八十七話 今生の別れ
「……ちっ」
まだ、武史の表情は険しい。
しかしもう殺意はないように思う。
観念するように握った拳を緩めて、両手を大きくため息をついた。
「はぁ……仕方ねぇか。こんな要求、受け入れたくねぇが……最初からてめぇらが手を組んでたなら、どうしようもねぇな」
こういうところだ。
武史はこうやって、変に物分かりが良くなることがある。要領がいいというか……普段はわがままで横暴なくせに、自分が損をする状況になると途端に態度が軟化する。
武史のような暴力的な人間が、世間を生き延びるために身に着けたスキルなのだろうか。うまく世渡りする術を、こいつは持っている。
ただの乱暴者ではない。
だからこそ余計に、質が悪いのだが。
「つまり、この家からお袋と一華が出ていく。ただ、生活費と学費が用意されていて、俺の生活には支障がない。強いて言えば、面倒な家事をやらないといけない……ってところか」
「ええ。その通りよ……あなたが大人しくしてくれたら、ね」
確認するような問いかけに花菜さんが頷くと、武史は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「金、どれくらいあるのか見せろ。その額次第だな」
「呆れた……ちゃんとした額を用意してあると言ったでしょう?」
「信用ならねぇ。あんたのせいで俺は貧乏な生活をしてたんだが? パート勤めの中年ババアの経済力なんか、信じられるわけねぇだろ」
「……そう。じゃあ、通帳を持ってくるわ」
「早くしろよ。もし少なかったら、結局捨てられたことと一緒だ。その場合は巧をスッキリするまで殴ってやった方がマシだな」
……もう、花菜さんと一華ちゃんと離別することは武史も理解しているのだろう。だからなのか、口が悪い。聞いているこっちが不快になるような言葉遣いだ。
何か言ってやりたいところだが、花菜さんの邪魔はしたくないし……あと、口の中が大きく腫れているせいでちょっとまともに話せる気がしない。鼻の血も落ち着いてはいるが、完全に止まっているわけでもない。加えて、まぶたの方も切れているようで、血で片目の視界が悪かった。
俺、自分が思っている以上に重傷な気がする。そんな状態なので、痛みに耐えることが精一杯だ。成り行きを見守ることしかできない。
「…………どうぞ」
花菜さんは、事前に準備していた通帳を隠していた靴箱の中から取り出して、武史に差し出した。
それをあいつはひったくるように取ると、額を見つめて……それから、ニヤリと笑った。
「誠意は額だ、って言葉はまさに金言だよな」
「……汚い言葉ね」
「でも、事実だ。これだけあれば十分だな……俺が不自由な思いをすることはないか。巧をぶちのめすよりも、こっちの方が俺にとって得だ」
損得で動く人間だからこそ、こういう場面では扱いが容易い。普段は少し意地汚いと思うこともあったが、今の状況においてはありがたかった。
「ははっ……これだけの額を俺にくれるってことは、あんたと一華は今まで通り貧乏な生活をするってことになるな。なるほど、それで巧の家に居候するのか。無様だな、その年齢で他人の子供に頼るって、恥ずかしい大人だよなぁ?」
人の神経を逆撫ですることに関して、こいつの右に出る者はいない。もう花菜さんと一華ちゃんの心を繋ぎ止められないと分かったからなのか、言いたい放題だ。
「一華も可哀想にな。あんたなんかが親で、本当に同情するよ。お袋、あんたは結局そういう人間なんだ。クズの親父に引っかかって、子供を捨てて、挙句の果てには他人に媚びて……惨めな人間だと心から思う。あんたが親じゃなくなることは、むしろ俺にとって喜ばしいことかもな」
これは、最後の捨て台詞だ。
後腐れなく、綺麗な惜別の言葉を送ればまだマシだったのに……あるいは無言でも、今よりは全然印象が良かったはずだ。
しかし、こうも罵倒するとなれば、花菜さんと一華ちゃんは武史を許すことなどないだろう。
これからどんなに改心しようと、武史が家族と仲直りする未来は消え失せた。
つまり、これが今生の別れとなりそうだ――。
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