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本当に、嘘でも誤魔化しでもなく、あの時のキマリには魔女に執着する心などなかった。
けれど才能と呼ばれるものを発揮し始めてから自分に纏わりつくようになった人々の声が、意思が、嫉みと自分勝手な侮蔑が、途端に粘つく汚泥のように襲い掛かってきた。
偽者、ミュータント、そんな言葉はどうでもよかった。
それでもあまりに身勝手な物言いを聞いたとき、なぜそんなことが言えるのかと本気で不思議に思った。
勝手に決め付けて、根拠も無く見下して、道を失った人間を笑って指差しお前は本物だったよと、そんなことを言える人間が居るという事実がこの世のどんな不思議より理解できそうになかった。
問い詰めたのはキマリの方からだった。
なぜそんなことをいえるのか。思考できるのか。自分でも沸きあがる感情がなんなのかも分からず、それが相手を深く傷付けたのだろうとも思う。
けれど最初に手を出してきたのは相手の方で、魔女術も使えず、魔術も多くは扱えなかったから、抵抗に手加減なんて出来なかった。
初歩の魔術に含まれる理論を分析し、手段を拡張し、検証に検証を重ねて再構築する。
腹を蹴り上げられ、背中を踏まれ、襲い来る人の形をした化け物を止めようと恐怖に震えながら必死になって魔術を編み出した。
調査によって事実関係が明らかとなり、キマリが罰せられることはなかった。
罪は残らなかったが、心の奥底に残った棘が、塔の魔女になれなくなった為に起きた事として記憶に刻まれた。
姉のサラサが塔の魔女になった時、大人たちの喜びようは凄かった。
顔も知らなかった親戚や道行く人々が皆して祝福してくれて、キマリも我が事のように喜び、姉の姿に憧れた。
無欠の天才などと呼ばれ、次なる塔の魔女だとまで言われたキマリに傾けた期待も大きかったのだろう。
今思い返しても、異常なほど財を投入し、これ以上無いほどの環境で学べていたのだと思う。
塔の魔女の威光もまた絶大だった。
お金は幾らでも湧いて出た。別段、金に目が眩んでおかしくなる両親ではなかったけれど、きっと、皆して夢の中に居たのだと思う。
姉妹二人が塔の魔女になる、なんて事は今までに例が無かった。
言うほど単純ではなかったというのに、よく分かっていない人からすれば世界の三分の一近くが手に入ると思えたらしい。
だから、魔女の適正を失ったことで落胆していたのはキマリではなく、大人たちだ。
『あの子はもう塔の魔女になれないんだろうか』
『魔女の適正を失うなんて……っ、一体何をやっていたんだ!』
『お前たちがあの子に押し付けすぎたせいじゃないのか?』
『だからっ! あの子を攫った犯人を早く捕まえるんだと言ってるだろう!』
『もう絶望よ……あの子に全てを懸けていたのに……、もう、何も残ってないのよ?』
どこに居ても声は付いて回った。
天才ではなくなったのに。
けれど他に何だって目指せたのに。
キマリは、彼女なりに周囲の大人たちを励まそうとした。
何か特別な事を成し遂げて、評価されて、自分は大丈夫なのだと示そうとした。そして、彼らの希望を再び取り戻そうと考えていたのだ。
しかし、どんな成果も、成功も、だれもが無価値なもののように扱い、必死に笑顔を作るキマリを置いて去っていった。
これで駄目なら、もっと上を、もっと凄い何かを。
同時に、キマリが頑張るほどに、結果を出すほどに、閉ざされた道を幻視してしまう大人たちをなんとか励まそうと笑顔を作って、作って、作って――
「ある日鏡に、真っ白なのっぺらぼうが映っていました。自分のそれが笑顔なのか、泣き顔なのかも分からない。からっぽで、ざらざらしていて、気持ちの悪い化け物」
また一つ実演が終わり、生徒が下がっていく。
キマリは、今自分がなぜこんな話をしているのかも分からないまま、言葉を続けた。
「どんどん自分の中から何かがこぼれ落ちていくのを感じました。楽しかった思い出も、姉への憧れも、塔の魔女なんてものを目指した自分自身も、あの日見た三人みたいな化け物の記憶と同じ、とても淀んで汚らしいものに染まっていってしまう。だから捨てた。綺麗なものも汚いものも、その判断もつかなくて、一緒くたに何もかも自分で捨てていけば、勝手にこぼれ落ちていくより安心できたから。そうして、私も大人たちに何かを見せることは止めて、最後に残ったほんの僅かな、大切なものだけを抱えて生きていこうと思ってた…………なのに」
震える身を抱いて、あの日の言葉を思い出す。
