もしかして、「わたしは悪くない」と言うつもり?
インターネットの評価を気にする知人がいる。
一緒にご飯を食べに行くにしても、彼はネットで下調べをしてからメニューを頼む。「このお店は、〇〇が有名」とか、「□□がおいしい」という。僕は、「君が食べてみて、はじめておいしいかどうかわかるのでは?」と言うが、聞く耳を持たない。彼は、自分がみんなと同じと思っている。純粋な人だと思った。
彼は、事前に考えてきたメニューを頼み、それを平らげて満足げな顔をする。きっと、自分が考える最善の選択をしたことを喜んでいるのだろう。料理の味については、二の次かもしれない。そんな彼は、出てきた料理を食べる前に、しっかりと写メを撮る。「撮影したものは、見直したりするの?」と尋ねると、「いや、しない」と言う。それでも写メを撮る理由を聞くと「記憶に残すため」らしい。「記録に残すため」の勘違いではないかと思った。
そんな彼が、たまたまお店の下調べをしていなかったことがあった。そこは鍋のスープが選べる場所で、客自身が6種類から1つのスープを選択する。選ぶのが好きな彼に選択を任せたところ、彼は戸惑った。どうやら、調べていないらしい。いままさに店員がくるにも関わらず、彼はスマートフォンを取り出し、みんなが何を選択しているのか、みんなが何を高評価しているのかを調べようとする。さすがにその姿を見て僕は呆れてしまった。
インターネットは、みんなの情報が集まっているわけではない。インターネットは、たしかに世界とつながっている。だけど、多くの日本人は、日本語のサイトを見ると思うが、その時点ですでに日本に限定されている。インターネットの世界に高齢者は少ないだろう(将来的には増加すると思うが)。インターネットの書き込み欄に、書き込みをしている人はごくごく一部だ。不特定多数が見るテキスト欄であれば、なおさらだ。しかも、一人の人間が何度も書き込みができるから、同じ人が複数書き込みをしている場合もある。極端の話、みんなを一人の人間でつくることもできる。
動画サイトもみんな見ているわけではない。どんなに視聴率が高くても、知らない人は山のようにいる。Youtubeでミュージックビデオ再生回数が世界一のビデオを知っているだろうか。この文章を執筆している現在、一位はスペイン語の音楽である。50億以上の人が見ている。だからといって、この音楽をみんな知っているわけではない。みんなは、みんなではない。「みんな」という抽象的な名称が、事実をあまりにシンプルにしてしまっている。
そんな、みんなではないみんなを彼は信頼している。僕は呆れてしまったが、それで彼が幸せであるなら仕方がない。だから、僕は彼を非難しない。だけど、もし彼が思う「みんな」に合わせた結果が、想定していない結果を導いた時に、「わたしは悪くない」と言わないでほしい。僕は、途方に暮れてしまうから。




