第三十三話 互いの告白
穏やかな風が流れていた。
気を失っていた響里の目に飛び込んできたのは、一面の夕焼けだった。
崩れかけた工場跡の屋上。どうしてこんなところにいるのか定かではないが、とてつもない強風に煽られたような記憶が微かにある。
少し離れたところに、芝原がいた。
その傍らには倒れた望月の姿。じっとして動かない彼を、芝原は膝をつきながら静かに見下ろしていた。
勝敗は決したようだ。
――否。
これは端から勝ち負けを決めるための戦いではなかった。
少なくとも芝原にとっては、過去の後悔や罪を受け入れるための苦行だ。肉体的にも精神的にも苦痛を伴う罰。勝ったから許される、負けて死ねれば逃げられる……というものでもない。
それでも、生死を賭けた喧嘩は終わりを告げた。
安堵した途端、気が緩んだのか肋骨に激痛が襲う。捨て身の一撃の代償は、中々に大きかったようだ。響里はどうにか立ち上がり、彼らの元まで歩み寄ってゆく。
「雄太郎……」
項垂れた芝原が、弱々しく呟く。
彼がどれだけ激しい戦いをしたのか、簡単に想像が付く。破れまくった学生服。血はそこら中から流れていた。ただ、膝の上で強く握られた拳は、その痛みによる我慢ではない。自責の念だ。
「……ったく、なんつー……ツラ、してんだよ。お前は……」
望月の肉体はまるで老人のように酷く痩せ細り、皮膚は乾ききって干からびていた。
強すぎる薬物の反動だ。
望月自身も、その絶大な効力と引き換えに生じる副作用は熟知していたはず。それでも止まることは許されなかったのだろう。街の天下を捨ててでも。憎悪の対象を排除するために。
だが、それも終わったのだ。
「しみったれは……昔から治ってない……ようだな」
疲れたように、望月は薄く笑みをこぼす。
「雄太郎……俺は……」
「……分かってたよ」
芝原が消え入りそうな声で「え?」と漏らす。真っ赤に充血した瞳が望月に向く。
「分かってたんだよ。逆恨み……だってことは」
今にも閉じそうな望月の目は、真っ赤な空を見つめていた。ゆっくりと、吐露していく。
「事故で歩けなくなった。その事実をお前のせいにすることで、残酷な現実から目を背けていたんだ」
「違う! あのとき俺がお前との約束を守ってれば、お前は……!」
「小さいときだ。たまには……そんなこともあるだろ」
「違うんだ。俺は……俺は……!」
嗚咽にも似た言葉を吐き出しながら、首を振る芝原。そんな彼を優しく見つめていた望月は、長い息を吐いた。
「お前は……知らないだろうが、事故から一年以上経ってからか。外出許可が下りたときにな、一度……見かけたんだ。お前が別の友人とつるんでるのをな」
「え……」
耳を疑うように、芝原が呆けた顔に変わる。
「それが楽しげに映ってな。あのとき……からだ。憎悪が俺を締め付けたのは。逆に楽だったよ、恨みに委ねて生きていく……のは」
望月が痛みに顔をしかめる。
最後の告白。
望月の本心を受け止めた芝原の瞳から涙が止めどなく溢れ出す。
「うあ……あ……。ごめん、ごめんよ、雄太郎……」
地面に頭を付け、ようやく口に出来た謝罪を何度も何度も繰り返す。
そして、芝原もようやく抱えていた罪を告白する。
「ごめんよぉ、あの日だけはどうしても遊ぶ気になれなくてサボっちまったんだ。それで、お前が事故に遭ったって聞かされて……。どうしよう、俺のせいだ。俺のせいで雄太郎がって……」
落ちた雫がコンクリートを濡らしていく。涙も拭うこともせず、抱えていた想いを一気に吐き出していく。
「だから気まずくてお見舞いにも行けなくて。時間を置いたらますます行きづらくなって」
「…………」
「それから俺、人との付き合い方がダメになっちまって……。無理しても他人に合わせるようになったんだ」
そういうことか。
響里は昼休憩や下校時のことを思い出していた。他のクラスの生徒たちからの誘い。“友だち”という単語に過敏に反応していたのは、このトラウマがあったからなのだ。
「はは、なんだそれ」
望月は困ったような笑みを浮かべた。
「そうか。要はすれ違いだった……ってことか」
「ごめんな、ごめん。雄太郎……」
「……もういいって。俺も悪……かった……」
互いの謝罪。ようやく訪れた和解に、響里の頬が緩む。
彼らの物語は一応の完結を迎えた。後は現実世界でどう向き合っていくのか、だ。とはいえ、これだけ己の想いをぶつけたのだ。あまり心配する必要もないだろう。
「え……」
