キースの描画
「嘘でしょう? だって魔法道具はもう何年も発生していないって……なんで、なんでイーディス様なのよ!」
イーディスが魔導書に囚われたと知ったマリアは酷く取り乱した。そんな彼女をキースは「癒やしの聖女による儀式を行えばきっとすぐに戻って来る」と宥めた。大丈夫だと繰り返してはいたものの、キース自身も動揺していた。
ずっとマリアが消えてしまう心配はしていた。
けれどイーディスが消えるなんて、信じられるはずがなかった。
キースとマリアが出会ったのは、二人が三歳の時。
イストガルムの姫だと知らされていないマリアはギルバート家令息との婚約にひどく驚いていた。幼い少女も知っているほど、ギルバートの名は有名だった。ギルバート家ほどの名家が他国の男爵令嬢と縁を結ぼうとしていることは騒ぎになったほど。事情を知らない遠縁の親戚なんかは散々「なぜあんな令嬢と!」と喚き散らしては本家の者に睨まれて縮こまっていた。だが文句を言いたいのは遠縁の者だけではない。イストガルム・シンドレア以外の貴族達もキースと顔を合わせる度に小さな棘でチクチクと刺激しては、婚約を解消するように誘導しようとする。最悪な気分だ。だがマリアの苦痛を思うと、キースに近づく貴族達なんてかわいいものなのだろう。
マリアは慈愛の聖女である。慈愛の聖女は魔を集めるという性質上、悪意を向けられることが多い。だから自分といる時だけは気を休められるようにと、キースは彼女に沢山贈り物をし、何度も会いに行った。だが何かできている実感がなく、帰りの馬車の中で今日も何もできなかったと後悔することがお決まりになってしまっていた。
弱気になってしまっているのがよくないのだろう。そう思うのに、自力では泥のような悪夢から脱することが出来ずにいた。
悪夢を見るようになったのはマリアと出会ってからすぐのことだ。それもいつも結末が同じ夢だ。今よりも少しだけ大人になったキースの前で、マリアが息を引き取る夢。
どこから始まっても、必ず無力なキースが泣き崩れて終わる。初めこそこれは夢だと思い込むことが出来たが、次第に未来は変えられないのではないかと寝ても覚めても悪夢にうなされるようになった。だからといって、何かしてやることも出来ずただ彼女に寄り添うだけの日々。
そんな日々から解放してくれたのはイーディスだった。彼女と文通を交わす度、少しずつではあるがマリアの状態も良くなっていった。カルドレッドから派遣された医師は奇跡であると目を丸くしていた。実際、歴代の慈愛の聖女についての記録では、例外なく全ての慈愛の聖女が年を重ねるごとに衰弱していったのだ。回復した事例など一度もなかった。
たった一人の女の子が救うなんて、あり得ない話だった。
そもそもマリアに友人が出来たことこそが奇跡だった。幼少期に参加していたお茶会も慈愛の聖女の役目の一つである。キースとの婚約は、より多くの悪意を短期間で集めるため。少しでも苦しむ時間を減らせるように、彼女の両親であるイストガルム国王が考えた苦肉の策であった。当然、マリアは行先で様々な人々から悪意を向けられる。もしも善意や好意というプラスの感情を持つ者がいたとしても、貴族社会という場所でそれがマリアに向けられることはまずありえない。そんなことをすれば他から反感を買ってしまうからだ。けれど悪意を持たずにマリアに話しかけてきた者がいた。
イーディス=フランシカーーそれがマリアに話しかけてきた少女の名前であり、マリアに出来た唯一の友人の名前である。男爵家に生まれた彼女は、見た目が地味なだけではなく能力も平凡。両親祖父母の経歴もくまなく調べたが、目立ったことはない。ただ唯一他の令嬢と違うことは、彼女があの剣聖の孫の婚約者であること。多くの令嬢から睨まれ、妬まれつつも彼女は平然としていた。人よりもメンタルが強いのかもしれない。だがそのくらいだ。変な少女だと思いつつも、マリアの短い人生の癒しとなってくれる人物が出来たことを喜んだ。
まさかその変な少女との出逢いがマリアの一生を変えてしまうとは露ほどにも思わずに。
