五十六話 復讐よりも大切なものを手に入れた
『絶対に、許さない』
ここに来るとやっぱり思い出す。
あの時見てしまった、武史と香里の浮気現場を……あの時に抱いた激情を、今も鮮明に思い出せた。
「…………」
カーテンは閉めたはずだった。
だけど、振動のせいなのかわずかに開いていて、その隙間から武史の部屋が見えたのである。そのせいで、あの時の記憶が蘇っているのかもしれない。
恨んでいた。
裏切られたことを、憎んでいた。
あいつらを俺と同じように、痛い目に合わせてやる――そうしないと、気が済まなかった。
でも俺は、救われた。
「じゃあ、そろそろ寝ましょうか」
俺の視線に気付いたからなのか。
あるいは、単純に少しだけ開いていることが気になったのか。
花菜さんはカーテンを完全に閉めてから、俺に声をかけた。
いつも通りの優しい声である。
「……はい」
その声で、ようやく自分が取り戻せた。
この人がいたからこそ、俺は怒りや恨みに支配されずに、自分を保つことができた。
色々と、思うところはある。
正直なところ、武史と香里のことを憎んでいないと言えば、ウソになる。
可能であるなら、あの二人に同じ痛みを与えたい。
しかし、そういう復讐は俺には向いていない。
他人を平気で傷つけられるような人間ではないのだ。
そして、そういう人間だからこそ……花菜さんと一華ちゃんは、心を許してくれたのである。
「でも俺、昨日はゆっくり眠れたので……眠れないかもしれません」
「そうなの? 暇だったら横でスマホとか触っててもいいからね……わがままを言っちゃってごめんなさい」
「あ、全然気にしないでください! 暇とかじゃなくて……こういうことになるなら、昨日は徹夜すれば良かったなぁって」
「徹夜なんてダメよ……体が大きくならないわよ? めっ」
まったく怖くない叱り方をする花菜さん。
すぐ隣で、俺に寄り添うようにして眠るその姿は、とても無防備だ。
色々な箇所が触れている。密着されているせいか、柔らかくてとてもいい匂いがした……その温もりが、心地良かった。
だから、いつの間にか武史と香里のことも頭から消えていた。
この部屋に来るたびに思い出していたあの光景も、これからは……花菜さんと眠った思い出に変わるだろう。
柔らかい体と、甘い匂いと、それから優しい母性に、包まれて。
「ん……? 巧くん?」
「…………」
「あらあら。寝ちゃったの? 眠れないって言ってたくせに……まったく、本当に可愛いんだからっ」
意識のはざまで、声だけが聞こえた。
返事をしようとして、しかし口は動かなくて……次の瞬間には、夢の世界へと旅立っていた。
昨日はしっかり眠れたつもりだった。
だけど、最近はソファで眠っていたせいか体の節々が痛んでいたし、熟睡はできていなかったのかもしれない。
加えて、花菜さんが隣にいるせいで、心と体が緩んだのだろう。すぐに眠気が訪れたのだ。
もっと、ドキドキしたりするかと思っていた。あるいは下心が芽生えたりすることも恐れていたのだが、そんなことは決してなかった。
花菜さんの言葉通り、俺はまだまだ子供なのかもしれない……もっと男らしくなりたいとは思っているのだが、まぁ今はもういいだろう。
今まで、こうやって甘やかされたことがないのだ。
だからもう少しだけ、この生活を楽しみたい。
……そういうわけで、俺と花菜さんは一緒にお昼寝をした。
とても心地良くて、幸せな眠りだった――。