芝原の瞳が大きく見開かれる。
まるで眠りに落ちるかのように安らかな望月の全身が、燐光に包まれていた。彼自身もこの現象がどういったものか理解しているらしく、満足げに言った。
「夢の時間も……終わりのようだな」
「どど、どういうこと……?」
動揺する芝原の疑問に、望月当人も響里も答えようとはしなかった。
望月はこの世界から消える。現実世界に還るのだ。宮井のときもそうだったが、自らの野望が潰えたその瞬間に、存在は排斥されるようになっている。
それこそが聖傑の使命。戦う理由――なのかは定かではない。現実世界を汚す異界を消滅させるために選ばれた聖傑の資格を、響里はまだどう受け止めればいいのか分からないでいた。
「…………?」
空を凝視していた響里は、眉をひそめた。
赤く焼ける空が暗がりを帯び始める。現世でも異界でも変わらない一日の終わりが来ようとしている。
そう、終わりが。
「消えない……?」
怪訝に呟かれた一言に、芝原が響里に問う。
「どうしたんだ、響里……?」
響里は瞳をぎゅっと閉じた。至ったその真実を理解し、唇を噛み締める。胸に溜まった空気を薄く吐き出しながら、視線を望月に移した。
「やっぱり……天権は貴方じゃなかったんですね」
「……ああ」
異界の創造者である天権が消えるとき、異界もまた消滅する。望月の足元は既に霧散し始めている。にも拘らず、この世界は何の変化も生じない。それこそが答えだった。
「俺はここに誘われただけだ。入院生活を送っているときにな」
「それは誰に? 提供者ですか?」
自然と語気が強くなっていた。
「分からない」
硬質な声で望月が返す。
「得体の知らない黒い影だ。それがいくつもまとわりついて、それから逃げていたらいつの間にかここにいた」
「それって俺たちも見たあの……?」
「そうだね、きっと」
芝原の不安そうな問いに、静かに頷く響里。
喜美塚たちとは微妙にパターンが違うものの、望月もまた標的の一人だったということなのか。天権が別にいて、現世の人間をさらに混ぜて異界を混沌とさせる……。そこに一体どんな目的があるというのか。
「お前たちも、あの病院裏の扉から入ったのか」
「はい。では、提供者は見ていないんですね?」
「それが何なのか……意味が分からないが……。俺はただこの息苦しい世界で、どうにかして生き抜くため……もがいて……だけだ」
言葉が聞き取れなくなってきた。
望月の身体は、上半身を残すのみとなっていた。この期に及んで嘘は言わないと信じているが、情報はこれ以上得られそうにもない。
「おい、雄太郎!」
「バカやろ……。あっち……戻れ……また会えるだろ……が」
もうじき消えてしまう望月を前に、狼狽える芝原。そんな彼らを他所に、響里は冷静だった。そして、ふと湧いた疑問にぶち当たっていた。
望月は天権ではない。となれば、新たな問題が出てくる。
(これって俺たちは帰れないパターンなんじゃ……)
激しく頭を抱える響里。このままここに居残り、天権を探し回らなきゃいけないのか。それを倒してこの異界をぶっ壊す……現世に帰還する方法はそれ以外に知らない。異界にどれだけいても現世はそれほど時間が経っていないからさほど心配は要らないのだが、さすがにそれは疲れる。もう気力はゼロだ。せっかく一件落着していい雰囲気なのに、野暮なことを言ってぶち壊したくもない。
「なんだ? 戻り方……分からない……のか?」
途方に暮れている響里に、望月が尋ねた。
「ああ、はい……」
「変な……ヤツだ。すごい……力は持ってるくせに……。仕方ない……な」
呆れたように溜息をつく望月。直後、響里の背後で強烈な光が生まれた。
振り返ると、そこにはあの白い扉があった。
「な……」
「俺からの詫び……だ。受け取……くれ」
「そんな、どうやって……」
「俺にも……分からん。単純にイメージしたら……出て……きた」
そんなバカな、と啞然とする響里。異界に渡った人間はもしかして扉を自由自在に生み出す能力があるのかと頭が混乱するが、普通に怪しい。が、これはある意味で奇跡だ。お言葉に甘えるより他ないだろう。
「じゃ……な……」
穏やかな望月の顔も光と化して、風に乗ってさらわれていった。その様子を、芝原はしばらくの間黙って見届けていた。やがて、ゆっくりと立ち上がり、響里に背を向けたまま言った。
「帰るか、俺たちの世界に」
「……うん」
散々泣きはらしたその顔は、少しだけ大人びたように響里には映った。




