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論破は議論?

 ネット上では、議論で論破できた者が勝者になるらしい。

 たとえば、「〇〇が某氏を論破」というフレーズをときに目にする。以前にテレビをみたときも、「論破」という言葉を使わないが、「〇〇が〜の嘘を暴露する」と表現していた。週刊誌であれば、より強い表現を使用する。電車の吊り広告からは、そのことが伺える。


 しばしば、日本で使用される「論破」という表現は、誰かが展開している主張Aがあって、その過ちや問題点を指摘することで果たされる。よくあるのは、ある政治家の主張が、対立する政治家の批判で間違っていると提起される場合だ。そして、テレビやネット上だと、まる論破したものが勝者となり、主張Aを唱えていたものが敗者となる。極端な場合であれば、敗者は悪者のように扱われる。


 つまり「論破」は勝ち負けと関連し、口撃しあうのが議論だと思われている。だから、たいていの日本人は議論を避ける。わざわざ人前に出て、口撃を受けたくないわけだ。それはある種の防御反応だといえるし、いたって普通の反応であるといえる。


 ただ、少し考えてみると、論破は役に立たない。役に立たないというのは、自分以外の他人のためにならないと言う意味で役に立たない。なぜなら、先の例のように、「主張Aを◯◯が批判し、論破した」としても、現実的には代替案を提案しないかぎりは主張Aが実行されるからだ。たとえばどんなかっこよく相手の意見を否定できたとしても、「で、どうすればいいの?」に答えることができなければならない。それに応答しなければ、「現状は主張Aぐらいしか実行できる案がないので、主張Aを採用します」という話になってしまう。

  

 さらにいえば、完璧な主張や意見というのはない(あるとすれば、あまりに問題が単純な場合ぐらいでhはないだろうか)。多数の人間を巻き込む問題であれば、解決策は様々あるものだ。どれが良いかはそのときの条件や環境、未来を考慮した結果で決められる。それでも問題点というのは残っていて、そのデメリットをある程度は抑えつつも、デメリットと引き換えにある提案を実行に移すことになる。

 そう考えると、論破というのは簡単できる行為だ。どうしても生じる問題点を突くだけでいいわけだ。増税であれば、「生活が困る人がいる」と叫べばよい。

 

 議論は、論破よりも後の段階を指す。議論は問題点を考慮し、それを表に出して考える。「増税をすれば、たしかに経済的な圧迫が生じる。しかし、〇〇というメリットがある」という話し合いが議論である。そして、そのメリットとデメリットを天秤にかけて、どこまでのデメリットであれば許容できるか、あるいはデメリットを可能限りで抑えることはできないか、そういうことを考え話し合うことが議論だと僕は考える。

 もし増税をしたくないのであれば、増税で解決しようとする問題を、増税以外で解決できるのかを考えなければならない。つまり、増税に反対して喜ぶだけでは、議論は終わらない。その先の問題を考えるのも議論である。議論が議論を呼ぶ。世界を見渡すと、いかに問題がいたるところにあるのかが見えてくる。


 ここまで考えてみると、論破というのが動物的な反射に思えてくる。すなわち、「なんか、いや。だから、口撃」という感覚が「論破」という行為だ。何が問題となっているのか、そういう観点はそこにはない。だから、論破した人には次のように問わないといけない。「では、どうしようか?」と。そこてやっと議論が始まる。

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