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キマリは本当に、何にも出来ない人だった。
家を離れて二人で暮らすようになってから、自分の世話はすべてやると言い張った彼女は、その日の晩御飯を黒こげにして、洗濯物は水浸し泡塗れで、部屋の掃除をすれば折角買ってきた調度品を二つも三つも落っことして割ってしまい、破片へ不用意に触るものだから指先を切って、血を見れば目を回して座り込んでしまう。
家事をやったことがないのはシアも同じだったけれど、失敗するキマリの横でせっせとやり直すのは大して苦労しなかった。
素直に人を雇えばいいのでは、と言ってみても、少しだけむくれたキマリは黙って一つ一つの失敗と原因を調べて、翌日には大量の本を買い込んできて読み耽っていた。
鍛錬は、と聞いてみたら、完全に忘れていたらしくすっかり散らかった本を部屋の隅へ押しやり始めようとする。
部屋の中はそれとなく整えられたけれど、食事ばかりはどうしようもなく、しばらくはお店で食べるか、持ち帰るかを続けていた。
失敗して部屋の中に異臭が充満すれば二人でバルコニーへ出て買っておいた出来合いの料理を食べる。
洗濯機を使えば洗剤が多すぎて白い跡が残るし色移りが起きて駄目にする。大事なものだからと手洗いすればすぐにバテて一日掛けても終わらない。
調度品を割らないように固定はしたものの、今度は隙間に溜まった埃が気になるらしく細い棒でちまちまと拭き取り始めて鼻歌を始める。
たまの雨に降られて二人で走れば真っ先に息切れして、結局家に着く頃には濡れ鼠。
更に失敗したり、下手な畳み方をしたり、引っ掛けてほつれてしまったりと溜まりに溜まった衣服ばかりで着替えもないまま、二人してバスタオルを巻いて過ごした日もある。
ゆっくり、ゆっくり二人は新しい生活に慣れていった。
最初に成功したのはなんと料理だった。
お店で買ってきた混ぜて焼くだけのホットケーキを、専用のプレートまで買ってきて作った。
反対でシアが身を乗り出して覗いていると、キマリは危ないからと抑えようとしてローテーブルの端に置いてあった生地のタネをひっくり返してしまった。焼けたのは既に乗っていた一枚だけで、じっくり弱火で焼いた。汚れを拭いていてやっぱりちょっと焦げてしまったし、ひっくり返すのを失敗して表と裏が歪な形をしていたけれど、蜂蜜をかけて食べたホットケーキはとても甘くてふわふわしていて、おいしかった。
おいしい。
そう言うと、キマリは不安そうな顔から一転して、興奮に頬を染めて笑った。
次に掃除だ。
割れ物を固定する事で落下させることは無くなり、濡れ布巾で拭いた跡は乾拭きすることを知り、箒にもいろんな種類があることと、便利な掃除機というものを買ってきて物凄く偉そうに説明された。道具や使い方が分かれば、掃除というのは習慣と根気だ。どちらもキマリの得意なことだったおかげか、しばらくすると部屋が汚れているような事はなくなった。
食器を落として割った時などは、白手袋を五枚も重ねて拾う事で怪我もしなくなったし、細かい破片は掃除機が吸い取ってくれた。
たまに拾い忘れた破片を後になって見付けて青ざめることもあったけれど。
暑い場所というのは虫も多い。
失敗した食材が放つ異臭につられてか黒いのとか足の長いのとかが当時はよく現れた。
悲鳴をあげて怯えるキマリの前でシアが素手でそれらを掴み、バルコニーから放り投げると、大慌てで手を丁寧に丁寧に洗ってくれる。
色あせするものと、一緒に洗ってはいけないものと、陰干しや防虫について知ってからは、服が駄目になることは減った。
布団とカバーをそのままに干すことは無くなったし、変な勧誘が来てからは下着を見えないよう意識する事も覚えて、敷きっぱなしだった足拭きマットは毎日使うときだけ使用するようになった。
洗剤以外にも柔軟剤や芳香剤などを試し始め、それはまた色々な失敗が起きたけれど、結果的にバスタオルが徐々に固くなっていく現象は大幅に改善された。
キマリが夢中になって家事をする時、シアは楽しく様子を眺める。
勉強もキマリの教え方が面白くて、遅れていた分はすぐに取り戻し、いくつかの試験にも合格して、なんとか基礎課程というものを修了出来た。
