七十九話 母親は子供の奴隷じゃない
「――いやいや、おかしいだろ」
しばらく、無言が続いた後。
状況がようやく分かってきたのか、武史は慌てた様子で口を開いた。
「お、親であることをやめる? バカなこと言うな。そんなことできるわけねぇだろ? だってあんたは俺の母親で、俺を育てる義務があって――」
「ええ。だから『育てる』という義務は果たすわよ。生活費も学費も、心配は不要よ。必要な書類があれば私が保護者として記入する。でも、洗濯とか料理とか掃除とか……そういうお世話はしない。これからは自分のことは自分でやりなさい」
「で、できるわけねぇだろ。俺が家事なんて……やるわけねぇだろ!」
「……世間には、あなたの年齢で一人暮らししている子もいるみたいだし、大丈夫だと思うけれど?」
「違う。なんでいきなり俺が面倒なことしないといけねぇのかって話だよ……母親の仕事だろ? ちゃんとやれよ」
「武史……あなたは、母親を何だと思ってるの?」
花菜さんは今まで、子供のためを思ってたくさんのことを我慢してきたはずだ。
しかしそのことを、武史は分かっていない。
むしろ、花菜さんは喜んで武史の面倒を見ていると思っている。
そのあたりの認識がそもそも間違いなのだ。
「母親は子供の奴隷じゃないわ。あなたを楽させたり、喜ばせるためだけの家政婦だと思わないで。私だって――人間なの。あなたと同じように、家事が好きなわけじゃない。でも、子供たちが健やかに育ってほしくて、頑張っていただけよ」
……思い返してみると、花菜さんが家事をしてくれた時、俺がお礼を伝えるといつも嬉しそうに笑ってくれた。
どうやら武史は、花菜さんに対して感謝の気持ちもないみたいなので……そのあたりについても、不満がたまっていたのかもしれない。
決して、最近の出来事だけが問題ではなかったのだ。
武史について、花菜さんは前々から思うことがあったのだと思う。
それが蓄積されて、今に至る――というわけか。
「私だって……私だって、我慢してきたっ。武史、あなたには分かる? 自分を不幸にした男の子供を育てる、この悔しさが……私が産んだわけじゃないのに、親としての責任を背負わされる過酷さを、理解できる? できないでしょう。できるわけないわ。あなたみたいな人間が、私のことを分かるはずがないものね」
ずっと、平坦だったけれど。
しかし少しずつ、花菜さんの声に感情が乗り始める。
そこに宿るのは、もちろん――怒りだ。
「子供に罪はない。そう思い込んで、自分を騙して、あなたを我が子のように愛してきた。あの人とも血がつながっていないおかげで、容姿が似なかったのは良かったけれど……性格が、そっくりになってきたわね。なんで? やっぱり、幼少期にあの人と暮らしていた時の記憶が、残っていたの?」
早口で、今まで溜めてきた思いを吐き出す花菜さん。
一方、武史は明らかに動揺していた。
「え、あ、……っ」
こんなに花菜さんが怒ったのを、初めて見たからかもしれない。
あるいは、信じていた母親の本音の思いを聞いて、裏切られたと思っているのかもしれない。
きっと、あいつはこう言われることを期待していたはずだ。
『武史、ごめんね? あなたは何も悪くない。私は、何があってもあなたの味方だからね』
……武史に失望する前の花菜さんなら、それに近いことを言ってくれていただろう。でも、もうそれが実現することはない。
だって、お前は既に一線を超えているからな。
俺を殴り、それどころか血が出るほどに負傷させたことが、全ての終わりだ。
(怒りで我を失った時点で、俺の勝ちだよ)
少し……いや、かなり花菜さんが暴走気味ではあるのだが。
しかしながら、全体的に見ると良い流れで話は進んでいる。
全て、順調だった――。
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