六十八話 『現実』の喪失
「離れて正解よ。その子と関わるのはもうやめなさい」
一連の出来事を花菜さんに報告した。
家に帰ってもずっと一華ちゃんが泣いていたので、説明せざるを得なかったのである。
実際に現場を見たわけじゃないから、真偽は分からない。
でも、中年の男性とホテルに入ろうとしていたのだ……限りなく黒に近いだろう。
「一華も聞いておきなさい。援助交際……今はパパ活って言うのかしら。どうして、そういった行為に手を出したらいけないのか――二人にも説明するわ」
そのことを聞いた花菜さんは、真剣な表情で俺たちに色々と教えてくれた。
「『一緒に食事をするだけ』『少しオシャベリをするだけ』でお金がもらえる。うん、確かにすごく甘い誘惑ね。たったそれだけで、普通に働く何倍ものお金が手に入る……性的な行為をしないのであれば良いバイトかもしれない――そう思うことが間違いなの」
花菜さんは言った。
性的な行為の有無よりも大きな問題があるのだ、と。
「こういうことをするとね……価値観が歪んでいくの。まともに働いていたら手に入らない額が簡単にもらえるから、普通に働くことがバカバカしく思えてくるみたいなのよ」
花菜さんは、少し悲しそうな表情を浮かべていた。
まるで、誰かを思い出しているかのようである。
「しかも、援助交際をする人ってお金持ちが多いでしょう? 一般家庭じゃまずありえない住居、食事、衣服、遊び……そういった豪華なものを目の当たりにして、次第に『普通』では満足できなくなっていくわ」
……今日の香里の相手は、たぶん違うと思うけど。
しかし、花菜さんの言う通り、そういったことに手を出す人間は、お金が有り余っているイメージも強い。
「『現実』が、歪むのよ」
そして、それこそが一番の問題なのだと花菜さんは言った。
「麻薬と同じみたいで、一度味わった甘い快楽を忘れられなくて……身の程に合わない生活をするようになる。そのためにお金を稼ごうと、水商売に手を出して……いつしか、戻れなくなる」
どんなに魅惑的でも、決して進んではいけない道がある。
香里が進んでいる道も、やっぱりそうなのだ。
「若いうちはまだいいわ。でも、年齢を重ねてくると、稼ぐこともできなくなって……借金とか、ギャンブルとか、マルチとか、お酒とか、そういう逃避に依存して――破滅する」
だから、花菜さんは香里から離れろと言ったんだ。
巻き込まれる前に、自衛しなさいということなのだろう。
「その子に強い意志があるのなら別よ。たとえば、学費を稼ぐため……とか。将来のために貯金したくて……とか。そういうしっかりした人間が選ぶ手段ではないと思うけど、少数であればそういう子もいるみたいだし、完全に否定はしないわ。でも、リスクは大きいの」
やけに実感のこもったことを言う花菜さん。
なぜ、こんなにも詳しく言えるのか……。
「私の友人が、同じことをしてたから」
まぁ、そうだよな。
その人の顛末を見たからこそ、花菜さんはこうやって語れるのだろう。
「ほら、今日着てたお洋服があるでしょ? あの派手なお洋服、その子から大学生のころにもらったの。当時は何も分からなくて、おさがりもたくさんもらったけど……急に退学して、連絡が取れなくなった。それで、数年前にいきなり連絡が来たわ。久しぶりで嬉しかったからお食事に行ったけれど……変わり果てた姿になって、ショックだった。違う友人に聞いたら、酷い状況になってるらしくて……」
だから花菜さんは、援助交際めいたことに警戒しているようだ。
「私も実際、大学生当時は勧誘されたことがあるわ。だけど全部断った……どんなにお金に困っていても、頑張ればなんとかできるものね」
花菜さんは、決して逃げなかった。
香里みたいに軽い気持ちで考えずに、現実と向き合った。
「体を売るということは、心を売るということなの。それでも構わないという強い覚悟を持てるのなら否定はしない。でも、生半可な軽い気持ちで手を出していいものではない……覚えておいてね。特に一華は、これから甘い誘惑もあるだろうから」
その結果、苦労もたくさんあっただろう。
だけど花菜さんは、堂々と胸を張って生きている。
大人として、ちゃんと子供の俺たちを導いてくれている。
こういう立派な大人になりたいと、心から思った――。




