27
侍女の右腕には、傷跡があった。
朝方の、まだ誰も起き始めていない、暗い暗い闇の中。
忍び込んだ使用人たちの部屋で眠る、ずっと信用してきた侍女の腕には、学院でノークフィリアの令嬢から指摘されたとおりの証があった。
それだけじゃない。
彼女の首元、普段侍女服では隠れる位置に、魔女の口付けがあったのだ。
一体いつからなのかまるで分からない。
呪術師。
また呪術師だ。
あいつらは一体どれだけ自分から大切なものを奪っていくのか。
囚われたという呪術師からは未だに有効な証言が取れていないという。
そして、選考会の前日にノークフィリア家を襲撃したという呪術師がいる。
その呪術師は、エリティアとは古くから付き合いがあり、幼馴染のように感じていた侍女と全く同じ顔をしていて、その侍女は呪術師に付けられたという印を受けていた。首元の呪印が何を意味しているのか、考えていくのもしんどくなる。
何が正しい。
誰を信じればいい。
学院では正式に第三回の結果が発表されている。
卓越した感応能力を持つ者に与えられる『空衣』の称号は、シャルロッテ=トリアへ。
最も強い現実侵食力を持つ者に与えられる『神無』の称号は、フィーリス=ノークフィリアへ。
極めて本物に等しい力を持つ指輪の譲渡も行われ、今や学院で二人は塔の魔女の最有力候補だなどと囁かれている。
シャルロッテ=トリアは今まで大きな影響力を持たず、組織力に乏しいものの、前回選定者の師として名を知られるハーヴェイ=ブルトニウムによって後見されているという事実と、あの見事なまでの魔女術を高く評価され、学外からも多くの出資者が名乗り出ているという。
都市一つ丸ごと呑み込むほどの感応規模で、一事ウインスライトは大混乱に陥ったものの、幸いにも被害は出なかったとのことだ。
これは、おそらく即座に対応した塔の魔女のおかげだろうと言われている。
フィーリス=ノークフィリアはこの塔の町、学術都市ウインスライトを拓いた魔道の太祖というだけあって、影響力は元から世界中に及ぶ。
無欠の天才と称されるほどの力を純然と発揮し、当人にもまた塔を登っていく自覚と覚悟が備わっていて、彼女の隆盛は今更だという考えさえある。『真銀』の称号を狙うと公言する大胆さには驚く者も居たが、残る一年でどれほどの活躍を見せるのかと、今から期待が集まっている。
シアとキマリは、あれ以来姿を見せていない。
心配になってアパートメントへ顔を出しても、人の気配すらなく、勇気を出して階下の人へ話を聞こうとしたのだが、あの薄っすらとした灯りは見えても、出てきてはもらえなかった。担任の桃色髪の教師が言うには、一応シアからしばらく休むという連絡があったということで、またどこかで鍛錬でも始めているのかとエリティアは考えている。
クラインロッテ家は、都市運営部から正式に通達を受けて、戦力の多くを本国へ撤退させている。
ノークフィリア家襲撃の証拠がまだはっきりと出ていない為か、それとも家同士の話し合いで事が済んでいるのか、あれ以来襲撃事件については誰の口にも上る事はなかった。
呪術師は、まだ、居る。
少なくとも新たに襲撃事件を起こした呪術師は捕まっていない。
では侍女がそうなのだろうか。呪術に関する知識は魔女協会が禁忌と定めているせいで普通の手段で知ることは出来ない。けれど、確かに古い歴史を持つクラインロッテ家には独自に集めてきた知識が山のようにある。学ぼうと思えば、学べる。
けれど、では彼女に魔女の口付けが浮かび上がっているのは何故なのだろうか。
そもそも彼女が本当の呪術師だとして、キマリを襲撃した意味はなんなのか。
普段から彼女と接する機会は多くあったが、全身を真っ赤に染め上げていたことなんて一度もない。
部屋の中の小物や普段着を調べてみても、赤というより薄めの黄色や青を好んでいたように思える。
本人から直接聞く勇気は無かった。
