この本を手にする読者について考える
作品を出して、そこに値段がついていない(要するに無料)という点で、私は素人の文筆家といえる。では、なぜエッセイを書くのかといえば、何か文章を書くことで「考える」ということができるからだ。頭の中で悶々と考えるのも、それはそれで愉快ではあるが、アウトプットしようと試みることで自分にも想像がつかなかったことを思いついたりするものだ。
とはいえ、人が見えるように公開しているかぎりにおいて、私は読者の方に少しでも有益な話をしたい。それは何か直接的なアドヴァイスになるようなものではない。なぜなら、その人の性格やその人の周囲の環境を知らない限り、アドヴァイスは有効ではないからだ。僕は、ただ「こういう視点もあるのではないか」という提案をしている。
では、読者からみればこのエッセイはどのように見えるのだろうか。良いように解釈する人からすれば、「このエッセイはシンプルでわかりやすい文体」と捉えるかもしれない。しかし、穿った見方をする人からすれば、このエッセイは、青二才が小難しいことを言いたいだけのものに見える。「生きるとは」「愛とは」というフレーズは、それを言い出すだけ面倒な人間に思われるものだ。
僕としては、しかしそういう小難しいことを一度は真剣に考えてみてもいいのではないかと言いたい。なぜなら、そういう思考をめぐらすことで、世界が変わるからだ。「そんな大げさなことを言うな」と思うかもしれない。しかし、これが本当なのだ。なぜなら、自分が当たり前と思っていたことを再考した結果、自分が抱いていた常識を違った風に解釈し直すことは、世界の捉え方の変更を意味するからだ。つまり、自分が変わるから世界が変わる。これは至極当然のことと思われる。
この変化を知っているだけ、いかに人生が余裕に溢れ、豊かなものになるか。僕は、哲学を通してそのことを知った。しかし、周囲の人間を見る限りその感覚を持っているひとは少ない。みんなは、世界は自分から独立して存在していると思い込んでいる。たしかに、それは自然科学が前提する世界観ではあるが、少し考えて見るだけ、その世界観は不思議に思える。たとえば、盲目の人から見る世界と生まれたときから視覚が正常な人は、同じように世界を捉えているのだろうか。否である。もし盲目の人が光を感じることもできないほどに盲目であれば、その人の世界に色というものは存在しえない。
これまでに言及してきた話でいえば、「好きと嫌い」という基準だけで人間関係を捉える人からすれば、世界における人間関係は、その基準だけで成立している。僕は、そういう基準がよろしくないと偉そうにいいたいわけではない。僕は、そこまで賢くないし、人様に指摘するほどの立場にもいない。ただ、「そうではない捉え方もありうる」ということを僕は示したいのである。
このエッセイの読者の中には、エッセイをいらいらを感じた人もいるかもしれない。というのも、しばしば人間は、自分自身と異なる意見や考えに抵抗感を抱くからだ。それでも辛抱強く読む人がいるとすれば、その人が求めているのは僕ときっと同じであろう。すなわち、何かを「考えたい」のである。




