七十二話 あと、それから
決行は、夜にしようと事前に話し合っていた。
時刻は十九時。花菜さんと一華ちゃんはすでに帰宅していたが、最後の打ち合わせをしていたので、この時間になった。
今、隣の五味家には武史がいる。
「さっきから何度も私のスマホに連絡が入っているわ……武史も、異変には気付いているみたいよ」
「わたしにもメッセージが来てたよ。なんか、すっごく機嫌が悪そうだった」
二人の日用品がごっそりとなくなっているのだ。家の中は少なくない変化があったのだろう。
それにしても……やっぱり、武史は変わらない奴だ。
もし俺があいつの立場なら、まず花菜さんと一華ちゃんがいないことを心配する。二人の現状を優先的に確認しようとするだろう。
しかしあいつは違う。
「『夕飯はどうするんだ』『家がほこりっぽいから早く掃除してくれ』『小遣いがないから帰ってきたらくれ』って……こんなメッセージばっかりね」
「『お袋、まだ機嫌悪いのか?』『めんどくせぇな』『お前からも慰めてやれよ』だって。はぁ……」
この状況に至ってなお、愚痴や文句ばかり。
心配する、なんて行為があいつにはできないのだろう。まぁ、そういう思いやりの心があったら、そもそもこんな状況にはなってないか。
とはいえ、むしろ……これはこれで良かったのかもしれない。今更になって心配されると、花菜さんと一華ちゃんの決心が鈍るかもしれない。しかし、相変わらず武史は武史なので、同情や哀れみなどは一切ないようだ。
もう、離別の覚悟はできているように見える。
後は、決行するだけだ。
「それじゃあ、まずは俺が武史と二人で話し合います。その後は、話し合い通りにお願いしますね」
そう伝えて、玄関で靴を履く。
そんな俺を、二人は心配そうな顔で見ていた。
「……ごめんなさい。こんなことにまで、巻き込んでしまって」
「たくみにぃ……無理、しないでね?」
花菜さんと一華ちゃんは、申し訳なさそうな表情を浮かべている。
武史と違って二人は優しくて善良な人間だから、きっと俺に対して罪悪感を抱いているのだろう。
だけど、これは俺がやりたくてやっていることなのだ。
全然、気にしないでもらっても構わないのだが……それを伝えても、二人の罪悪感が消えないことは分かっている。
だから、伝えるべきは――罪悪感を拭う方法だ。
「全部終わったら、甘やかしてくれると嬉しいです……花菜さんのハンバーグ、また食べたいです。一華ちゃんのマッサージも、やってくれたら嬉しいなぁ」
帰ってきてからずっと、花菜さんと一華ちゃんは不安そうな顔をしていた。
でも、俺の言葉を聞いて少し力が抜けたのかもしれない……小さく、笑ってくれた。
「ええ。もちろん、巧くんが食べたいものは何でも作ってあげるわ」
「うん! 任せてっ……いっぱい、マッサージするっ」
「ありがとう。それなら、頑張れそうです」
まずは俺だけが、五味家に入る。その後にタイミングを見て二人もやってくる、という手筈になっている。
「じゃあ、いってきます」
そう言ってから、俺は扉に手をかけると……二人の声が、背中を押してくれた。
「「いってらっしゃい」」
……数年ぶりかもしれない。
いってらっしゃいという言葉を、かけられたのは。
祖父母が生きていたころ以来である。花菜さんと一華ちゃんにとっては、さほど特別でもない言葉かもしれない。
でも俺にとっては、何よりも嬉しいものだった。
やっぱり、家族っていいなぁ。
そして、だからこそ……武史のことが、残念で仕方ない。
こんなに温かい家庭があったというのに。
どうしてお前は、そうなってしまったんだろう?
せめて……もうこれ以上、あいつの罪が重くならないように引導を渡そう。
それが、幼馴染としてあいつに渡すことのできる、最後の優しさなのかもしれない
それから、俺にとっても……これは、俺のためにすることのできる、幸せへの選択なのだと思う。
だから、武史。ごめんな。
あと、それから……いや、この感情はまだ早いか。
全部終わった後で、この思いは打ち明けるとしよう。
それまでは、自分の心に秘めておくことにして、俺は五味家の扉を開けるのだった――。




