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聖傑  作者: 如月誠
第三章 母の愛編
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第四十二話 十年越しの対峙

 

 小学生のころ。


 自分は、周囲の子どもとは少し違うということに段々と気付き始めた。


 こちらを見る視線。何やらヒソヒソと話している主婦たち。純粋に問いかけてみても、はぐらかされてそそくさと逃げられてしまう。


 同様に、クラスメイトからも距離を置かれ始めていた。「アイツ、危ないトコの子だから近づかないでおこうぜー」と、意味不明な言葉で避けられる。その子たちの親が忠告でもしたのだろうと、今なら推測できた。


 そして、私も知ることになる。


 噂話の口々に『ヤクザ』だの『銀城会』だの、漏れ聞こえる声で私はその関係者なのではないかと。

 まさか実子だったのは、さすがにショックが大きかったけれど。

 母親からはそんな話を聞かされた覚えもないし、やんわり父親の存在を訊いたこともあったが、やはりはぐらかされた。きっと、私が嫌な思いをするだろうから敢えて伏せていたのだろう。

 私も、母の前ではそれ以上追及しないようにした。真実を知りたい気持ちはあっても、母の悲しむ顔なんて見たくもなかった。


 だけど。正確な時期は忘れたけど。

 出会ってしまったのだ。

 私の兄に。


 正確には腹違いの兄が、私の目の前に現れたのだ。

 お気に入りの変身ベルトを腰に巻いて、河川敷に一人でヒーローごっこをしていたときだ。

 怖そうな大人を伴って、まだ幼い兄は私にこう言った。


「それダサいよな」


 そのときは、まだ彼が兄だとは知らなかった。初対面の男の子。にも拘らず失礼なヤツだな、と思った。


「親父もさ、もうちょっと考えればいいのにな。世間の流行りなんか知らないからさ、デパートの店員に訊いてオススメをそのまま買ったんだって。女子にヒーローの変身ベルトとか、センスゼロじゃん」


 その言葉を聞いた瞬間、思考が停止したことを覚えている。

 母からのプレゼントと思いきや、父から内緒で送られてきたものだったのだ。

 それを知り、一度だけ銀城会の屋敷に行ってみたことがある。素直に興味本位。純粋に父親がどんな姿なのか気になった。

 物陰に隠れて見たのは、正しく鬼だった。

 近所で評判の悪い組織の親玉であり、誰もが目を逸らす男の顔は、想像以上に厳格で特に目つきが獰猛な獣そのものだった。


 怖い。私はすぐに逃げ帰ってしまった。


 銀城会の人間も今よりずっと素行が悪く、立ち退きしてしまった商店街以外の店も少なくない。

 次第に強くなっていく嫌悪感。あんな男と血が繋がっている自分も気持ち悪かった。

 今こうして母と離れて暮らしているのも、きっとアイツが自分の稼業に邪魔になったから捨てたんだと思うようになった。苦しい生活を強いられるのを知りもせず、自身は偉そうにふんぞり返っているんだと。


 全部、全部、全部。アイツのせい。


 だから、変身ベルトも着けなくなった。

 母から「あら、最近着けてないの? あんなに喜んでたのに」って言われて内心焦った。

 飽きたんだ、って変な言い訳したけど、却って母を傷つけてしまっただろうか。

 だけど。

 あんなものなくても、お母さんは守ってみせる。

 アイツに二度と近づけさせない――そう心に誓ったんだ。






(どうして……昔の夢なんか……)


 目を覚ました直後のことを思い出して、陽ノ下は涙ぐむ。


「……我ながら、なんつー人生だっての」


 鼻をすすって、表情を引き締める。

 眼前にそびえるのは、大きな社。一体どんな神様が祀られているのかと思えるほど荘厳な造りに圧倒されるが、奇妙なのは鳥居もなければ拝殿すらないことだ。


 まるで、崇めるのはここにいる主だとでも言いたげに。


 神聖な場所であるはずなのに、空気は淀んでいる。肌にまとわりつく重苦しさに、陽ノ下の脳に絶望を呼びかけてくるようだった。


 だが、行かなければならない。


 直感で分かる。ここにはアイツがいる。

 まるで大木のようなしめ縄をくぐって、本殿へと入る。急激な悪寒が陽ノ下を襲う。灯りと呼べるものはなく、かろうじて肉眼で内部が確認できる程度。ほぼ闇の中、畳の上をゆっくりと歩いていく。


