七十六話 終わり
――良かった。
間一髪のところで、冷静さを失わずに済んだ。
そのおかげで俺はまだ『被害者』でいられる。この立場こそが一番大切なのだ。
決して、加害者になってはいけない。そうなってしまうと今までの我慢が全部無駄になる。
武史に恋人を寝取られたこと。
信頼を裏切られたこと。
嘲笑され、バカにされていたこと……全部、耐えてきた。
これ以上、花菜さんと一華ちゃんを傷つけれらないように。
そして、俺自身のためにも……もう少しの辛抱だ。
(五味家への介入と、条件の提示はすませた。後は……花菜さんと一華ちゃんが、俺を選ぶ理由を作る――それで、終わりだ)
面倒な手順を踏んでいると思う人もいるのかもしれない。
武史と向き合う必要なんてない、と……たしかにそれは、その通りである。花菜さんと一華ちゃんが武史から逃げてしまえば、全部解決するだろう。
でも、そうなった後の武史が怖いのだ。
逆恨みして、逆上して、二人を探し出して、復讐をする。
そうなる未来を防ぐために、ここで武史の心を折る。
こいつには、こう思ってもらわなくてはいけない。
『俺は、お袋と一華に見捨てられて当たりまえの存在なんだ』
――と。
そのために必要なのは、あと一手。
(武史に俺を、殴らせる)
その際、俺はわざと派手に大きな音を立てる。これは、現在外で待機しているはずの花菜さんと一華ちゃんを呼ぶ合図だ。そこからは二人を巻き込んで、武史をさらに追い詰めていく算段となっている。
まぁ、事前の話し合いでは『武史に軽く突き飛ばされる』としか二人に伝えていない。だから二人は、俺が殴られるとまでは思ってない。
しかし、俺が圧倒的な被害者でいることが、後々に大きな意味を持ってくるわけで……殴られるくらいがちょうどいいだろう。
なので、俺が今やるべきことは、激昂して殴りかかることではない。
逆に、武史の神経を逆撫ですることだ。
「ん? どうした、急に黙って……もしかして怒ってるのか? まぁまぁ、落ち着けよ。本当のことを言われただけだろ? 孤児なんだから、家で大人しくしてろ。もちろん一人で、なw」
なおも俺を煽る武史。
その言葉に対して、俺は息をこぼして……それから、笑ってやった。
「あはは。そうだな……俺は両親がいないから、お前のことが羨ましくて仕方ないよ」
武史を怒らすために、何を言えばいいのか。
どんな言葉を選ぶべきなのか……そんなこと、簡単に思いつく。
だって俺は、こいつの幼馴染なのだから。
「……笑ってんじゃねぇよ。何が面白い?」
俺の様子が変わったことが不可解なのだろう。
武史は、ニヤついた笑みを消した。いい調子だ……まずは武史のペースを崩せたということだろう。
この隙に乗じて、追撃の手は緩めない。
「いや、だってさ……お前、誰とも血がつながってないくせに、よくそんなことが言えるよな」
武史が、俺が言われたくないことを把握しているように。
俺だって、武史が言われたくないことを把握している。
こいつはきっと、このことに触れてほしくないはずだ。
「花菜さんから聞いたぞ? お前、別れた父親の連れ子らしいな。どうりで花菜さんとも一華ちゃんとも似てないわけだ」
「てめぇ……!」
ほら、やっぱり。
途端に武史は、表情を激変させた。目を血走らせて、俺を睨みつけている。
そんな武史を見て、俺はさらに言葉を重ねた。
「いいなぁ。お前は……俺と同じで本当は家族がいないくせに――家族になってくれた人がいて、羨ましくて仕方ないよ」
「黙れ」
「血がつながっていないのに、あんなに優しい母親がいて、可愛い妹がいて……幸せだよな。だからお前は――マザコンで、シスコンになっちゃったのか?」
「……黙れ」
「ママがいて良かったな。慕ってくれる妹がいて良かったな……父親にも母親にも捨てられたくせに、家族でいてくれる人がいて――良かったなぁ? 実の両親に見捨てられた子供のくせに、な」
「――黙れって言ってんだろ!!」
そしてついに、武史は激怒した。
顔を真っ赤にして、拳を握っている。
感情のままに振り上げられた拳は、そのまま俺の顔面を殴打した。
『ゴッ』
鈍い音が、鳴る。
「死ね、クソが!」
更にもう一撃、地面に倒れこむ俺に武史が馬乗りになって、殴打を繰り返す。
三撃、四撃……それ以降の数は、もう分からない。
何度も何度も顔面を打ち付けられて、感覚がめちゃくちゃになっている。
でも、不思議と痛みはなかった。
ただ、作戦がうまくいったことと、少し言い返せたおかげで、気分がすごく良い。
「……あはは」
だから俺は、笑っていた。
武史に殴られながら、血を流しながら、それでも……笑いが止まらなかった。
武史、終わりだ。
お前はこれで、終わりだ――。