なんにも出来ないのはキマリだけじゃない。
シアもまた、あまり世間というものを知らずに生きてきた。
唯一詳しいつもりでいた魔道も百年遅れの知識で、キマリの授業ではなるほどと大いに感心した。
家事も、勉強の方針も、塔へ至る道筋も、全部キマリが考えてやってくれた。
シアがするべきなのはまず勉強だ。
古臭い魔道から今に至るまでの歴史を学び、魔女術をより先進的に、幅広く対応できるゆとりのある姿勢を身に付けていった。
一緒に出かけた時はお金の種類を教えてもらって、後ろで離れて見ているキマリに屋台の大判焼きを買っていくと、とても喜んでくれて、二人で分け合って食べた。
公園には見たこともないような動物や虫が一杯で、目を奪われて追いかけていると転びそうになった。慌てて寄ってきたキマリに注意されて、けれど気になって仕方が無いからと言えば、手を繋いで気ままな散歩をする猫を遠巻きに追った。
人馴れしていたらしい猫がキマリへ飛びついた時、彼女は慌てて受け止めようとしたけれど、どうしていいのか分からなかったようで腰が引けたままひっくり返った。
その状態で擦り寄ってくる猫をおそるおそる撫で、指先を舐められたのを見てシアの袖を何度も何度も引っ張った。
買ってもらった新しい本を馬車の中で読んでいて乗り物酔いをした時は、鍛錬もお休みして膝枕をしてもらった。
お休みの日にあちこち走り回って疲れたシアが眠りこけてしまうと、キマリは背中に負って家まで連れ帰って、そっとベッドに寝かせてくれた。
いつの間にか一緒になって走っていても息切れする姿を見なくなって、乱れた前髪にそっと触れた指先は水や洗剤や切り傷で荒れて固くなっていた。
シア以上にいろんな勉強と試行錯誤と練習をしていたキマリは朝寝坊が多かったのに、気がつけば目覚めた時には朝食がちょうど完成しているようになった。
自分なりに料理にも凝ってきて、特にハーブティーは独自にブレンドをするくらいだった。魔術による配合も加えたオイルによるマッサージなどが始まったのもその影響だろう。
バルコニーや窓際には小さなハーブの鉢が並ぶようになり、興味を持ったシアは日々の水やりを任せてもらうようになった。
その日に買いに行ったコップに細長い注ぎ口がついたようなじょうろは可愛くてお気に入りだった。
厳しくなっていく指導や鍛錬も、頑張るキマリを見てきたから、何一つ苦には思わなかった。
昔からちょっと雑な所もあった為か、たまに面倒くさがってしまうことはあったけれど、そういうシアの駄々をキマリはしっかり受け止め、考えてくれるのが嬉しかった。
※ ※ ※
初めて会ったとき、キマリは靴の先から髪の先まで何もかもが完璧だった。
殊更お嬢様という様子ではなかったけれど、働きに出る女の人のようにしっかり身を固めて、完璧な笑顔をいつだって浮かべていた。
最初は、父親の用意した家庭教師としてやってきた。
母親のわがままに巻き込まれて次々辞めていってしまうから、ちょっとした知り合いの紹介で来たのだと言っていた。
姉の死やシアの存在、母親の狂ったフリもあって、家の中は重苦しい雰囲気だったというのに、キマリは溢れんばかりの笑顔で父親たちに接して、そんな彼女を見て皆が素晴らしい人だと賞賛していたのが不思議でならなかった。
彼女の目は、何一つ笑っていなかったのに。
あれを笑顔と言って喜ぶ気持ちが分からなかった。
だけど確かにシアが出来なかったことをやってしまったキマリのそれを、なるほどと納得したのだ。
ある日、シアの部屋で二人っきりになって勉強を教えて貰っていた時、お礼の気持ちを篭めて練習してきた笑顔を見せた。
ありがとう。ずっとずっと、皆の辛いを取り除きたかったけど、貴女がやり方を教えてくれたよ。
そう伝えたつもりだったのに、キマリは途端に表情を失って、泣き叫ぶように言ったのだった。
「そんな嘘じゃ誰も救えないっ、嘘の表情を重ねるほど貴女の中から純粋なものが消えていく……! 二度とそんなことをしないでっ!」
「……でも、お父さんも、お母さんも、本当に嬉しそうだったよ?」