「ッ!?」


 瞬間。ゆらめく青い炎が陽ノ下を出迎えた。左右の壁を沿うように、幾つも灯り、室内を一気に照らしていく。まるで人魂だ。温度感じさせない炎が、彼女の来訪を喜ぶかのように揺れていた。


「……誰が来たかと思えば」


 その声は真正面から。

 鋭い眼光が闇を射抜き、低い声音がまるで合図のように部屋に灯りをともす。天井や壁一面が絢爛な模様で彩られており、所有者自体の趣味でもあるのか寺社特有の冷厳さが失われているような気がした。

 室内の奥――仁王像が鎮座している手前に、その男はいた。

 白髪を後ろに撫でつけた初老の男性。おおよそ五十歳は超えていると思われるも、厳然とした顔つきに着物の上からでも分かる精悍な肉体が年齢を感じさせない。


「懐かしい顔じゃ。儂の記憶ではまだ幼いはずだったが」


 胡坐をかいたまま頬杖をつく男は、鼻を鳴らす。


「銀城栄介……!」


 脳内の記憶にこびりつく残滓。その顔を間近に捉えた瞬間、陽ノ下が唸りを上げた。


「何の用じゃ? 儂らは既に断絶した間柄。こうして対面することも生涯ないと思っていたが」

「アタシだってそうだ」


 陽ノ下はそう吐き捨てる。


「顔も見たくなかった。口もききたくなかった。けど、もう我慢の限界」


 震える身体を無理矢理押さえつけるように、陽ノ下は拳を固く握った。

 怒りが先走りしているが、本質的にあるのは恐怖。陽ノ下自身、自覚があった。堅気ではない者の威圧感。昔、遠目で眺めただけの実の父と直接交わるのは初めてなだけに、彼の声を浴びるだけで射すくめられる自分がいる。

 ――だが。


「今、町で銀城会の連中がうろついているのはアンタの仕業なの?」

「ガキが何を言うかと思えば……。シノギは大人として当然じゃろうが」

「そんなことを訊いてんじゃない!」


 呆れる銀城栄介に、陽ノ下は感情的に吠えた。


「不必要に町の人たちを怖がらせるなって言ってんのよ! ちょっと前まではアンタたちも目立った活動はしてこなかったじゃない! そりゃ裏で色んな悪いことしてたのかもしれないけどさ、御伽町の皆とはあまり接触しないようにしてたんじゃないの!?」

「…………」

「だからアタシも許せない気持ちがあったけど、耐えてきたんだ。私と母さんの事情を知りながら、それでも優しくしてくれる人たちもいる。そこに迷惑がかからないならって、目を瞑ってきたんだ」


 以前、それこそ母からだったか。

 陽ノ下が父親の存在を自覚し、探っているのを感じ取ったのだろう。聞かされたことがあった。

 銀城会というのは仁義を通す組織だと。絶対に堅気には迷惑をかけない――それが、銀城栄介が部下に厳しく課す絶対的なルールだと。破った者は間違いなく破門となるらしい。

 それも、陽ノ下澪が生まれる前あたりから急激に方向性を変えたようだ。とは言っても結局ヤクザだし、陽ノ下も半信半疑だったが確かに現在に至るまで大人しかったのは事実だ。