これで彼女が呪術師だと聞かされたら、エリティアはどうすればいいのか分からなくなる。
幸いにも長期休暇に入って時間が出来た。
彼女は、認識阻害の魔女術を用いて屋敷を抜け出し、独自に調査を始める事にした。
見えなくなるだけではない。同じ手法で家の中に居るように見せる手段も存在する。以前キマリに指摘された、ただぼやけるだけの方法ではなく、姿を黒服や侍女に偽装したり、小動物のように見せかけることも覚えた。
日中、日差しは強く、気温は高い。
ウインスライトの上空にはせわしなく飛行船が飛び交い、今日も塔は高く聳えている。
先だって太陽が戻ってきて、都市には幾分かの活気が戻ったように思える。
エリティアは一人、護衛も付けずに、その中へ踏み込んでいく。
頭上に一羽の鳥が居る事にも気付かず。
※ ※ ※
「もう一度、事件現場を検証するのよっ」
一人張り切って口にして、彼女はキマリが最初に襲われたという裏道に来ていた。
頭には茶系の帽子、同じくインバネスのあるコートと、おじいちゃんの部屋から借りてきた空っぽのキセル。
気分が大切だ。色々落ち込むこともあったけれど、とりあえず呪術師を捕まえればいろんなことが解決する気がする。
「ふむ」
気分は名探偵になりながら、迷探偵えりてぃあは現場検証を行う。
まだこの都市へ来て間もない頃、彼女の誕生日を祝って驚かせようとしていたあの日、キマリはなんとか時間をひねり出したお姉さんの求めに応じて、この近くにある魔女協会の支部へ行こうとしていた。
途中なんだかよくわからない活動と遭遇し、嫌だったから道を逸れたのだと言っていた、と思う。
裏道はそれなりに広さがあって、馬車一台くらいなら通れなくもなさそうだった。
しばらく観察していたけれど、人通りは殆ど無い。近くで買ってきた紙コップの紅茶をゆっくり飲み干す間に通ったのは近くの住民らしいおじいさんと、若い男性の二人だけだ。話しかけやすそうだったおじいさんにどこへ向かうのか聞いてみた。
「この先はあまり人の住んでない住宅地に繋がってるからね。寂れた場所で、お店なんかもないから、オレみたいな昔から住んでる奴しか通らないよ」
「最近、というか、ここ一年くらいで女の人見なかった? こう、全身真っ赤の変態みたいな人」
言うとおじいさんは笑った。
「そんなの居たらすぐに通報するさ。あぁでも、最近になってここらじゃ見かけない女の子を見たね。君よりもっと小さな子だよ」
空振りだった。
一応案内されて奥へ進んでみたけれど、どうにも道が入り組んでいて、なのに抜ける方向がおじいさんの言う寂れた住宅地だけという、よく分からない構造になっていた。
「ここらは大昔の戦争で荒地になって、その時の難民たちが好き勝手に住み着いていった場所だからさ。都市の偉いさんが望むような綺麗な形はしてないんだよ」
ということらしい。
そして空き家になっている家を一軒一軒周り、一応おじいさんが見たという小さな女の子を見たらしい一角も尋ねて回ったが、誰一人出てくることは無かった。
結局日が暮れ始めて、道が分からなくなったエリティアはおじいさんに案内されて元の裏通りまで戻った。
そして、偶然それを見つけた。
「傷跡……」
日が傾いて、光の向きが変わって初めて気付いた。
レンガ造りの壁に真新しい傷がある。大きな刃物で横薙ぎにされたような、とても鋭い傷跡だ。
壁面を這うパイプ類の陰にもなっていて、見つけるのは中々に難しそうだ。
時折捜査状況を教えてもらっていたおじいちゃんからも、こんな話は聞いたことが無い。
「新発見、なのかしら?」
謎は深まるばかりである。
とりあえず言える事は、呪術は直接的な傷を付ける手段がない、という点だ。
それも相手を操るほどにまでなれば、操った相手の魔術でこういうことは出来るのかもしれないけれど。
※ ※ ※
次に、改めてキマリたちのアパートメントを訪ねた。
