29
それから数日後、飛行船の用意が出来たと言われ、エリティアは一時故郷へ帰ることになった。
長期休みが終わるまでの間を、故郷で過ごすだけだと言われた。
嘘だというのも分かっている。帰郷を嫌がるエリティアにとって納得しやすい方便で、向こうへ行ってしまえば、もうここへ戻ってくることは出来なくなるのだろう。
頷きこそしなかったけれど、侍女の一件や自分の力不足や逃げを真っ向から否定されて、もう反抗する気力さえ失っていた。
言われるまま準備をして、馬車へ乗り込もうとした時、不意に悔しくて涙が溢れた。
驚いてあやしてくれたおじいちゃんにしがみ付いて、泣きながら思わず口にしたのは、キマリとシアに会いに行きたい、ということだった。
アパートメントの前に馬車を待たせ、少し前までは当たり前だった二階の扉のチャイムを鳴らす。
やはり、反応はない。
なぜ居ないのかが分からない。
なぜ何も言ってくれないのかも分からない。
親友だと思っていたのに。
彼女の為に、自分は――。
首を振る。
それも結局は自己満足だった。
本当にキマリの為だとしたら、再会した時に諦めてしまえば良かったのだ。
あまつさえ彼女の道を阻むだなんて、口にするべきじゃなかった。
きっと自分は、彼女の視界に入りたかったのだ。
そういう意味では、侍女のやったことと大差は無い。
「せめて……手紙でも書いてくればよかったな……」
向こうに着いたら書こうか。
そんなことを考えていたら、不意に思い出すことがあった。
「…………一階の」
手紙を入れたのだった。
もう随分と昔の話に思える。
同時に、思い出すことがある。
今向かい合っている扉の覗き穴と、ポストの穴。
何度訪れても反応のない二人は、どこに行ったのだろうか。
もう一度だけでもちゃんと向き合って話したい。
やるべきではないと思っているのに、どうしても我慢できなかった。
黒服が後ろに控えているのも構わずしゃがみこむと、ポストの蓋を押して覗き込んだ。
「…………………………………………………………………………………………ぇ?」
急に立ち上がり、エリティアは階段を駆け下りながら魔女術を使った。
風を纏い、宙に浮かぶ。
箒を使うように長時間は持たないけれど、ちょっと高く飛べればそれでいい。
呼びかける黒服の声を置き去りに、エリティアは反対側の、二階のバルコニーへ降り立つ。
ガラス戸は砕け、破片が床へ飛び散っていた。
カーテンは片側は引き千切ったようになっていて、もう片側は中程で鋭利な刃物に切り付けられたみたいになっていた。
室内も、ソファや机や椅子がばらばらに飛び散っていて、壁には何かで濡れた痕さえ見える。
「キマリ!? シア!? 居ないの!? ねえっ! キマリっ!! シア!」
遅れてバルコニーへ飛び移ってきた黒服たちも、中の惨状を見て顔色を変えた。
「お嬢様! 中は危険ですので入らないで下さい!」
「でもぉ! でもっ、でもっ、キマリとシアがっ! なんで? ねえ、なんでこんなことになってるの?」
「我々が確認します。ですのでどうかお祖父様と共に馬車でお待ち下さい」
力強く首を振り、エリティアは室内へ踏み込んだ。
買ってもらったばかりのミュールがガラスの破片を踏んで、耳障りな音を立てる。
割れたガラス戸を潜るとき、ワンピースのスカートが尖った部分に振れて中ごろから裂かれてしまう。
けれどそんな程度の事、何にも気にならなくなっていた。
遅れて潜ってきた黒服が脇に立つのを待って言う。
「ここはあのキマリが拠点にしていた場所よ。正規の手順を踏まずに踏み込んだ相手を排除するための仕掛けくらい十や二十あってもおかしくないわ。けどあの子に魔女術は使えないから、私が居れば全ての罠を無効化できる。違う?」
「…………その通りです。ですがせめて、私に先行させてください。罠というのなら、物理的なものも考えられますし、この惨状はなにか、力任せに破壊されたものもあるように思えます。万が一何者かが潜んでいた時、お嬢様では対処が遅れます」
そこまでは考え至っていなかった。
エリティアは素直に頷くと、お菓子先生の指示には極力従うようにして、自分たちの周囲へ常に魔女術による防御を張り続けた。
ゆっくり、時間を掛けて捜索していく。
遅れて数名の黒服が増援として現われ、全ての扉と、全ての部屋が確認された。
結果は、誰も居ない。
ほっとしたのも束の間、改めて事態の怖ろしさに震えた。
「キマリとシアはどこに行ったの……?」
部屋には誰も居なかった。
この破壊をした者も、キマリも、シアも、だ。
様子を見に来てから、いやもしかしたら第三回の選考会から、もう一月近く経過している。
どこに。
どこに行ってしまったのだろうか。
※ ※ ※
警邏隊への通報が成され、エリティアは一度馬車まで戻ってきていた。
黒服がどこかから買ってきてくれたカップの紅茶を飲む。
あたたかな飲み物は、口にすると身体の緊張を解いてくれるようで、先ほどから止まらなかった震えが少し収まったように思える。
誰も、帰ろうとは言い出さないことにほっとした。
この状態で帰郷するなどと言われたら、本気で逃げ出してでもキマリたちを探そうとするだろう。
どうなるのだろうか。
警邏隊がきたら、発見者であるエリティアらは聴取を受ける事になるのだとは思う。
けれど、その後は?
