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エリティアの実演が終わった。
劇場の天井から吊るされていた巨大な天球図が収納されていき、最前列で審査を行っていた人たちが手元の資料へ目を落とす。
クラインロッテ家は魔道の名門。年齢から称号を得る機会がまだまだ少なく、この二年ほどに急激な成長を遂げたとあって、エリティアはそれなりに注目されていた。
けれど、客席の両側面にある特別席から聞こえるのはため息だ。
第一回では結果こそ伴わなかったが、十分に力を示せたと思う。無欠の天才と呼ばれるノークフィリアのご令嬢に並び立っているのならと、今回初めて見に来た人も多かっただろう。
そこで、エリティアは実力を発揮できなかった。
場慣れはしている筈だ。
原因はどう考えても待ち時間にあった諍いだろう。
平常心を欠いて、心が竦んでしまっていては魔女術を使う事さえままならない。
それにしてはよくやったと、普段の実力を知っていれば思えるのだが、結果を出せない実力に意味は無い。
「さあ、参りましょう」
「うん」
消沈して反対側の幕へ消えていくエリティアを見送って、名を呼ばれたシアが舞台上へ進んでいく。
使い魔としてのキマリは、術的な補助こそ認められていないが、付き添って共に立つ事くらいはできる。
手を取り、彼女の前のあらゆる障害を排するとばかりに中央へ導いていくキマリ。
まぶしい照明とその熱、真っ暗な客席とこちらを品定めしてくる審査員たち。
先ほど球体状に展開されて稼動していた天球図が、今は天井部に埋め込まれる形で静かに時を待っている。
普通に生きていて目にする光景ではない。
舞い上がってしまっても、緊張に固くなってしまってもおかしくない。
定位置についた後、膝を付いたキマリがシアと目を合わせると、彼女はいつもどおりの表情をしていた。
いや、少しだけ口元を緩ませ、微笑んでいるように見える。
キマリも微笑み返し、手を離すと、一歩身体を引き、一礼して立ち上がる。
音一つ立てず彼女の後ろに回ると、手を緩く組んだまま佇んだ。
余計な言葉は必要ない。
今日まで本当に、あらゆる手を尽くして力を磨いてきた。
シアもよく応えてくれた。
元より極大の才能の原石だ。
磨き上げるには細心の注意を払ってきた。
最先端の魔道学を調べ上げ、古い魔女としての知識しかなかった彼女を近代的な魔女術に馴染ませた。
幼いだけに正しく磨けば技術面の伸びも良い。ヴァルプルギスの夜が始まる頃には、他の魔女たちにも引けを取らないくらい成長してくれることだろう。
ちゃんと力を発揮できれば、確実に『空衣』の称号を狙える。
審査員たちが学院の用意した資料へ目を通した。
これまでの経歴と入学からの成績、シアに関する情報を目に、彼らは思い思いの感想を表情に浮かべる。
名乗りは必要ない。
ここではただ力を示すだけなのだ。
シアがゆっくりと息を吸っていく。
静かに、静かに、浸透していく。
薄っすらと染まっていく景色に目を閉じれば、潮の香りを強く感じられた。
実体化は必要ない。ただ想像を広げ、世界を染めていけばいい。
波音を聞いた。
浜辺を押しては引いていく潮騒が、心の奥底に染み渡っていった。
沈んでいく。
光は強く、けれど青く美しい海の中へ。
耳元を泳ぎ抜けていく気配を感じて目をあければ、薄く姿を浮かび上がらせたイルカが歌うように鳴き声をあげた。
鮮やかな色合いを持つ小魚たちが整然と並び、泳いでいく。
ふわりふわりと浮かんでいるのはクラゲだろうか。
立っているのは確かに劇場の舞台なのに、足元にサンゴ礁が広がっているように思えた。
これは五感を共有しイメージを見せているのではない。
その程度は魔術で十分だ。
魔女術は世界と感応し、現実を侵食して書き換える。
太陽を奪うことも、死者を蘇らせる事も、塔の魔女にもなれば出来てしまう。
現実に劇場を海にするまではやっていない。
可能といえば可能だが、それでは感応そのものに注力できず、ここまで深く海を再現することは出来なかった。
今この場は、地上でありながら、鮮やかに彩られた海の中に在る。
だから潮の香りはするし、海中に居るような心地良さを感じながらも地上故に呼吸が出来る。
今地面を蹴れば、水中でそうするように空を泳ぐ事も出来るだろう。
幻影のように見える海の生き物たちは、手で触れる事も出来るし、それぞれが興味を持てば寄ってくることもある。
天井の天球図は勢いよく回っていて、今もこのシアの魔女術から得られる情報を吸い出し、膨大な数字を吐き出していっているだろう。
審査員の一人が、目の前に漂ってきたクラゲへ嬉しそうに手を伸ばした。
彼女が今回の選考会における、最も影響力を持つ特別顧問の魔女だ。
暑い気候の多島海で生まれ、魔導士に見出されるまでは海女として過ごしていたという人物。
今でも時折故郷へ戻って、力一杯海を泳いで回っている。
趣味が海底洞窟探検というのは半年ほど前の雑誌で紹介された情報だった。
かつては称号保持者でもあったが、現在では塔の魔女となる道を諦め、教会で尽力する真面目な人だ。