週に一度あるかないかの文通と、彼女から勧められる本はマリアの世界を変えた。そしていつからか、イーディスが送ってくるようになった外出先からのお土産はマリアの宝物となった。キラキラとした目でキースに見せてくれるのだ。今回はこの本に出てくるこれをもらったのだと、お返しものは何がいいか、と相談してくる彼女は本当に幸せそうで、キースも苦しむだけの日々に別れを告げることにした。とはいえ、自分が助けたかったと嫉妬することが全くない訳ではない。自分が贈ったアクセサリーの方が高価だ。マリアの読んでいた本のヒロインが付けていたものと同じだ。そんな言葉が喉元まででかかったことも一度や二度じゃない。それでもすんでのところで飲み込んだのは、マリアの体調が徐々に回復していったから。キースや他の人達では成し遂げられなかったことを、一度会っただけの少女が、マリアの事情を知らぬ令嬢がやってのけたのである。楽しそうに笑い、寝室以外で過ごす時間も増えていくマリアの姿を見ていたら、イーディスには感謝せずにはいられなかった。
「キース様。私、学園に通いたいのです」
「それは、イストガルムのか?」
「いいえ、シンドレアの、イーディス様と同じ学園に通いたいのです。一年でも構わないから、唯一のお友達と過ごした思い出が欲しい」
マリアがそう切り出したのは十四になったばかりの時だった。
その頃には馬車から出ないという条件で、屋敷の外に出られるほどに回復していた。だからこそ、欲が出たのだろう。今までのマリアからは想像出来ない。だが欲があるのは希望があるから。絶望していただけの生活から脱せた証拠である。生きることに前向きであってくれることを嬉しく思う一方で、不安でもあった。今、マリアの体調が落ち着いているのはあくまで行動範囲を限定し、彼女に集まる魔量を制御しているからにすぎない。もし倒れたとしてもすぐに介抱できるように常に使用人を連れている。だが多数の生徒が集まる学園なんて通えばどうなるか予測もつかない。
ダメだ。ワガママを言わないでくれ。
マリアの婚約者という役目を任されているキースはすぐに切り捨てるべきなのだろう。それでも、真っ直ぐと見つめてくれる女の子の小さな夢をこの手で握りつぶすなんてむごいことは出来なかった。
「……検討しよう」
そう告げて、キースはイストガルムに戻った。マリアの入学を認めて欲しいと国王陛下に許しを乞うためだ。手紙での提案はすぐに却下され、今度は直接足を運んだ。陛下はマリアの身を案じ、なかなか首を縦に振ろうとはしない。イーディスが特別なだけだ。彼女との文通ならイストガルムに来てからも続けさせて構わない。だからそんなところには行かせないと。何度も何度もキースの提案は退けられた。それでも諦めなかった。あかの他人であった少女が繋げてくれた希望を絶やしたくなかったのだ。
「結婚するまでの一年で構いません。それ以降はギルバート夫人としてイストガルムに連れて帰ります。社交界にも出さず、ギルバートで保護します。ですから、何卒マリアの夢を叶えてやって頂けませんか」
涙ながらに語り、頭を垂れる。
「……護衛はこちらで選出する。体調が悪かったらすぐに休ませ、異変が見つかった場合は予定を早めてイストガルムに連れ戻せ」
「許してくださるのですか!?」
「お前がそこまでするのだ。それに、私だってあの子が掴んだ希望を潰したくはない」
「ありがとうございます!」
その他にも細かい条件が書き連なった書類を渡されたが、キースはまよいなくサインをした。このとき、すでに学園入学まで三ヶ月を切っていた。マリアに学園に通っても構わないと告げ、自分と彼女の分の入学準備をする。護衛とキースの住居はアリッサム家が用意してくれることになった。
こうしてマリアは待望の学園入学を果たしたのである。
