突然の来訪者
明日香と初めての喧嘩をした翌日の朝、目覚めてからしばらくの間ぼ~っとしたあとで枕元にある携帯を手に取って見ると、そこには拓海さんからのメッセージが入っていて、『ちゃんと病院に行っておくんだよ?』という言葉と共に俺の体調を気遣う言葉が添えられていた。
由梨ちゃんが言っていた様に、拓海さんは本当に良い人だ。俺もこんな気遣いのできる男になりたいもんだと切に思う。
拓海さんの気遣いに感謝をしながら言われた通りに病院へ行く事にした俺は、どうしても一緒について来ると言う明日香と一緒に病院へ向かった。そしてかかりつけの病院に着いて診察をしてもらうと、無茶をしたせいか思っていたよりも身体はダメージを受けており、それと同時に夏風邪もひいていたから、『三日から四日は安静にして下さい』と医者に言われてしまった。
そんな経緯もあり、俺は今、自宅のベッドで大人しく横になっている。
「お兄ちゃん、起きてる?」
そっと開けられた部屋の扉から明日香が顔を覗かせ、小さな声でそう尋ねてきた。
「起きてるよ、どうかしたか?」
「もうすぐお昼になるから、その前にお買い物に行って来ようと思うの。だから行く前に何かして欲しい事は無いかなと思って」
明日香は今回の一件をかなり気に病んでいる様子で、あれから付きっきりで俺の面倒を見てくれている。俺は『そこまでしなくていいよ』と言ったんだけど、明日香は俺が完全に治るまで看病するという意志を断固として曲げなかった。
そんな明日香の意志の強さは、自分の布団を俺の部屋に持ち込んで来ている事からも窺える。なんとも情の深い妹だとは思うけど、少し思い込みの激しいところもあるみたいだ。
「それじゃあ、何か飲み物を持って来てもらっていいか?」
「うん、分かった、待っててね」
にこやかな笑顔を浮かべて扉を静かに閉じ、一階へ下りて行く明日香。どことなく嬉しそうにしている様に感じるけど、もしかすると明日香は人の世話を焼くのが好きなのかもしれない。
「――それじゃあお兄ちゃん、買物に行って来るね」
「ああ、車には気を付けるんだぞ?」
「うん、分かった」
二分ほどで戻って来た明日香から飲み物が入ったペットボトルを受け取ると、明日香は子猫のイラストが描かれたエコバッグを持って買物へ出掛けて行った。
そして俺はベッドの上で上半身を起こし、明日香から受け取ったペットボトルの蓋を開け、中に入っているオレンジジュースをゆっくりと飲んで喉を潤し始めた。そしてジュースを飲みながら部屋にある壁掛け時計に目をやると、午前十一時を少し過ぎた所を指し示していた。
俺はペットボトルの蓋を閉めてベッドの横にある小さなテーブルの上に置き、再びベッドに横たわって天井を見る。
こうやって大人しくしていると、やけに時計の秒針を刻む音が大きく聞こえてくる。おそらくこういう時でなければ、秒針の音なんてまともに聞く事も無いだろう。
秒針が刻む規則正しいリズムを聞きながら瞳を閉じ、俺は少しだけ眠りについた。
「――んんっ……」
「あっ、涼君、大丈夫?」
「こ、琴美!?」
目を覚ました俺は、ベッドの隣に居た琴美を見て驚きのあまり上半身を素早く起こした。すると俺の額から可愛い仔犬のデフォルメイラストが描かれたハンドタオルが落ちた。
「涼君、落ち着いて」
琴美はそう言うと優しく俺の上半身を支えながらベッドに寝かせ、落ちたハンドタオルを床に置いてある洗面器の水で洗い絞ってから再び俺の額へと乗せてくれた。
「ちゃんと安静にしてなきゃ駄目だよ?」
小さな子供にでも言い聞かせる様にしてそんな事を言う琴美。俺にはそんな琴美がとても可愛らしく見えてしまい、ただ黙って頷くしかなかった。
「……どうして琴美がここに居るんだ?」
俺は至極当然と言える質問を口にした。すると琴美はその問い掛けに笑顔を浮かべ、ここに来た経緯を話し始めた。
「実はね、また涼君に勉強を見てもらおうと思って訪ねて来てたの。そしたら途中で明日香ちゃんに会って、涼君が病気で寝込んでるって聞いたの。そしたら明日香ちゃんに『私が買い物に行っている間お兄ちゃんが心配だから、良かったら様子を見ていてもらえませんか?』ってお願いをされて、それでこうして様子を見に来たの」