「あの人たちは最初から真実を見るつもりなんてないからっ、表面上の、甘ったるいだけの見せ掛けで、それ以上を考えもせず満足しているだけですっ」
「ちがうよ」
シアは彼女の目を見た時思ったのだ。
キマリの笑顔は嘘で、笑っていなかったけれど、
「あなたはお父さんもお母さんも、助けようとしていたよ?」
嘘は悪いものだと思っていた。
魔道を教えてくれた曾お婆さんは、嘘をつけばそれだけ魔女術に陰を作ると言っていたけれど、心から誰かを助けようとした時、騙すという手段も存在するのだと思った。
それは自分を守って正しいまま進むよりずっと大変で、苦しいものだ。
だからシアは、ずっと秘密にしてきた事を教えたのだ。
「あなたは、魔道を知ってる? 知っていたら、教えて欲しい」
魔女を、魔導士を、いかがわしい不気味なものだと思い込んでいる家族に、そんなことはないよと教えたかった。
曾お婆さんは教えてくれた。
魔女は感応によって他者と心を通わせることも出来る。
相手の誤解も、悩みや悲しい事も、魔女はそっと支えてあげることだって出来るんだと。
結局それらは失敗したけれど。
家族との致命的な破綻の後、再び数えるほどの使用人しか居ない古城へ押し込まれたシアは、それでも魔道を続けていた。
もう父親も母親も彼女と会ってくれないだろう。
父親は今までシアが母親をいかがわしい魔法で姉と思い込ませていたんだと言い張り、母親は憐れな犠牲者として多くの同情を集めた。
たった一つ残ったもの。
それが魔道だった。
家庭教師も居なくなり、世話をする使用人も日々入れ替わっていき、簡素な冷めた食事を食べて荒れっぱなしの部屋で寝る。
押し込められた曾お婆さんの遺産のおかげで勉強は続けられたけれど、吹雪に覆われた景色を眺めていると、まるでずっと同じ日を繰り返しているようにも思えた。
永遠に先の来ない、終わりの場所。
けれどある日、彼女がやってきた。
嘘の仮面を被っていた、シアに希望を見せてくれた人。
彼女はもう何の表情も見せず、この閉じたお城の中で、日々を生きて死ぬだけのシアへ向けて言うのだ。
「もし……貴女が望んでくれるのなら、私の全てを捧げます」
とても綺麗な膝を冷たい石床につけ、手指を寒さで凍えさせながら、
「貴女から全てを奪ってしまった魔道で何が出来るのか、私ならその道を照らす事が出来ます。どんな道でも、傍らに立って共に歩みましょう。だからどうか――」
差し出された手を見る。
その奥にある彼女の瞳を見る。
「私と共に、塔の頂を目指しませんか」
そうして、シアは閉ざされた場所から、広がる世界へ足を踏み入れたのだった。
※ ※ ※
会場に溢れた無数の光の粒がふわりと風に煽られて流れを持った。
光は、粉雪のように天井から降り注いでくる。
不思議と寒さはなかった。
ただキラキラと美しい光の注ぐ景色の中で、一人、また一人と身を震わせて立ち上がっていく。
「なに…………これ……?」
真っ先に立ち上がっていたキマリの隣で、エリティアが呆然とこぼす。
壇上でシアの始めた実演だ。
規模は前回に比べればとても狭い、この会場を埋める程度のものでしかない。
雪のようだが寒さを再現すら出来ておらず、光は些細な身動きにすら煽られて流れを変える。
一度は展開された天井の天球図は動きを止め、まるで戸惑うように小さく揺れていた。
立ち上がっていた男の審査員の一人が手元に風を生み出し、光の渦を作った。
それは魔女術ではない。魔術だ。
世界を上書きする魔女術の中では、あらゆる魔術は効果を発揮できない。
だというのに風は尚も光に流れを作り、粉雪のように降りしきる光の粒を自在に操っているように見えた。
「魔女術というのは、300年前に始まりの魔女が七つの塔によって世界を支配してから生まれた言葉だ」
沈黙する会場内で、クラインレスト学院代表ハーヴェイ=ブルトニウムが口を開いた。
「始まりの魔女は皆卓越した実力者ではあったが、なにもそれまで魔女が存在しなかったということはない。とはいえ、シャルのやってみせた感応こそが原初の魔女術と呼ぶべきもので、コレは全くの別物だ」
「えっと……どういう……? これって、魔女術です、よね? だってシアは感応から始めて…………」
エリティアの問いに、彼もまた少しばかり困ったように言う。