とはいえ、マリアがイーディスと直接顔を会わせるのはあのお茶会以来。十年ほど前のことだ。手紙を通してと直接話すのでは違う。お互いにギャップを感じてしまうかもしれないとドキドキした。会って早々、予防線まで張ってみたりもした。けれどすぐに二人は打ち解けた。イーディスは嫌な態度を取ったキースまでも受け入れてしまったのである。正直、イーディスの寛容能力は想像以上だった。事前に調査はしていたが、まさかキースとマリアの関係をまるで気にも留めないどころか、当然とばかりに受け入れるとは思ってもみなかった。
これから一年ほど、共に学園生活を送る身としてはありがたい限りではあるが。
また想定外だったのはイーディスだけではない。癒やしの聖女が現れたのだ。過去に癒やしの聖女と慈愛の聖女が同時に生存していたというデータは残っていない。どちらも聖母の魂を継いでいると言われるゆえんがこれだ。とはいえ、今まで一度も観測されなかっただけであり得ないと否定することは出来ない。未だ聖母と聖女については謎が多いのだ。だが、その関係でリガロ=フライドはイーディスの側を離れることになっている。その上、イーディス本人には一切の事情を知らせないときた。ある程度のフォローは行うが、なるべく彼女を癒やしの聖女に近づけたくはないらしい。とはいえマリアも癒やしの聖女に近づけるつもりはないので、一緒に動いていれば問題ないだろう。
そう簡単に考えていた。
バッカス=レトアがイーディスと親しくなったことだけは予想外だったが、マリアも案外すぐ打ち解けることが出来た。キースの方も、彼から頻繁に状況報告が聞けるので助かっている。それに話も合う。彼と共に過ごすのは授業が始まるまでのわずかな時間だけだが、楽しい時間を過ごさせてもらった。その後、しばらくしてからローザも仲間に加わって、図書館はますます賑やかになっていく。バッカスから聞いた話によれば、リガロは図書館の様子を気にしているらしく、役目が終わったら通ってくるだろうとのことだった。
「キース様、リガロ様は一体いつになったらイーディス様の元に帰ってくるのでしょう」
「そう遠くないうちに戻ってくるさ。彼は、イーディス嬢が大好きだから」
「それはそうですけれど……でも大切な女性を長く待たせるのは男性として失格ですわ。今度会ったら嫌みの一つでも言わなければ気が済みません」
「あまり虐めるなよ」
マリアはぷりぷりと怒りながらも、リガロがイーディスの元に帰ってくることを疑っていなかった。
だからこそ、イーディスが消えたのは青天の霹靂だった。マリアだけではない。誰がこんな事態を予想出来たというのだ。
唯一の希望であった、癒やしの聖女の儀式が終わってからもイーディスは帰ってこなかった。魔の供給を断ち、癒やしの力を使ったが、魔道書に変化は見られなかった。
待つしかない。
すぐにその結論に至った。
だが半年が経過しても彼女は戻ってこなかった。
国王陛下との約束で、二年生に上がるまでにマリアは国を、イーディスの元を離れなければならない。イーディスの帰りを待つのだと泣いて縋る彼女をイストガルムに連れて帰るのはひどく心が痛んだ。こんなことになるのなら、学園入学を拒んでいれば良かったと思えればどんなに楽だっただろうか。けれどキースにとっても幸せだった時間までも否定したくはなかった。
それはマリアも同じらしい。ギルバート領に来てから元気がなくなったらどうしようかと考えていたキースの目に映ったのは、便せんにペンを走らせるマリアの姿だった。毎日毎日大量の手紙を書くのだ。その中から厳選したものを週に一度送る。いつか絶対に返事が返ってくると信じて手紙を書くことで、どうにか保っていたのだ。そんな姿が痛々しくてたまらない。
だからだろう。
キースは最近、めっきり見る機会が減っていた悪夢に毎夜うなされるようになった。マリアの体調が悪かった時の夢だ。だが現実と違うのは、夢の中のイーディスは貝やら羽根やらを送ってこなかったこと。そしてマリアとの手紙の中で語られているリガロとの話がほぼ嘘であること。基礎となるのは現実なのだろうが、仲睦まじいエピソードは全てイーディスが書き上げた物語だった。夢の中で嬉しそうに手紙を見せられる度にゾッとする。なにせ現実でも同じような数年を送っていたのだから。マリアは知らないと思うが、とある年まで、現実の二人の仲も冷え切っていた。