「そうだったんだ……ごめんな琴美、明日香が無理にお願いしたんじゃないか?」
「ううん、そんな事はないから気にしないで、それに私も心配だったし、明日香ちゃんも凄く心配してたから」
「そっか、ありがとう」
「でも、熱中症と夏風邪なんて、夏休みだからって不摂生しちゃ駄目だよ?」
「そうだな、気を付けるよ」
こんな風になってしまった本当の理由など琴美に話せる訳もなく、俺はただ頷くしかなかった。
「それにしても涼君の部屋、昔とはかなり変わっちゃったね」
「琴美が最後に俺の部屋に来てたのって、結構昔の事だもんな」
「そうだね、あの頃は涼君の部屋にもよく来てたのに、いつの間にかそんな事もなくなっちゃったもんね。どうしてかな?」
それは琴美への恋心に気付いたから、だからあえて距離を取った――なんて言えるはずもない。それを言えば琴美を困らせるだけだと分かっているし、言えば幼馴染という関係すらも壊れてしまうから。俺はそれが怖い、どうしようもなく怖い、だからきっと何も言わない、きっと一生何も言えない、何も伝えられない。
「……何でだったかな? 俺もよく覚えてないよ」
だから俺は曖昧にそう答えた。全てを曖昧にして誤魔化して、何の変化も無い関係を続けようとした。
「そっか、そうだよね……」
「……琴美、俺は大丈夫だから帰っていいよ?」
「私が居ると邪魔かな?」
「い、いや、そんな事は無いよ! だけど風邪をうつしちゃったら悪いしさ……」
安静にさせていた上半身を再び起こし、俺は急いでその言葉を否定した。
俺が言ったその言葉に嘘はない。ただ、ここに琴美が居る事の気まずさを感じていると言うのが最大の理由だった。
「あの……間違ってたらごめんね? もしかしてだけど、私の事を避けてる? 私、涼君に嫌われてるのかな?」
その言葉を聞いた俺はいつになくドキッとしてしまった。自分の心の内を見透かされているかの様な不安と、琴美を誤解させてしまっている事への自己嫌感があったからだ。そして俺は動揺のあまり、琴美がしてきた質問に答えられないでいた。
「あっ、ごめんね、変な事を聞いちゃって……」
何も答えられないでいた俺に対し、琴美は優しげな笑みを浮かべて謝った。そんな琴美を見ていると、このまま黙っているのは卑怯な気がした。
「琴美は悪くないよ、悪いのは俺だからさ……」
張り裂けそうな胸の鼓動に耐えながら、俺はなんとかその言葉を言う事ができた。
「あの……あのさ、俺って口下手だし、思ってる事をちゃんと言えないところもあるけど、琴美を嫌ってなんかいない、絶対に」
「本当に?」
「本当だよ、だって俺は……だって俺は琴美の事が――」
「お兄ちゃーん! ただいまーっ!」
俺が次の言葉を口にしようとした瞬間、部屋の扉が勢い良く開き、買い物袋を抱えた明日香が部屋の中へと入って来た。
「あ、ああ、お帰り明日香」
「あー! やっぱりちゃんと寝てなかった!」
明日香は『困ったお兄ちゃんだなあ』と言いながら、俺の上半身を押して寝かせようとする。
「琴美お姉ちゃん、お兄ちゃんの面倒を見てもらってありがとうございます」
「あっ、ううん、どういたしまして」
「ありがとうございます、あの……ついでと言ったら悪いんですけど、良かったら料理を教えてもらえませんか? お兄ちゃんから料理が得意だって聞いているので」
「うん、いいよ、それじゃあ一緒に作ろっか?」
「ありがとうございます!」
「それじゃあ涼君、私は下で明日香ちゃんとお料理を作って来るね」
そう言うと琴美はスッと立ち上がり、部屋を出て行った。
「お兄ちゃん、ちゃんと寝てなきゃ駄目だからね?」
まるで子供に言い聞かせる様にしてそう言うと、明日香は琴美を追って部屋を出て行った。
「はあっ……」
色々な緊張から解放され、俺は大きく息を吐いた。それにしても、いきなり明日香が登場したのには驚いたけど、来てくれて助かった。もしもあの時に明日香が来ていなければ、俺は多分、その場の雰囲気と勢いに任せて琴美の事が好きだと言っていたと思うから。
ほっとした気分とモヤモヤした気分を同時に抱えながら、額に乗せられたタオルが既に冷たさを失っているのを感じて手に取る。そして琴美がこれを額に乗せてくれた時の事を思い出してニヤニヤしながら、俺は小さな幸せに浸っていた。




