七十七話 大嫌いなあの人
意外と、人が人を殴る音はそこまで大きくない。
ただ、俺が倒れこむ音と、武史が暴れる音は大きく響いたので、それを合図だと思ってくれたようだ。
「――っ!? た、武史! 今すぐやめなさい!!」
「たくみにぃ……? た、たくみにぃっ……血がっ。血が、こんなにっ!?」
最初、玄関から入ってきた花菜さんと一華ちゃんは、少し怯えている様子だった。だが、俺の現状が事前の話し合いよりも酷かったのでショックを受けたのだろう……パニックを起こしかけていた。
「うるせぇ。こいつだけは許さねぇ。殺す……殺してやる!!」
ただ、今の武史は言葉だけでは止まらない。
花菜さんと一華ちゃんに見られてなお、怒りは止まらないようだ。
更に俺を殴ろうと拳を振り上げて……だが、その拳が振り下ろされることは、なかった。
「やめなさいって言ってるでしょ!?」
「たくみにぃ……!」
花菜さんが、武史の拳にしがみついたからだ。
しかも、俺を庇うように一華ちゃんが飛びついて、武史との間に入ってくれたおかげで、物理的に距離が空いたのである。
「ちっ。邪魔だ、どけ!」
さすがの武史も、母親と妹を殴り飛ばすことはできないのだろう。
乱暴に花菜さんを振り払おうとして、一華ちゃんも押しのけようとしていたが、二人が必死なのでうまくいかないようだ。
「救急車……お母さん、救急車を呼ばないとっ」
「……出血がひどいわね。意識はある?」
一華ちゃんは血を見て混乱しているようだが。
花菜さんは、さすがは母親と言うべきか……緊急事態だと把握した途端に冷静になって、俺の様子を確認しようとしている。
おかげで、話が通じそうだ。
「い……意識は、あります。でも、自分の状態が分からなくて……っ」
口内から出血しているせいだろうか。言葉を発するたびに痛みが走る。顔全体が熱く、無意識に触れてみるとヌルっとしていた……想像以上に出血しているのだろう。ただ、鼻血だと思うので、見た目ほど悪い状態ではないかもしれない。
「俺の事より、花菜さん……!」
少なくとも、すぐに救急車が必要というわけではなさそうだ。
それなら今は――武史のことを、なんとかしてほしい。
そのことを、まだ冷静そうな花菜さんに視線で訴える。
伝わるかと不安だったが、花菜さんはちゃんと俺のことを見てくれていた。
「……後で、手当てしてあげるからね」
そう小さな声で囁いて、それから花菜さんは武史の方に視線を移す。
事前に相談していた通り、話を進めるために。
「武史。あなた、なんてことを……!」
「黙れ。お袋には関係ねぇ。こいつは絶対に許せないことを言った。だから殴った……ただそれだけだ」
「謝りなさい」
「……あ? なんで俺が謝らなくちゃいけねぇんだよ」
「いいから、謝りなさい!」
「だから、俺は悪くねぇって言ってんだろ」
「武史! あなたは、なんで……!」
……いや、違う。
これは事前に話しあっていた流れじゃない。
武史を謝らせる必要はないのに……花菜さんはたぶん、それくらい武史が許せないのだ。
「……今のあなたは、あの人そっくりね」
その言葉は、俺が聞いたことのないような、冷たい声。
「あなたの父親にそっくりよ……私が大嫌いな、あの人に」
花菜さんらしくない、冷淡な……聞いているだけで背筋が冷える、感情の宿らない声だった――。
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