「さて、何をしたんだろうな」
「何をって……だから魔女術……を……」
混乱のまま口走って、けれど今も尚降り注ぐ光の粒に、魔女として感応するエリティアは口篭る。
おそるおそる、魔女術を行使した。
ささやかな水流だ。噴水のように広がる、水として形作りもしない簡単な魔女術。それでさえ、これが仮に魔術であれば容易く上書きし、魔女術であれば術者同士の上書きする力が食い合ってどちらかを打ち消す。
光は水流に乗って流れを変え、時に薄い水の流れを貫通して落ちてきた。
答えを知っていたかのように、ハーヴェイは動じることなく言う。
「基本となるのは魔女術だろう。けれど、魔女の精神世界によって上書きするのではなく、ありのままの現実と手を繋ぎ、受け入れているように思える。だから魔術を打ち消す事もせず、他の魔女術と干渉しても食い合うことなく共存する。実に……実にこの上なく見事な実演だよ。魔女の魔術に対する絶対性を失った、極めて脆弱なものではあるが、これは新たな魔道の道標となるものだ」
彼は満足げに手を伸ばし、光に触れる。
日頃険しい彼の表情がほころび、やわらかな笑みが浮かんだ。
シャルロッテがまぶしそうに光を眺めている。
「受け入れる事。許容する事。そして、慈しみ、認めてくれる心。シアさんのやさしさを表す素敵な光ですね。こうして触れるだけで、シアさんのやさしさに触れたように、心が解きほぐされていくみたい」
同じ事をエリティアも感じている。
魔女術で干渉しているから余計に、この光に篭められたシアの気持ちが分かる。
感応し、相手の内面に触れて、こんなにも心を揺り動かされる。
これはまるで、
「まるで……呪術」
軋んだ声に振り返る。
立ち上がったキマリが手を伸ばし、光に触れていた。
※ ※ ※
キマリは、光に包まれ夢を見ていた。
今日までの日々、失敗だらけで、一緒になって考えて、乗り越えてきた今まで。
偽りの笑顔を見破られてから、キマリは彼女の前で表情を作る事が出来なくなった。
どれだけ上手く作っても、シアには必ず気付かれてしまう。
だから、彼女を捨てた家族から引き取ってからの日々、キマリはずっと能面みたいな表情をしていただろう。
けれど楽だった。
嘘をつかなくて良かった。
淀んで汚くなった心の欠片も捨てることなく、ありのまま。
光に触れる。
シアの記憶。
何にも上手く出来なくて、二人の夢の為に必死に試行錯誤していたあの日々。
彼女の記憶の中で、自分はあたり前に笑っていた。
どうして、と思う。
そんな表情を作った覚えは無い。
違う、嘘だ、と思った所にまた新たな光が触れる。
『違わない。キマリは、笑ってたんだよ』
壇上で、シアがこちらへ両手を差し出して笑っていた。
疑いも、逃げも、この光の中では通用しない。
さらけ出された心がどうしようもなくキマリに触れてきて、真実なのだと教えてくれる。
『貴女が私に夢をくれたんだよ。どんな辛いことも、頑張る貴女を見ていたら、もっともっと頑張りたくなったんだよ。
呪術で私の成長を促す方法を考えついた時、貴女はあまりにも危険だって、止めようとしたけど、私がやってとお願いした。
もし、私にまだ出来る事があるなら、貴女が一緒にその苦しい道を進んでくれるのなら、たとえ終わりに繋がる道だって怖くない。
私と貴女は一緒、貴女が苦しんでいたら、私も一緒に苦しむよ。
貴女が一人で泣いていたら、隣で私も一緒に泣くよ。
どうすればいいか分からなくなったら、私も一緒に悩んで、道を探すよ。
貴女が立ち止まってしまったら、いつか私にしてくれたみたいに、私が先を示して、その手を引くよ。
ねえ……』
初めてウインスライトの地を踏んだ時、キマリは自分の手足が震えていたのを覚えている。
聳え立つ塔が、怖ろしくて仕方なかったのだ。
その時、自分の手をきゅっと握った、小さな手を思い出す。
引かれるまま膝をついた自分の頬に、シアはそっと手をやったのだ。
『ずっと黙ってたけど――私は、キマリの事が大好きなんだよ』
彼女の指先が触れたように感じた。
あの日辿った指先の感触が、再びキマリの頬を流れ落ちる。
――止め処なく、涙は溢れ続けていた。
次話、第一章最終回。