それが変わったのはマリアへの手紙の内容が変わりだした頃だったか。
パタリとリガロの話をしなくなり、好む本も変わっていった。その前後に何かあったのだろう。そんな友が心配ではあるものの、無理に聞き出すようなことはしたくないとマリアは返事に悩むようになった。けれどそこからすぐに恋愛小説ばかりだったオススメの本にミステリーや冒険小説が混ざり始めるようになり、イーディスからの手紙のテンションも変わっていく。空元気という訳ではない。ただ純粋に本を楽しみ、マリアにもその楽しみを共有しようというのだ。ふんふんと荒い鼻息も聞こえてきそうなほど。マリアはイーディスに感化され、それらにも浸るようになった。少しずつ世界が広がっていく。それから一年と経たないうちにキースの耳にはリガロとイーディスの関係が変わっているという噂が届き、マリアの元には小説に出てくるようなお土産が届くようになった。
ここがおそらく悪夢と現実の転機だったのだろう。
夢の中の二人の関係は冷え切ったまま。イーディスとの文通を楽しみにしていたマリアも、他の慈愛の聖女と比べればうんと長生きをしてくれたものの、十四でこの世を去った。亡骸どころか灰さえ残さず、魔法にかけられたかのように姿を消したのだ。キースにとっての生きがいはマリアだ。彼女がいなくなってからは動く死体のように生き続けた。何度も死のうとして、その度にマリアが残した言葉を思い出す。
『イーディス様の結婚式に出席することが夢でしたの。キース様、私の代わりにどうかイーディス様の晴れ姿をその目に収めてくださいませ』
マリアの想像するような幸せな式にはならないだろう。それでも、彼女はそれを思い描くことで生きようとしてくれていた。希望だったのだ。けれどマリアの死によって、イーディスはキースにとっての希望から呪いへと変わった。いや、恨むべきはマリアを救ってくれた彼女ではない。慈愛の聖女の、マリアの唯一の友になってくれた少女を無碍にする男こそが恨むべき存在だ。手紙の中で語られていたように大事にされていたのなら、キースは苦しみつつも見守っただろう。けれど彼はあろうことか、癒やしの聖女に惚れ、イーディスを捨てることを選んだ。観衆の面前で、ボロ雑巾のように投げ捨てられたのだ。
リガロが許せなかった。
マリアが死に、イーディスが捨てられるこの世界が許せなかった。
夢なのに、息をする度に喉が焼けるような激痛が走る。マリアの元に行きたい。そう、何度願ったことだろうか。けれど彼女との約束を無碍にしたくない。そんなことをしたら、キースが嫌悪する男と同じになってしまいそうで。だからイーディスをギルバートの妻として迎えることにした。彼女がこの家に馴染んだ頃、莫大な遺産を残して自分は死のうと。
寝ても覚めても息苦しさだけが溜まっていく、そんな悪夢ーーだった。
悪夢が姿を変えたのは、イーディスがギルバート屋敷にやってきた時だ。
「今のあなたにマリア様の一番の座はあげられないんですよ! 私が一番です。勝手に精神病んで、彼女が望んでもいないのに後追って死のうなんてする男は、ぬるま湯みたいな幸せに浸かっている私よりも格付けが下です。二番手、いや六番手辺りで十分です。ベンチで身体温めてから出直してください」
リガロとの婚約を解消されてから、剣聖の庇護下で療養しているらしいことは知っていた。だが出会い頭に喧嘩をふっかけてくるほど回復しているとは思わなかった。現実の世界で、入学式の日にキースが告げた宣言と似たそれは苦しいと喉をかきむしるだけの男の世界を変えた。
そこから食事を摂るようになり、溜まっていた仕事を片付け、イーディスと共に出かけるようになった。彼女はマリアのためと言いながら、キースにもたくさんのものを与えてくれた。屋敷で服のデザインを考える度、旅先で絵を描く度に、世界に色がついていくようだった。マリアがいないはずの世界で、笑って過ごせるなんて思ってもみなかった。幸せだった。ずっとこの温もりに浸かっていたいと思った。
