八十話 壊れてしまったもの
普段怒らない人が怒ったら怖い。
よく言われることなのだが、それは真実だと思う。
当たり前なのだが、そういう人は怒ることに慣れていない。だから加減が分からず、やりすぎてしまう傾向があるように思う。
俺もそうだ。頭に血が上ると我を忘れてしまう。
それから、花菜さんも……自分を抑えきれなくなっているみたいだ。
「――私は、誠実な人が好き。素朴で、真面目で、当たり前のことが当たり前にできて、人を傷つけないような、普通で優しい人が好きなの。でも、あなたは違う……不誠実で、粗雑で、不真面目で、常識も知らず、人を傷つけてばかりの異常な乱暴者のあなたを、好きになれるわけがない」
次から次へと、武史への不満があふれ出てくる。
そんな花菜さんを見て、武史もようやく危機感を覚えたようだ。
先ほどまではふてくされたような態度をとっていたが、いつものように花菜さんが折れてくれず、むしろ更に怒らせていることに気付いたらしい。
「お、おい。お袋……何を言ってんだよ。そんなに怒ることねぇだろ? 分かった。謝るよ。謝ってやるから、冷静になれ……な?」
今度は、取り繕うようにへらへらと笑った。
可哀想な人間だと思う。こいつは今まで、他人に謝ったことがない。上辺だけの謝罪こそあっても、心から申し訳ないと思ったことがないのだ。
だから武史は、謝り方を知らない。
花菜さんが怒り方を知らないことと、一緒である。
……親子でさえなければ、二人の人間の相性は最悪だ。
そもそも、交わってはいけない人種だったのだろう。
「……随分と偉そうね。謝ってやる? 冷静になれ? まるで、私より身分が上みたいな言いぐさじゃない。そうやって無意識に私を見下しているところも、すごく嫌だった」
「別にそんなわけじゃねぇよ。ごめんって……ほら、反省してるから、とりあえずまずは落ち着けよ」
「っ……やめて。そうやって、私が感情的になった時だけ譲歩するような態度をとるのは、やめて……あの人を、思い出すから」
普段は高圧的で、花菜さんが怒った時は態度を変えてなだめる……か。
まさしく、DVの典型的な行動だった。
昔の花菜さんは、それでうまく丸め込まれていたのかもしれない。
だからこそ今は、そんな手口に乗るわけがない。
「もう、うんざりする……武史。あなたを見ていると、あの人を思い出す。だから、もう無理なのよ。大きくなるにつれて、あなたはあの人に似てばかりで……私はもう――あなたを、愛せない。あなたが怖い。あなたと関わりたくない。だから、もうお願いだから……これ以上、武史との思い出を穢さないで」
そしてついに、言った。
花菜さんの本音が、武史へと伝えられた。
一時の感情ではないのだ、と。
根本的に愛せないのだ、と。
『武史との思い出を穢さないで』
という言葉は、まるで……今の武史と、幼かったころの武史を分けて考えていみたいだ。
本当に……愛していたんだろうなぁ。
子供だった頃の武史を、血がつながっていなくても、我が子だと思って可愛がっていたことは間違いないのだ。
でも、今は……。
「これからは好きに生きなさい。いつも私に『いちいち子供扱いすんな。うぜぇよ』『束縛すんな』『早く子離れしろ』って言ってたものね……良かったじゃない。これからは、一人で自由に時間を使うことができるわね」
もう、取り戻せない。
一度失った愛情は……壊れてしまった家族の絆は……修復不可能なまでに壊れていた――。