憧れていた姉。
大好きだった、自慢の人。
けれど同時に、彼女が居るからこそ、自分は偽者だのミュータントだのと呼ばれ続けてきたことに、あの時ようやくキマリは気付いたのだった。
塔の魔女が何をしているのかは分からないけれど、成り立ての姉は忙しく、立場もあって滅多に会うことは出来なかった。
キマリが魔女の適正を失った後も、心配しているという言葉は聞いても、会えたのはあれが初めて。
小さな期待がキマリにはあった。
誰もが自分を見放したけれど、普段から別の道を探せと言い続けていた姉だから、きっと分かってくれる。
直前にエリティアと会って、彼女もまたキマリをなんでもない友だちとして、新しいなにかを始めようと言ってくれたから、それが本当に嬉しくて、自分の中では一番自信のあった成果を持ってサラサと再会した。
「姉は……サラサ姉さんは私にこう言ったんです。『私が、魔女の適正を取り戻してやろうか?』て」
隣でエリティアがまるで自分に杭が打ち込まれたみたいに息を詰めた。
その向こうではシャルロッテがとても悲しそうにしていて……離れているハーヴェイの様子は、薄暗くてよく見えなかったけれど。
偽者の天才と呼ばれ、失えば本物だったねと笑われ、なのに姉本人から自分をミュータントにしてあげるよなんて、絶対に言われたくは無かった。
そしてやはり、自分にはその道しかなかったのだと思い知らされたのだ。
塔の魔女になれない自分には何の価値もない。
キマリからすれば、姉の言葉はそう言われているとしか思えなかった。
けれど、どれだけ考えても、調べても、探しても、確かめてみても、失った魔女の適正を取り戻す手段なんてなかった。
「私が皆の中で価値のある存在に戻る方法はたった一つ……私自身が、私の価値を捨てる事でしか手に入らない…………。っはは、やっぱり私はあの時、姉に頼むべきだったんでしょうか。お願いします、どうか私を本物のミュータントにしてください、なんて」
枯れ木が割れるような声で笑う。
もし適正を取り戻していたら、こんなことにはなっていなかった。
シアをあそこまで苦しめる事も、エリティアやクラインロッテ家の人々を、慕ってくれた侍女を凶行に走らせることも、無かったのかもしれない。
自分だけで何もかも背負っておけば、せめて塔の魔女という栄光は手に入った。
今のキマリには何も無い。
唯一の価値と定めた塔の守護者になる道も、もう完全に途絶えている。
「私は逃げただけです。自分を守る為だけに逃げて、周りに化け物と指差されるのが怖かったから、鏡を買って、必死に表情を作る練習をした。幸いにも、作り笑いの才能もあったみたいで、大体の人からはすぐ見抜かれなくなりました。嘘と偽りから逃げた筈なのに、結局私は自分で仮面を被って、化け物になって………………それだけなんですよ」
沈黙が降りて、隣のエリティアがぽろぽろと涙をこぼしているのが見えた。
キマリにはもう涙を流す方法が分からない。たくさん練習して、笑うのも怒るのも誤魔化せるようになったのに、泣き真似は出来ても涙だけは流れてくれなかった。
薄闇で見る彼女の涙はとても綺麗で、僅かな照明の光を反射して宝石みたいに輝いて見えた。
通りで、と思う。
自分にあんな綺麗なものを流せるはずが無い。
これで話は終わりだ。
嘘だけで出来た笑顔を作り、三人を見る。
「ごめんなさい。こんな話を聞かされても困るだけですよね。私はもう疲れちゃいましたので、これで――」
「いや」
ハーヴェイが、話を切り上げようとするキマリを繋ぎ止めた。
「まだ、半分だ。君は確かに、多くのものを失って、自ら捨て去ったのかもしれない。だがそうして出来た隙間に何かが入ってきた筈だ。そうでなければ、今も世界を放浪し続けていた。君はここにいる。ここに至った、理由を聞かせて欲しい」
丁寧に、諭すような口調で言う彼に、キマリの被った仮面が僅かに解ける。
直そうとして、失敗する。
自分を見る視線から逃げるように、ぎこちなく顔を俯かせ、少しだけ背を丸めた。
しばらくの黙考の後、ゆっくりと息を吐き、苛立ちを含ませた声で彼女は言うのだった。
「……あの子は私にとって都合が良かった。昔から家族に言われるままハイ、ハイと断りもせず冷遇を受け入れて、曾祖母に言われるまま魔道を学び、隔離されてからも言いつけを守って、挙句に狂った母の人形にまでなって……。本当に馬鹿みたいに言う事を聞くから、御し易いと思っただけですよ。家族からも疎まれていたから、金銭で切り離すことも簡単でした。資格となる称号さえ手に入れてしまえば後は私一人でどうとでも出来る。だから本当に、誰でも良かった。栄光が約束されているのなら、あの子にとっても悪い話では無かったろうと思いますよ」