もうクラインロッテ家が捜査協力と称して首をつっこむ事は出来ない。
キマリたちの捜査は警邏隊に委ねるしかなくなる。
どころか、ここまでの事態になって、いずれ強引にでも帰郷させられるかもしれない。
やれることなどないのだ。ただいたずらに居座っていても、ここには危険があるばかりではないか。
「一階の人、居るかな…………?」
あれだけのことがあったのだ。
何か知っている筈ではないか。
事件がこの手を離れてしまう前に、やれることはなんでもやっておきたい。
馬鹿な考えだというのも分かっている。
けれど、キマリは親友で、シアだって大切な大切な友だちで、そんな二人が居なくなってしまったのだ。
もしここで動かず、故郷に戻され、二人が見付からず終わってしまうなどということになったら、一生後悔してもし足りない。
「エリィ? どうしたんだい?」
「わたし……みてくる……っ」
「っ、まてっ、待つんだエリィ!」
止める声にも応じず馬車を飛び出すと、アパートメントの一階にある扉へ、飛びつくようにノックした。
何度も何度もチャイムを鳴らし、呼びかける。
「ねえっ! 出てきて! お願い! 私の親友が居なくなったの! 部屋が散らかっててっ、誰かに壊されたみたいになっててっ! 上の階で何か物音を聞いたことがない!? いつだったか分かるだけでもいいのっ! お願いっ! お願いだから居るなら出てきて話を聞いて!」
ドアノブを回し、開かない扉を打ち付ける。
溢れてくる涙を拭いもせず、エリティアは訴えた。
扉は、開かない。
けれど、
「っ!?」
物音を聞いた。
人が、居る。
「お願いしますっ、私、エリティア=クラインロッテといいますっ! あのっ、こんな騒がしくしておいて何言うんだって思うかもしれないけど、本当に変な勧誘とかじゃなくて、友だちを探しているだけなんですっ! だからっ、お願いしますから、出てきて話をするだけでもっ、どうかっ、お願いします!」
捲くし立て、しばらく待ってみても反応は無かった。
丁寧に頼んでみたつもりだったけれど、こうまで無視が続くと腹が立ってくる。
居るのは分かっているのだ。
「こらこら、あんまり騒いで迷惑を掛けてはいけないよ」
「おじいちゃんっ!」
「ん、んん?」
追いかけてきたおじいちゃんに、これ以上無いくらい苛立ったエリティアはびしりと指差す。
「私は今から悪い事をするわっ! けど、おじいちゃんならたとえ何があっても私を守ってくれるよね?」
「………………あ、あぁ」
堂々たる宣言に流石のクラインロッテ家当主も面食らった顔で、あろう事か大きく足を振り上げるエリティアを誰一人として止められなかった。
「開けないっていうのなら仕方ないわ。開かない扉は、こじ開けるだけよっ!」
どーん。魔女術を用いた直蹴りと同時に分厚い扉が弾け飛び、沈黙していた部屋の中がようやく露になる。
まだ日は高く、それは忽ち内部の様子を浮かび上がらせた。
「っ!?」
「これは!?」
黒服も、おじいちゃんも、揃って絶句していた。
エリティアも驚きこそすれ、すっかり腹の据わった様子で、鋭く中の様子を観察していた。
扉の中は、壁一面、床一面、何もかもが不器用に塗られたペンキか何かで、真っ赤に染まっていたのだった。
「行くわ」
言って、黒服を見ると、彼は慌てた様子でエリティアの前に立ち、しかし流石の光景に踏み込むのを躊躇っている様子だった。
「行かないなら、私が行くわよ」
「……わかりました。どうか、十分にお気をつけ下さい」
一歩、彼が足を踏み入れる。
その正面に炎が燃え上がった。
「っ!?」
「私のよ」
