったのか?」
こちらの言葉に、ははっと不愉快な笑いが返ってくる。
「ジークシオン様、この方は……?」
「ああ、覚える必要はない。認めてはいないがただの従者を名乗る変人だ」
「ええ……」
へにょりと眉が下がり、リリーは困り顔となる。
その顔色を見て、俺は慌てて口を開いた。
「違う、お前を紹介したくない訳じゃないんだ」
「ジーク様……」
「リリー、こいつはエドワーズ。アラン・エドワーズという神官から俺の従者になった変わり者なんだ。エドワーズ、こちらはリリュカ・ローズレッド。伯爵家の令嬢で俺の婚約者だ」
ちゃんと説明すると、エドワーズに向かってリリュカは淡く微笑んだ。
「はじめまして、アランさん」
「……はじめまして、リリュカ様」
「ふふ、よろしくお願いしますね」
どうしてだろう、この瞬間のエドワーズは感情の見えない眼差しでリリュカに視線をやっていた。まあ、彼女はどこの誰と比較しても美しい容姿をしているから見惚れるのも無理もない。見た目だけでなく、心持までも綺麗だ。この世のものとは思えないほどに、無垢で清らかだ。レストランの片隅からは穏やかなピアノの旋律が流れ出し、俺は冷める前に紅茶を飲んだ。
自慢の婚約者だ。そう言おうとして、
「我慢の婚約者だ」と、酷い発言になってしまった。
……いやいや、我慢って。呪いよ、気でも利かせて洒落たつもりか。
「我慢、ですか」
エドワーズが目を瞬かせる。
「はい、私なんかで忍耐してもらっています」リリュカがお茶目に笑う。身体の奥から恥ずかしさがこみ上げ、俺は飲んでいた紅茶にむせた。
いっそ透明になってしまいたい。
「大丈夫ですか、ジークシオン様」
「あ、ああ……」
「ご衣裳は無事ですね。ゆっくり息をしてくださいませ」
咳をしているこちらに、優しいリリュカから心配される。
「すまない」
間近になった互いの顔同士の距離に、息を呑む。みるみるうちに二人とも赤面をして弾かれたように離れた。
聡明なはずの自分は幼い子どもに戻ってしまったように、純粋な心が鼓動を刻む。落ち着こうとすればするほどに心臓は勢いよく跳ねた。
どうして、今更。
我ながらに戸惑った。
自分のやったことを忘れたように、歳を重ねた過去を失くしたみたいに、もう一度君に率直な恋情を覚えるのか。
このまま彼女の純真さに染め上げられてしまえば、あの恐ろしい罪を消し去ることができてしまう。そんな予感がして、むしろ俺はそのことが僅かに恐ろしく思えた。
食事を終えて、馬鹿な俺はリリュカに囁いた。
「なあ、君さえ良ければ……このまま二人で抜け出さないか」
「え?」
「護衛とエドワーズを撒いて、屋台や道化師を見物するんだ。このままじゃムードもないし窮屈すぎるだろう?」
不安そうな顔をしながらも、にこりとリリーが微笑む。
「それはとても楽しそうだ」
「そうだろ?」
承諾してくれたリリーの柔らかな手を握り、俺は護衛についてきたノクターン家の人間の油断をかいくぐって走り出した。