早く終わらせたかった。
真っ白な毛皮を被って羊のフリをしていたのに、お前は化け物だよと指を刺して笑われているようだ。
なのに、必死に取り繕った仮面をまた切り裂く声が来る。
「ちがうっ」
思わずキマリへ身を乗り出して、エリティアは逃げようとする彼女の膝を、肩を掴む。
「ちがう……! アンタはそんなこと思ってないっ。逃げるな! これから向かい合うのが挫折だってっ、どうしようもない結果なんだとしてもっ、アンタがここまで歩んできた想いからまでは逃げるなっ! アンタは独り善がりな執着だけであんなこと出来る子じゃない。アンタを信じる私が知ってる。アンタはいつだって、誰かの為に……!」
訴える言葉に、キマリはまるで駄々を捏ねるみたいに身を抱いて、身体を丸めて逃げようとする。
それがエリティアには、彼女が昔失敗をする度に見ていた姿そっくりに思えるのだ。
「私は、きっとキマリさんに救われました」
声が掛かる。
シャルロッテがそっと両手の指先を合わせ、祈るように謳いあげる。
「私はずっとクラスでいじめられてて、本当に辛くて、苦しくて、逃げ出そうと思っていました」
奥でハーヴェイが小さく俯く。
親代わりとして居た彼にとって、彼女から直に聞かされるまで気付いていなかったというのは、大きな悔いとなっているのだろう。
暗い過去を、けれどシャルロッテは光さえ帯びているような笑顔で言う。
「けれど、シアさんが私を救ってくれた。何度も、何度も、シアさんに助けられて、だから、私はここに居ます。道を阻まないでとも言われました。私はまだ、塔を目指すほど具体的な理由を持てていません。だから、本当は今日辞退しようかって考えていた時もあります。でも、シアさんに言われました。ちゃんと出て、って。この選考会で一緒に競い合いたいって……もし、私に理由があるとすれば、この都市に来て初めて出来た友だちと、本気で向かい合いたかったからです」
だから、
「貴女が連れて来てくれたんです。貴女が冬の山からシアさんを連れて来てくれたから、私は今、胸を張って言えるんです。私も塔を目指したい。この都市にきて、初めて夢を持てた。私は貴女に、キマリさんに救われました」
少なくともキマリがしてきたことは、一人の人間を救ったのだと、亜麻色の髪の少女は言うのだった。
「まーアンタがどうやってシアを誑かしたかなんて分からないけどさ」
すぐ隣でエリティアがちょっとだけ悔しそうに話を継ぐ。
「私だって、シアと友だちになれたし、またアンタと会えたのだって嬉しかったのよ……それに、一個だけ分かったことがあるわ」
キマリは未だ、こちらを見ない。
より頑なに、自分の汚さを守るみたいに、身体を抱いて目を背けている。
叩きつけてやる、とエリティアは思った。
自分の信じるキマリという人間は、本当に、いつでも誰かと何かに尽くす人だったから。
その献身をエリティアは知っている。
「シアと会って、また塔を目指せるって考えたとき、きっとアンタは思い浮かべたのよ。
これで、自分が逃げてきた人たちに、もう一度夢を見させてあげられる、って。
自分が塔の魔女になることは出来なくなったけれど、自分が育て上げた人が塔の魔女になって、自分はその使い魔として守護者となって、そうすれば、アンタが適正を失った事で夢を諦めてしまった人たちに、もう一度……。
そういう奴よ、アンタは」
キマリは頷く事も、否定もまた、しなかった。
黙ってこの薄闇の中、弱々しく身を抱いている。
紙のこすれる音がした。
審査員たちが新たな候補者の情報を見る為に、ページをめくったのだ。
足音を聞く。
誘われるように顔をあげていくと、もう三人はキマリを見ていなかった。
壇上、一人の少女が姿を現している。
真っ白で、ほんの少しだけ青が混じった髪の少女は、まっすぐ前を見て、綺麗に背筋を伸ばして中央へ歩み出る。
本来なら傍らに立つ筈の影はなく、急にキマリは彼女が遠く離れた存在に思えた。
「…………どちらにせよ、もうどうにもなりません」
彼女はもう、キマリに何も語り掛けない。
一人で学院へ通い、一人で鍛錬をして、一人で前へ進んでいる。
何も果たせなかったキマリなど不要なのだ。
結局自分には塔の魔女となる以外の価値なんてなかった。
シアが両手を合わせてくっと握る。
そして――
『なんにも出来ない女の子がいました』
光が溢れた。