けれど夢から覚め、隣で眠るマリアを見ると、頭から氷水をかけられたように身体が冷えていく。この世界でいないのは、イーディスだと。どちらかがいない世界でしか自分は生きられないのかと残酷な現実に打ちひしがれる。
「せめて絵の中くらい……」
そう呟いて、キースは天井裏のアトリエへと向かう。悪夢が形を変えてから夜中に目が覚めると決まって絵を描くようになった。現実逃避でしかないことくらい自分でも理解している。それでも絵の中でくらい、二人の少女に笑っていてほしかった。それに何枚も積み重ねれば、いつか帰ってくれるんじゃないかと淡い期待もある。
「イーディス嬢、どうか帰ってきてくれ」
星降る夜にも空を見ず、絵に乞う男はさぞ無様であったことだろう。幼い頃見た夢と同じ、身体だけが成長した無力な男である。
だがキースの先祖が守ろうとした聖母様は哀れな男を救ってくれた。
魔導書に取り込まれてから十年が経った頃、彼女はこの世界に戻ってきたのだ。キースの夢の中で、イーディスが帰ると決断し、聖母像の持つ本に触れた日と同じ日。これを聖母様の導きと言わずになんと呼べばいいのか。キースはイストガルム城の聖堂に何度も足を運んでは、聖母像に感謝と祈りを捧げた。
それからいろいろあって、彼女は今、カルドレッド領主兼聖母となっている。本当にいろいろあったが、最後には全員無事生きて笑えていることを嬉しく思う。
ただ気になることもある。
戻ってきてからのイーディスのキースを見る目は、以前はなかった不思議な優しさが篭もるようになったことだ。それに、彼女がカルドレッドに建てた屋敷はキースの夢の中の物とよく似ていた。内部は少し手を入れているようだが、隠そうとしているものの見当がついてしまう。特に玄関の絵なんて、あからさますぎる。おそらく、彼女が過ごしていた本の中の世界はキースの悪夢と似たもの、もしくは同じものなのだろう。
それにイーディスが本の中から出てきた後も悪夢に変化がおき続けている。退魔核の作成辺りから止まっていた研究も飛躍的に進歩し、今ではこちらと同じような発展を遂げている。退魔オーブなんて普通数カ月で作れるようなものではない。どこかに情報提供者でもいない限り。夢の中で目にした、手紙や写真の数々はきっとイーディスからの贈り物だ。こちらに帰って来てからも何らかの手段でやりとりをしているのだろう――なんてキースの空想に過ぎないのかもしれない。
だがカルドレッド領主宛てにファファディアル星雲祭の招待状が来た時、小さく「懐かしいわ」と溢しているのを聞いてしまった。これでもしかして、と確認することは簡単だ。だが確認してどうなるというのか。悪夢を変えてくれてありがとうと礼を言ったところで、こちらのキースとあちらのキースは別の人生を歩いた人間である。なら、知らないフリを突き通すべきなのだろう。
それでも、領主との話し合いの最中に出てきたものをスルー出来るほど割り切れてはいなかった。それはイーディスも同じこと。目が少しだけ大きく開いたことをキースは見逃さなかった。
「ほら、レモネードとクッキー」
「うわっ、焼きたて! ありがとうございます」
会議の後、使用人に買いに行かせたものを渡せばイーディスは子どものように喜んだ。このくらいの干渉ならきっとイーディスも気に留めることはないだろう。マリアも彼女に倣って大きく口を空けて頬張る。
「おいひい」
「美味しいですわね」
二人に続いてキースもレモネードに口を付ける。夢の中で味わったものよりも少し酸っぱい。
リガロとバッカスを押しのけて半ば強引に勝ち取った権利ではあるが、今日は三人でファファディアル星雲祭に来られて良かった。仕事の一環ではあるが、キースだけではなく、他の二人にも素敵な思い出となったことだろう。帰ったら新たな絵を描くつもりだ。使用人に今までで一番大きなキャンバスを用意するように伝えてある。
どんな絵を描こうか。
幸せな悩みにキースは頬を緩ませるのだった。