彼女が書いた教本で詠われる基本通りの手順を完璧にこなしてみせ、彼女にとって原風景とも言える南国の海の中を、まさしくその場に居るような臨場感を以って再現して見せた。真面目で迷惑をかけることを嫌う人だから、無闇に海で侵食して場を汚してしまうのも避ける。
当然教本を書いた当時の状態状況を考慮して、一文一文の言い回しや言葉選びなどからも、その文章を書いた理由を徹底して分析した。
言葉にされなかった意図を汲み取れた自信もある。
これは、彼女からすれば理想そのものの魔女術。
単純にそれだけでもいけない。
シア個人の実力を純然と発揮し、今この学院の敷地内全てが術下にある。
本校舎、別館、周辺の森や広々とした庭まですべてがこの海の中。
ここまでの規模を発揮できる魔女ともなれば、歴史に名を刻んできた実力者ばかりだ。
この感応規模にはまだまだ余裕がある。
けれど、海の再現性を高めるには抑えておいたほうが良い。
時間をたっぷり使って、本当に見事な実演をシアは終えた。
客席や特別席からは拍手が巻き起こり、審査員たちも資料を見たときのなんでもない表情から、今や新しい才能の発見に興奮する様子が伺える。
手ごたえは確か。
先だって行われたエリティアの実演は当然のこと、ノークフィリアのご令嬢は方向性が違うから問題にならない。
あとは…………。
拍手に二人して一礼し、顔をあげるとき、客席で見学していた亜麻色の髪の少女を見た。
「お見事です、シア様」
再び自らの契約者、奏主の前に膝を付き、手を取ったキマリは、もう一度だけシャルロッテへ視線を送りつつ、シアと共に舞台上から去っていった。
※ ※ ※
昼食を挟んで再開された選考会も、既に主だった人物の登場を終えた為か、学院には弛緩した空気が漂っていた。
たった一度の実演へ向けて心身を整えていく学生側もそうだが、何十人と審査する側にとっても相当な疲労が溜まるものだ。
休憩を挟みつつ行われているとはいえ、一つ一つに気の抜けない状態が続いていた午前は特に大変だったことだろう。
早くも陣取った休憩室では、既にシアの実演を知った人々が接触を図ってきており、仮ではあるが後援の話まで出てきていた。
気が早いと保留にしておいたのだが、やはり殆どの人が『空衣』の称号をシアが獲得すると考えているらしい。
本番はまだ先とはいえ、元より数年に渡って獲得者の居なかった称号とあって『神無』以上に重視されているのは確かなようだ。
「おつかれさまでした、シア様」
昼食時からひたすら続いた応対もようやく終わり、慣れないことに疲れた様子のシアへキマリは用意してあった紅茶とケーキを取り出した。
椅子に腰掛けお行儀良く足の上で手を揃えていたシアも、思わぬご褒美の出現に目を輝かせた。
カスタードクリームを中に含んだパイ生地のミルフィーユ、下地にプリンと生クリームを敷いたモンブラン、クッキーを生地とした季節のフルーツブリュレタルト。
薫り高いオリジナルブレンドの紅茶はミルクをたっぷりに砂糖を少し。
元々家ではハーブティーを出していたのだが、クラインロッテ家の世話になって、あちらの紅茶の味を知ってからは時折シアが飲みたがるようになった。
淹れ方から茶葉それぞれの特性、ウインスライトの水質なども合わせて勉強し、ようやく最近形になってきたものだ。
「いっぱい」
「はいっ。今日の実演はとてもよく出来ていましたよ。私も腕を振るった甲斐がありましたっ」
「ん――おいしい」
食べながら喋るのはお行儀が悪い。けれど、今日は少し甘く見てもいいだろうと思ってしまう。
それくらい、シアはよく出来ていた。
最終選考はまだ先とはいえ、十分に先の見通しが立った状態だ。
思えば、もうじきシアと出会って一年近くになる。
お誕生日の約束も、一周年記念も、もっと何か出来ないかと考える自分を知って、おいしそうにケーキを食べてくれる姿を愛おしそうに眺める。
昼食を簡単に済ませたからか、それともケーキの出来が良かったからか、中々に勢い良く平らげていたシアが、ふと休憩室にある時計を見た。
今彼女が考えた事は分かる。
後援者を得ることはヴァルプルギスの夜で勝ち抜いていくのに重要なことだ。
だから、終わるまでに過ぎてしまえば諦めるつもりではいてくれた。
けれど今休憩室には誰もおらず、ご褒美のケーキと紅茶をいただいたいるだけだ。
タルトを口にしても、シアはじっと時計を見ていた。
いや、見ているというより、そこから目を外した後にどう言おうかと考えているのだろう。
「食べ終わったら、会場の様子を見に行きますか?」
「っ!」
珍しく大きく驚くシアに、キマリは笑いかけた。
「私の使い魔が様子を見ていますから、大丈夫です。シャルロッテ様の順番まではまだ時間があります。少し、休憩を増やしてずれ込んでいるようですね」
ですから、と付け加える。
「お行儀良く食べましょうね」
「うん。おいしいから、味わって食べる」
「ありがとうございます」
それから二人は、ここ最近の大変さを忘れるように、静かな時間を過ごしてから、会場へ向かった。
空いていた後ろの方の席に二人で腰掛けるのと、シャルロッテが幕裏から出てくるのは同時だった。
一礼し、実演が始まる。