「それが最近はどう!? 町の色んなとこを徘徊して、ときには高圧的に絡んでさ! 皆、不安になってんだ!」

「だからこうして文句を言いに来た……か。ここまで」

「そうよ! 銀城会なんて、その存在自体が邪魔なんだよ。とっとと消えちゃってよ、頼むから!」


 喚き散らして、陽ノ下は肩で息をする。

 主張自体は子供じみた陳腐なもの。ここまで感情を爆発させたのは初めてだった。母すらも、友達にも見せたことのない本音。また涙が溢れそうになっていた。

 激しい呼吸を繰り返しながら睨んでくる陽ノ下を、銀城栄介はじっと見つめ返す。


「……知らんな」


 そうして呟かれたのは、ただ一言。それも一ミリも姿勢を崩さず、ただただ冷淡に。


「……は?」

「儂は関知していない、と言っておるのだ。部下の面倒など蒼に一任しているからな」

「んな無責任な……!」

「つまらんヤツじゃ。そんなことを言うためにここまでやってきたとは」


 顔を伏せて、静かに笑う銀城栄介。陽ノ下は絶句したまま、立ち尽くす。


「関心がないと、言っておるのではない。些事なのだ、儂にとってはな。あの町で何が起ころうとの」

「な……ッ!? アンタだって御伽町で生まれ育ったんでしょ!?」

「だからなんじゃ? よいか、儂にとってあの町は踏み台なのだ」


 銀城栄介がゆっくりと立ち上がる。


「極道界の頂点、それが儂の野望よ。すべての組を傘下に入れて、全国統一を果たす! どうだ、素晴らしいだろう!」


 両手を広げ、狂ったように哄笑を上げる銀城栄介。陶酔気味に言葉を放つ。


「そのためには何が必要か? 盃を交わす? ヌルいわ! ならば抗争を仕掛けるか。それも時間が掛かる。儂も若くない上に、鉄砲玉にも限りがあるしな。シマを広げるのも簡単ではない、それが面白くもあるのじゃがな!」

「バカバカしい……!」

「男とは元来そういう生き物なのだ。力こそ、権力こそ正義。何もかもが自分の思いのままに動く――その満足感を得ることが本懐!」


 怒りも呆れさえも通り越して、陽ノ下は言葉を失くしてしまう。理解不能。単純に馬鹿げた発言、夢妄想の次元だと切り捨てるしかなかった。


「最悪……」


 覚悟を決めて対峙している自分が情けなくて、全身に力が抜ける。


「ハハハ、そう。最悪なのだ! 失望したのだ、儂は。天下を取る最短の方法が無いことにな。ありきたりなやり方はたとえ傘下にしたとしてもいつ噛みついてくるか分からん。絶対の忠誠を誓わせるにはどうすればいいか、そこも悩みの種だった」

「もう……、いいよ」

「じゃが、儂は至高のものを手にしたのだ」

「もう、いいってば!」


 銀城栄介の言葉はもはや雑音とばかりに陽ノ下は叫ぶ。そして、そんな悲痛な声もまるで無視して、銀城栄介は告げた。


「それがこのミッシリオ。儂が神として創造した新世界こそ覇道の足掛かりになる」

「……は?」


 激しく首を振っていた陽ノ下が、ふとその動きを止めた。


「なん……、ですって?」

「やはり儂は選ばれた人間だったということじゃ。力を与えられ、この世界では誰もが平伏する。なんと心地よいことか」

「え、いや、待って。ここは御伽町じゃないの?」

「なんじゃ、今頃気付きおったのか。()()()は異界などと言っておったがな。儂にはそれを定義する名称などどうでもいいがな」

「異界……?」

「あまりに居心地が良すぎるのでな。この世界だけに留まればいいかと思いもしたが、やはり紛い物。現世を手に入れてこそ、儂は真の意味で満たされるのだ」


 常軌を逸した発言だと一蹴も出来たが、冷静になると全否定もできなかった。


 ――そういえば、ここはどこだ?


