四十三話 過去のトラウマ
花菜さんは、明らかにまともじゃなかった。
「……ごめんね。巧くん、ごめんね。本当に、ごめ――」
何度も謝ってはいるのだが、そこに感情はこもっていない。
目の焦点もあっておらず、さっきからずっと呆然としていた。
武史のことがあまりにもショックだったのだろう……自分を見失うほどに、精神的な苦痛を受けているように見えた。
(どうしよう? そのまま花菜さんの家に……いや、でも、俺の家の方がむしろいいのか?)
花菜さんには落ち着いてもらうための時間が必要だ。
でも、五味家に連れて帰るのは気が引ける。何せ、武史がいつ帰ってくるか分からないのだ……あの様子だと当分は帰ってこないだろうが、万が一にも帰宅してきて今の状態の花菜さんに遭遇したら、どうなるか分からない。
もしかしたら花菜さんが後戻りできないくらい、傷ついてしまうかもしれない……そう考えると、怖かったのだ。
それは精神的な意味だけではない。肉体的な面でも、その可能性があり得てしまう。
(まさか、あそこまでクズとは……っ)
母親に手を上げようとするなんて、考えられない。
俺がいたから制止できたが、仮に武史が花菜さんと二人きりだったら――そう考えると、背筋が冷えてゾッとした。
「花菜さん、動けますか? 俺の家に行きましょう」
だからこそ、五味家に帰るのはやめておいた。
時間も遅いし、一華ちゃんもいるので、彼女の安全性を考えるとちょっと不安もあるけど……それでも今は、花菜さんのメンタルの方が心配だ。
一華ちゃんのことは、後で考えるとしよう。
そういうわけで、再び花菜さんと一緒に俺の家に戻った。
「…………」
今、呆然自失した花菜さんを落ち着かせるためにソファに座ってもらっている。
また、あの時と同じ状況だ。
武史と香里の浮気現場を見た、あの直後と同じである。
「花菜さん……コーヒーです。どうぞ、飲んでください」
でも、あの時と違うのは俺が正常であること。
花菜さんと一華ちゃんのおかげで、今はだいぶ精神的に落ち着いていた。
あの時、俺は二人に救われた。
だから今度は、俺の番だ。
「ここは安全ですよ。何かがあっても、俺がいます。俺が、花菜さんを守りますから」
隣に座って、静かにそう告げた。
この場所にはもう、危険がない。仮にあったとしても、俺がなんとかする――そう伝えると、花菜さんはようやく……反応してくれた。
「……巧くん」
「はい。なんですか?」
「手を……握ってもらっていい?」
「もちろんです」
言われて、その手を握った。
身長と同じく、サイズの小さいその手は……家事や仕事のせいなのか、少し荒れていてカサカサとしている。それでいて、柔らかくて温かい、花菜さんらしい手だった。
でも、震えていた。
花菜さんは、怯えるかのように……怖がっていた。
「……離婚した時の事、前にも伝えたわよね。浮気されて、捨てられた――って」
「はい」
「でもね、それだけじゃないの」
そして花菜さんは、苦しそうな表情で教えてくれた。
言いたくなかったであろう……いや、口に出すことすらためらうくらいに嫌な記憶を、あえて言葉にしてくれたのだ。
「浮気された時にね、それを責めたら……殴られたの。それ以来、私は成人男性のことが苦手になった。子供やご老人なら、大丈夫なんだけど……怖くて、体が震えてしまうの」
過去のトラウマを、花菜さんは背負っている。
よっぽどクズだったのだろう……そのクソ野郎のせいで、花菜さんは痛ましい傷に今も苦しんでいる。
そのトラウマが、花菜さんはフラッシュバックしたらしい。
「――武史にも、同じことを思ってしまったわ」
ずっと『子供』だと思っていたはずの武史だが。
「あの子のことを、もう……子供だと、思えない」
花菜さんはもう、向き合えない。
体の震えが、その証拠だ。
武史という人間の暴力性に、怯えてしまっていたのである――。




