四十二話 戻れない道
『パチン!』
その音が響くのは、二度目だった。
花菜さんの手が、武史の頬を打つ音だ。
『生まれてこなければよかった』
その一言に、花菜さんはどれだけ傷ついたのだろう?
「花菜さんっ」
思わず立ち上がって、花菜さんのそばに駆け寄った。
その表情を見てみると、やっぱり……花菜さんは、とても苦しそうだった。
「私がっ……どんな思いで、あなたを育てたのかっ。どんな気持ちで、あなたを引き取ったのか……どれだけ苦しい思いをしても、私は――!」
息は荒い。肩も大きく上下していて、過呼吸を起こしかけているように見えた。そのせいで発する言葉がたどたどしくなっている。
しかしそれでも、花菜さんは何かを伝えようとしていた。
「私は――武史を、愛していたのに」
心からの叫びに見えた。
血がつながっていなくても、関係ない。
武史のことを、我が子のように愛していた。
他人である俺が見ても、疑いようがない。
花菜さんは武史のことを、昔からずっと大切に思っていた。
実は血がつながってなかった、なんて……本人から知らされるまで、思いもしなかったくらいには、正真正銘の『親子』だったのである。
今だってそうだ。
生まれてこなければよかった、というセリフに花菜さんは心から傷ついていた。
それはきっと、武史が生まれてきてくれて良かったと、心から思っているからこそなのだ。
でも、それを武史は否定したのだ。
「……母親なら、もっと優しくしろよ。いい息子、してただろ? 自慢の息子でいてやっただろ? 血がつながってなくても、ちゃんと普通の子供らしくしてたんだぞ? だったら、俺を否定すんなよ。それくらい、ちゃんとやれよ!」
そして今も、武史は花菜さんを否定している。
「この――!」
「……っ!?」
怒鳴り、あろうことか拳まで振り上げていた。
武史が花菜さんを殴ろうとしている。花菜さんも、拳を振り上げた武史を見て、目を大きく見開いていた。
でも、その時にはもう、俺が武史の腕をつかんでいた。
「それ以上はやめろ」
一言、静かに告げた。
人としての道を踏み外すぞ――と。
俺を殴るのと、花菜さんを殴るのとでは、意味合いが大きく異なる。
この先を進むのであれば、たとえ花菜さんが悲しむことになっても……しかるべき手段として、警察に即座に連絡するだろう。
そうしないと、花菜さんの命すら危うい。
俺たちはもう、体の成熟した高校生だ。女性の花菜さんに手を上げて、無事じゃない可能性の方が高いのだから。
「……ちっ」
きっと、武史も本能的に理解はしているのだろう。
花菜さんに手を上げると、もう人として戻れないということに。
だから、舌打ちをこぼしながらも拳を下ろして、俺の胸を突き飛ばした。
「触んな!」
怒りはまだ消えていない。
だが、その矛先を花菜さんに向けるのはやめたらしい。
「ふざけんなよ、クソがっ」
悪態をつきながらも、武史はフラフラと歩きだす。
家とは反対方向に向かって進み、やがて曲がり角に消えていった。
もう、あいつは戻ってこない。
「…………」
呆然とする花菜さんを置いて、どこかに歩き去って行ったのだ。
最悪だ。なんであそこで怒って殴ろうとするんだ?
反省して謝れば、ここまで花菜さんを悲しませることなんてなかったのに。
まぁ、いい。あいつのことなんてどうでもいい。
今はとにかく、花菜さんのメンタルが心配だ。
「花菜さん? 大丈夫ですか?」
武史に殴られかけて、それ以降何も言わなくなった花菜さんに声をかけてみる。
すると、花菜さんは……小さな声で、こう言った。
「巧くん――ごめんね」
こんな時でさえ、花菜さんは真っ先に俺に謝ろうとする。
子供の罪を少しでも軽くしようとするかのように……。
恐らくは、無意識なのだ。
子のために何かしてあげようという母の思いに、俺は胸がいっぱいだった。
本当にこの人は、優しい人だ。
だけど、優しすぎるが故に花菜さんは……いつまでも、救われないのかもしれない――
※39話と40話が抜けていたので、39~42話まで再投稿しております。
しおりのズレなどありましたら申し訳ございません。
本当にごめんなさい。(2024/03/11/19:45修正済み)