日を改めてきたのだが、馬車を使わずやってくるには中々距離があって、お昼過ぎに出たのにもうティータイムを過ぎている。途中迷ってしまった事実もあるが、名探偵が道に迷ったということを認める訳にはいかない。ここは遠いのだ。今度からは辻馬車を使おう。
長期休みに入っても表向き真面目に勉強を続けていると思われているだろうエリティアは、この前大好きなおじいちゃんにおねだりしてたっぷりお小遣いを貰った。
金銭的な不安も消えて、後は呪術師を捕まえてしまえば、もう余計なことに悩まされる事も無くなって、今まで以上に魔道の鍛錬へ集中できる。
いつしか目的と手段が入れ替わっていることにも気付かないまま、今日こそはとエリティアは二階の扉をノックする。
やはり反応はない。チャイムを鳴らしてみても、ちょっとどうかと思ったけれどドアノブを回してみても、やはり開いてはいない。
「むぅ…………」
ここもまた、呪術師の襲撃現場だ。
当時は出来うる限りの人材を投入して徹底的に調べて貰ったのに、周辺で全身真っ赤の変態女を見つけることは出来なかった。
潜伏先どころか、目撃証言さえなかったのだ。
呪術師は皆狂っているとされる。
まともな思慮もないのであれば、認識阻害などという高度な魔術を使いこなすとは思えない。
それも思い込みなのだろうか。
思い返してみると、たしか呪術師には彼女を匿う後ろ盾が居るとも言われた時期があった。
捕まえた呪術師にもそれは居て、地下水道へ繋がる大穴に隠れ家を作るなんていう大胆な手を打っていた。
誰かがキマリを襲った呪術師を匿い、認識阻害の魔術で逃がしたと考えるなら、確かに目撃証言がない事にも頷ける。
頷けるのだが、それでは結局なにも分からない。
仕方なく、聞き込みを行うことにした。
下の階へ降りて、チャイムを鳴らす。
しばらくして反応がないので、覗き穴へ目を寄せると、いつもの薄い灯りが見える。
「うぅ~ん、出てきてくれないなぁ」
時折気配を感じはするのだが、余程人付き合いが苦手なのか、恥ずかしがっているのか、出てきてはくれない。
「仕方ないっ。今日の奥の手を出すわっ」
じゃーんと取り出したのは手紙だ。
内容は、悪いことをした、全身が真っ赤の人を捜しています。何か知りませんか? それと上の階に住んでいた友だちを最近見かけないのですが、知りませんか? というものだ。返事が貰えるかは分からないけれど、読んでもらえれば、何か知っていることがあれば、次来た時に出てきてくれるかもしれない。
扉のポストから手紙を入れ、中に落ちる音がする。
「………………あれ?」
そういえば、中を覗くならこのポストもあるではないか。
覗き穴なんていう小さくて外からだとぼやけてしか見えないものじゃなくて、この穴の蓋を押し上げて覗き込めば、中の様子が探れるのではないか。
「うんうん」
名案だと思った。
エリティアはしゃがみこみ、ポストの蓋へ再び手を掛ける。
ちょっとドキドキした。本当に何かを調査しているような気分になってくる。
けれど、すぐ近くの道を自動車両が通り過ぎたのに驚いて、思わず立ち上がって扉から離れてしまう。
「うぅ…………なにしてんのよ私」
覗きはいけないことだ。
もし、ここで部屋の中を覗き込んで、中に居る人がそんな所を見てしまったら、絶対に知っていることを教えてくれなくなってしまう。
今日は手紙を届けて、それで十分なのだ。返事が貰えれば上々、出てきて仲良くなって、呪術師について何か聞ければ万々歳。
来るのに時間が掛かってしまったので、今日はもう戻らないといけない。
明日はノークフィリアが襲撃されたという繁華街を見に行こう。
そう手をぐーにして、エリティアは足早にアパートメントを出て行った。
※ ※ ※
人の気配が離れていって、ようやく中から扉へ歩み寄っていった人影は、扉の前に落ちていた手紙を拾い上げ、中身を開いた。