冷静にエリティアが言う。
驚いてこそいるが、黒服も確かに見て取ったのだろう。
玄関に足を踏み入れた途端、魔術による攻撃が放たれたのだ。
けれど、魔術で魔女術は越えられない。
呪術を向けられた場合にどうなるかは分からないけれど、その時は黒服がどうにかしてくれると信じるしかない。
「ま、待ちなさいっ。あまりにも危険だ。戻りなさい、エリィ!」
「駄目よ。もう警告を貰っちゃったもの。中に居ようと、外に居ようと、ここに踏み込んだ事はバレてる。相手は半年以上もこの都市に潜み続けた呪術師かもしれないのよ。待ちに徹するのは危険だと思うわ」
さあ、と黒服へ促す。
それから一歩進むたびに、執拗なまでの罠が発動して二人を襲った。
魔術ならエリティアが。物理的なものは黒服が魔術や何かの道具で、丁寧に仕掛けを外していく。
徐々に対処へ慣れていくに従って、考える余裕が出てきた。
この先に、何があるのだろうか。
この真っ赤に染め上げられた異常な部屋に、本物の呪術師が潜んでいるのだろうか。
だとすれば、上の惨状と関係があるのか。
キマリは、シアは…………。
首を振る。考えたくも無い。
この部屋がこうなのは、何も昨日今日の話ではないのだろう。
二人が普通に暮らしていた当時から、ここに潜んでいた事は考えられる。
そうだ。こんな所に居たのなら、キマリが襲撃された当時に周辺を探し回っても見付からなかったことにも納得がいく。
まさかこんな真下に居ただなんて考えもしなかった。
奥に、仄かな明かりが見える。
真っ赤な照明。
本当に趣味が悪い。
そうして、広間を越え、通路を渡り、奥の部屋の前へと辿り着いた。
どこまでも赤赤赤と、見ているだけで気がおかしくなりそうだ。
「エリィ、待ちなさい。落ち着くんだ。私も一緒に行くから、そこで――」
耳鳴りがした。
急激に意識が遠くなる。
けれど、
「こんな小細工でっ!」
所詮は魔術。
魔女術で上書きしてやればなんということはない。
「大丈夫? いける?」
「…………はい」
黒服が扉に手を掛けた。
チャリ――
この部屋からだ。この部屋からずっと小さな物音がする。
「どうやら、やっぱり無人って事はなさそうね」
笑い、こちらを見る黒服に頷き返す。
彼はいつでも対処出来るよう慎重に、片腕でエリティアを庇うようにしながら扉を押し開いた。
「これは…………」
黒服が目を細めて呟く。
中の様子は、ある意味で予想外の光景だった。
清潔そうな白の絨毯に白い壁。窓からは陽の光が差し込み、窓際には白く色付けされた観葉植物が飾られている。
小さな白木の勉強机もあり、真っ白なシーツに包まれたベッドも見える。
そして、部屋の隅には、真っ赤な髪をした女が、首輪に繋がれたままうめき続けていたのだ。
「どういう、こと……?」
「彼女は、呪術師、ではないのですか?」
最もな意見だったが、では何故拘束されているのだろうか。
両手も両足も、大きな枷を付けられて、意識があるかも怪しい女がしきりに外そうともがいている。
チャリ――チャリ――
物音の原因はこれだろう。
エリティアは思わず、不用意にも部屋へ踏み込んで行ってしまう。
けれど何も起きなかった。
赤い髪をした女へ近寄り、一応は安全そうな距離を保ちながら、様子を伺う。
「…………魔女の口付け。どういうこと? こいつが呪術を使って皆を襲っていたんじゃ……?」
視界に影が落ちる。
黒服が寄ってきたのだと思った。
けれど振り返ろうとする途中、部屋の入り口で倒れ伏す彼の姿を見た途端、エリティアが全身の血が凍えるのを感じた。
そこに立っていたのは――




