七十八話 手を出してでも救おうとした母の愛情は、今――
花菜さんは常に優しい。
めったに怒ることなんてないし、怒ったとしても、それは相手のためを思っての行動だ。
いつだって花菜さんからは、愛情を感じていた。
俺と話している時も、一華ちゃんと話している時も、それから……武史と話している時だって、花菜さんの声はとても優しくて落ち着いていた。
温かい人だと思う。性格も穏やかで、決して人と争わないような柔らかい人でもある。
そんな花菜さんだからこそ――氷のように冷たい声が、怖いと感じた。
「お母さん……っ」
俺を介抱していた一華ちゃんが、怯えて息をのんでいる……彼女は今、血が出ている俺の鼻にハンカチをあててくれているのだが、その手が震えていた。初めて見る母の一面に怖がっているようである
俺も、こんな花菜さんを見るとは思ってなかったので、驚いていた。
花菜さんって本気で怒ると、こんな感じになるのか。
「武史……私があなたの父親にどんな扱いを受けて、どんな苦しみを与えられて、どんな辛さを感じてきたのか、ちゃんと話したことを忘れてないわよね」
「……ちっ。うるせぇな、そんなこと今は関係ねぇだろ」
「関係あるわよ。あなたは、私が何よりも嫌いな『暴力』を振るったのよ? 何を言い争っていたのかは分からない。もしかしたらあなたにとって許せない言葉があったのかもしれない。でも、だからって……相手を傷つけていい理由にはならない」
これはもう、説教なんかじゃない。
武史のためを思って、叱っているわけでもない。
これはただの宣告だ。
花菜さんの、武史への思いを今――告げられている。
「お袋だって……俺を殴っただろうが」
「……ええ。ビンタだけれど、手を出したのは認めるわ。でもわたしは、あなたを傷つけたかったわけじゃない。傷つけたわけでもない。ただ……わたしの思いが届いてほしかった。大嫌いなことをしてでも、武史を……守りたかった」
これは、花菜さんの心からの叫びだと、武史も分かっているのかもしれない。
珍しく、静かに耳を傾けている。そしてその表情は、少し不安そうだ。
感じているのだろう。
花菜さんの異変を……今から何かを告げられるのだと、察している。
そんな武史に、花菜さんは更に言葉を続けた。
「今はすごく、後悔している。あなたなんかに手を出した自分が情けない……諦めれば良かったわ。武史が反省してくれるって期待した私が悪いの。だから、ごめんなさい。ビンタしたこと、心から謝るわ」
「……な、なんだよ、それっ」
「ただの謝罪よ……あなたにはできないだろうけど、私は悪いことをした時はしっかり謝るのよ。ごめんね、手を上げる情けない母親で」
花菜さんの表情はずっと変わらない。
無表情のまま、淡々と……事務的な態度で、唐突に呟いた。
「――お詫びに、あなたの親でいることはやめるわ」
深々と、頭を下げながら。
しかし、声には何の感傷も宿っていない。
花菜さんはもう、武史との離別に対して……何も感じていない、無感情みたいだ。
「…………は?」
武史は、ポカンとしていた。
口を大きく開けて、目を丸くして、花菜さんを呆然と見ている。
それでも花菜さんは、冷たいままで。
「これからは一人で生きていきなさい。私はあなたの親であることはやめるけど、保護者ではあるから、成人するまで最低限の補助は行う。生活費や学費も私が支払う。今まで貯めていたお金も、すべて渡す。これで、あなたの子育てを終わりとさせてもらうわ」
武史の意見に聞く耳を持つことなく。
もう決定したことなのだと言わんばかりに、一方的にこれからのことを告げた。
それに対して、武史は……なおも、呆然としている。
「…………」
言葉を失ったかのように、何も言わずに、ただただ花菜さんを見つめるばかりだった――。