 目を覚ました時のことを思い出す。周囲は埠頭だったのか、海が見えていたような気がする。そこに建つ大きな社。その景色はあまりにアンバランスでありながら、あの時点では違和感すら感じなかった。

 だが、改めて思い返すと歪でしかない。

 この社もそうだ。自分は銀城会の屋敷にいたはずなのに。


「そんなものどうやって……。いや、アンタの戯言が真実だったとして、どうするつもりなの?」


 困惑しながら、陽ノ下は問う。啞然とする少女に、銀城栄介が口角歪めながら静かに告げる。


「どうやら異界は現世にも大いなる影響を与えるようでな。いわば百鬼夜行よ。怪物どもが現世に降り立ち、人間どもを喰らうんだと」

「……!? じゃあ屋敷で組員の様子がおかしかったのも……」

「ほう、そうか。遂に動き出したか。じゃが、その光景を見られないのは残念だったの」


 興味深そうに唸る銀城栄介。


「まあ、よい。祭りはこれからじゃ。この異界が持つ力を以て、儂は現世に総攻撃を仕掛ける。数々の屍の上に、儂は君臨してみようぞ」

「……いい加減にしなさいよ」


 陽ノ下は低くうめいた。犬歯を剥き出しに、鋭く睨みつける。


「何が異界よ。それで現実世界を襲う? 馬鹿じゃないの。アタシと母さんは、そんなことのために何年も苦しんだっていうの? ふざけんな!」


 怒気を孕んだ叫びが、銀城栄介に突き刺さる。

 どす黒い感情が腹の底で渦巻いていた。どこかで慈悲の心があったのかもしれない。しかし、その余白もなくなった。


「ぶったおす。アンタをこの手でボコボコにするために格闘技をやってきたようなもんなんだから!」


 腰を落とし、斜に構える陽ノ下。顎を撫でる銀城栄介は、泰然としながら、軽く笑った。


「いいだろう、小娘が。無知なお前にも儂の恐ろしさを味わわせてくれるわ!」


 銀城栄介の瞳が大きく見開かれる。

 これでもかと裂けた口から吐き出される吐息が、徐々に濃く強くなる。

 微弱な震動が起きたのは、その直後だった。

 揺れていた青い炎が、まるで怯えているのか風もないのに消えてしまう。感じていた震動も、強さを増していく。

 空気が変わった――銀城栄介の背中から放たれる何か。陽ノ下には知覚出来ない“気”のようなものがおぞましく彼女に襲い掛かる。度を越した悪寒が、背筋を這う。


「な、なに……?」


 彼の背後の仁王像よりも憤怒に満ちた表情。隆起した血管が肉体を異常に盛り上がらせる。歪に膨らんだために、着物が破裂。腕や胸の筋肉が膨らんだせいで、年老いた身体が二メートルは越してしまう。

 咆哮を上げた姿は、まさに怪物。

 相貌すらも、人間の面影を失ってしまっていた。


「お、鬼……」


 震える唇からやっと出たのは、その一言。

 荒い息遣いを続ける銀城栄介は、喉の奥を鳴らした。


「そう。儂はかつて“銀鬼”と呼ばれ、極道界では恐れられたものよ。老いるにつれ貧弱になっていくのは儂も耐えれなかったが、こうしてより強靭な姿を得られたのも異界の恩恵によるもの。どうじゃ、素晴らしいだろう!」


 高らかに笑う声が音圧となって、また震動を呼び起こす。

 陽ノ下は膝から崩れ落ちた。


「あ……あ……」


 絶望。異形の鬼を前に、少女の心は完膚なきまでにへし折られる。


(こんなの無理……)


 一歩、銀城栄介が前に踏み出す。床が軋みを上げる。


「先ほどまでの威勢はどうした? 儂を倒すのではなかったのか?」


 嘲笑うように、鬼の顔が歪む。


(怖いよ……お母さん……、死にたくないよ……)


 母の笑顔。それが頭の中に浮かんだ。自分はただ、優しいあの人を守りたかっただけなのに。

 無力感よりも恐怖が支配する。自分の体を抱き締め、溢れる涙が畳を濡らす。


「誰か……」


 喘ぐように呟く陽ノ下。いまにも消え入りそうに、か細くかすれた声は誰にも届くことはない。


「助けて……!」


 死を覚悟することもなく、自分の運命を嘆く。

 もっと生きたかった。生きて、楽しいことをしたかった。かすかに残響のように見知った人たちの声が、どこまでもこだまする。


「陽ノ下ォーーーーー!」


 聞き慣れた声がしたのは、その直後だった。


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